七十話
その日から、ずっと柚希は落ちこみ沈んだ顔を続けていた。A組を覗くと俯いた背中が見える。しかし見るだけで、すずめには何もできなかった。歯がゆい思いでB組に戻ると、圭麻が声をかけてきた。
「ヒナコ。これ、昼休みに柚希に渡してやって」
圭麻が差し出してきたのは手作り弁当だった。
「圭麻くんが作ったの?」
「あまりにも柚希が哀れだからさ。でも、俺じゃなくてヒナコが作ったって話すんだよ」
「ええ? そんな……。あたし料理したことないのに」
「ヒナコの方が嬉しくなるだろ? ただ渡すだけじゃなくて、二人で食べてあげるんだ」
圭麻は蓮に視線を移し、珍しく穏やかな口調で言った。
「しばらくヒナコは柚希のものってことで。邪魔するなよ」
「俺がいつ邪魔したんだよ。まあ、どうでもいいけど」
「よし、決まり。じゃあヒナコは昼休みに渡しに行くんだよ。少しでも柚希が明るくなれるように」
「う、うん。ありがとう……」
圭麻の心の優しさに感動し、胸が暖かくなった。
自分の弁当と圭麻の弁当を抱き締めてA組に向かった。しかし柚希の姿はなかった。慌てて探しに行くと、以前本の整理をした第二図書室にいた。机に突っ伏して小さく震えている。いたたまれなくなり、その場から立ち去ろうかと弱気になったが、勇気を振り絞ってドアを開けた。
「柚希くん……」
囁くと、柚希はゆっくりと起き上がった。色を失くした瞳からたくさんの涙が溢れ、机の上には雫が溜まっている。
「す、すずめちゃん。いたの?」
「一緒にお弁当食べようと思って。これ作ったんだ。よければどうぞ」
「お弁当? すずめちゃんの手作り?」
本当は圭麻が作ったものなのに、と罪悪感が生まれたが、素直に頷いて柚希に渡した。
「最近、柚希くん元気ないよね。悩んでるみたいだったし、心配してたんだ。大切な柚希くんのために頑張っちゃったよ」
にっこりと笑って、すずめもとなりに座った。蓋を開けて、から揚げを口に放り込んだ。
「保健室の先生に教えてもらったんだけど、柚希くん、体中に怪我があるんでしょ?」
「ああ。聞いたんだね。見てみる?」
「え?」
箸を置き、柚希はネクタイを取りボタンを外し、シャツを脱ぎ捨てた。スリムで華奢な胸や腹に、痛々しい青痣が浮かびあがっている。かなり激しく強く殴られたと見ただけでわかった。
「酷い……。こんなに傷だらけなんて……」
愕然として口を覆うと、柚希は背中を向けた。後ろは鋭いひっかき傷や、刃物で切りつけた跡が残っていた。
「全部、あの男たちがやったの?」
「そう。二度と家出なんかしないって泣いて謝っても、信じられない。もっとやれって母さんが命令して。ひっかき傷は猫にやられた。桃花が、この背中で好きなだけ爪とぎしなさいってね」
「それって犯罪じゃないの? 警察呼んだ方がいいよ」
「いや。呼んでも、これは家のしつけなんだって言い張るよ。うまく話を作って、絶対に捕まらないようにね」
「どこがしつけなの? これは完全に虐待だよ。お母さんも桃花ちゃんも犯罪者だよ」
憎しみが込み上げて、勢いよく立った。しかし柚希は首を横に振った。
「すずめちゃんの思いはよくわかるし、俺もしつけにしてはやり過ぎだって考えてる。だけど、もし母さんと桃花が捕まったら、父さんの顔に泥を塗ることになるよ。俺も犯罪者の息子になっちゃうだろう。我慢するしかないんだ」
そして脱いだシャツを着て、弁当の続きを食べた。
「……ただ傷つけられるなんて、あたし悔しいよ……。ねえ、今日からあたしの家に泊まって。あの屋敷に帰ったら、もっと酷い目に遭うかもしれないよ。狭いし古いけど、これ以上柚希くんが痛めつけられるのは嫌だよ。お願いだから」
「ごめんね。それは無理だよ」
固い表情で、もう一度首を横に振った。わかった、と答えると予想していたため、驚いて目が丸くなった。
「ど、どうして」
「きっと俺がお家に泊まったら、すずめちゃんにも殴りかかるよ。容赦しないだろうし、母さんも桃花もすずめちゃん大嫌いだから、とんでもないことをするんじゃないかな。すずめちゃんまで怪我したら、俺もう自分が許せない。すずめちゃんが傷つくのは死ぬより辛いから」
切なさと悲しみで、ぽろぽろと涙が流れた。
「すずめちゃん、泣かないで」
柚希が柔らかく抱き締めてくれた。ぎゅっと腕の力が強くなっていく。また足りなくなった愛を補充しているのかもしれない。少しでも明るくなるなら、心地よくなるなら、いくらでも愛情を注いであげたい。
「ごめん。だけど、本当に限界になった時は、あたしの家に泊まって。迷惑だとか遠慮とかは一切しなくていいから」
「ありがとう。すずめちゃんは優しくて暖かくて、すごく癒されるよ。すずめちゃんの息子として産まれたかったな」
ごしごしと涙をこすり、すずめも笑顔になった。
「お弁当、おいしかったよ。一緒に食べられて嬉しかった」
そっと空になった弁当箱を差し出され、すずめもしっかりと頷いた。作ったのは圭麻なのにと、また罪悪感が生まれたが、にっこりと微笑んだ。
「お腹いっぱいになった? 満足した?」
「久しぶりにたくさん食べたよ。天内くんにも、ごちそうさまって伝えておいてね」
「え? 圭麻くん?」
「うん。弁当箱に、天内って書いてあるよ」
柚希が指を差した部分に確かに名前があった。軽い口調で柚希が続ける。
「すずめちゃんが作ったってことにして、俺に渡したんだろう? 天内くんって意外とおっちょこちょいなのかもね?」
「なんだあ。バレてたのか……」
「食べてる途中で、あれ? ってね。それに、すずめちゃんって料理作ったことないんじゃなかった?」
「そう。いつもお母さんに任せっきりで。圭麻くんって、ご飯作れてすごいよね。男の子なのに料理上手で羨ましい」
「そういうのが趣味なのかな?」
「趣味というか、お母さんが亡くなったから嫌でも家事はしなきゃだめだしね。お姉さんもいるけど、今は出て行っちゃったから」
「そっか。寂しいよね。可哀想だな」
「柚希くんも同じくらい可哀想だよ。蓮くんも、もちろん」
三人の王子様の共通点は、理想の母親がいないことだと改めて知った。子供にとって母親はかけがえのない存在だし、決して失くしてはいけないのに、その母親が冷たい態度をとっていてはどうしようもない。
「ただ、今は姪っ子の流那ちゃんが遊びに来たりして、割と楽しそうな感じがするよ。柚希くんにも会わせてあげたいな。とっても可愛くって、叔父の圭麻くんと結婚するのが夢なんだって」
「へえ。まだ高校生なのに姪っ子がいるんだ。すごいなー」
微笑んでいる柚希に、ほっと息を吐いた。やはり柚希には笑顔が似合う。あんなに沈んで瞳が真っ黒の姿など二度と見たくなかった。




