六十九話
翌日も、さらに翌日も柚希は学校に来なかった。やっと現れたのは四日後だった。しかし普段とはうって変わって笑顔はなく口も開かず、ずっと俯いていた。ファンクラブのメンバーは避けていて、誰も名前すら呼ばなかった。休み時間に廊下で会い、すずめは勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あの……。話があるの。でもここじゃできないから、ついてきて」
くるりと振り向いてすずめが歩き出すと、柚希もゆっくりと歩き始めた。
空き教室に入り、軽く深呼吸を繰り返してから柚希の目を見つめた。明るく可愛らしい子犬の瞳には、光がなく真っ暗だった。体は生きているけれど心は死んでいるというイメージだ。この状態の柚希に、さらに冷たい言葉を浴びせるなど本当はしたくないが、しっかりと伝えておこうと考えた。
「ごめんね。あたし、もう……。柚希くんと仲良くするのやめる」
「え?」
「だって、お母さんに別れなさいって言われたんでしょ? なら命令に従うしかないよ。一緒に出かけたり、おしゃべりするのもやめにする。そうしないと、退学されちゃうもん」
衝撃を受けた表情で、柚希は慌てて両肩を掴んだ。
「い、嫌だよ。どうしてそんなこと……」
「それに、柚希くんはモテモテで、別にあたしと一緒にいなくても彼女はできるでしょ?」
「だめだよ。俺は、すずめちゃんがいなきゃ……。すずめちゃんじゃなきゃ嫌なんだ。もし離れ離れになったら、生きていけないよ……」
「生きていけない?」
「俺にとって、すずめちゃんは生き甲斐なんだよ。すずめちゃんがにっこり笑ってくれるから、毎日元気に過ごせるのに。別れるわけにはいかないよ」
ぼろぼろと涙が溢れ、動揺した。男子が泣く姿は慣れていないため、とても緊張する。
「な、泣かないでよ。お願いだから」
そっと頬に触れ、ぎくりとした。目ではよくわからなかったが、何度も殴られた跡があった。まさか、あの男たちに傷つけられたのか。
「それとも、すずめちゃんは俺が嫌いなの? 俺がいると、母さんに会うかもしれないし危ないって」
「違うよ。こんなにいつもお世話になってるし、柚希くんが嫌いになるわけないよ。でも、退学は本当に避けたいから……」
「じゃあ、母さんにバレないように会えばいいんじゃない?」
「え?」
「二人きりで誰もいない場所なら、今まで通り仲良くできるんじゃないの? 俺は絶対に……すずめちゃんを失うなんて耐えられない。どうか、いつまでもとなりで笑っててほしい。俺を癒してくれるのは、すずめちゃんだけだ」
すずめだって、柚希と離れ離れになるのは嫌だ。あの優しい言葉と穏やかな態度を二度と味わえないのは悲しいし、中学一年生から片想いしている王子様とさよならするなんて考えたくない。
「大丈夫かな? またどこかであの男たちがこっそり覗いてるかもしれないよ?」
「そうだけど、俺には友だちが一人もいないんだ。初めてなんだ、こんなに自分の気持ちを誰かに話せるのって。みんなお金持ちだから、きっと幸せで悩みなんてないんだろうなって見てると思うけど、実はストレスとプレッシャーでぱんぱんだって教えたのは、すずめちゃんだけだよ。すずめちゃんは、俺の話をしっかりと聞いてくれるだろう? ただそれだけでも、ほっとできるんだよ」
柚希の言葉は、痛いほどすずめの胸に響いた。ようやく出会った大切な人と離れたくないと必死なのだ。どきんどきんと緊張し冷や汗が流れたが、無意識に答えた。
「……わかった。お母さんに見られないところで、またおしゃべりしたり出かけたりしよう」
「すずめちゃんと二人暮らしできたらいいのに……。朝から晩まで、すずめちゃんを独り占めできたら……」
そして、ぎゅっと抱き締められた。柚希は、すずめの髪に顔をうずめて、ぐいぐいと体の距離を縮めていく。たぶんこうすることで、足りなくなった愛を胸に補充しているのだろう。しばらく立ち尽くして、やっと腕を放してくれた。
「怪我してるよね? 殴られたの?」
また頬に触れて聞くと、柚希は小さく頷いた。
「自分勝手なことをしたからね。本気で殴られたよ。俺を捕まえに来た男たちに。その俺を見て、母さんも桃花も嬉しそうに大笑いしてたよ。いい気味だってね」
「嬉しそうに大笑い?」
憎しみが込み上げてきた。血も涙もない奴ら……。息子を何だと思っているのか。だが、すずめにはどうしようもなかった。村人には女王様に楯突く力など持っていない。ただ黙っているしかない。
休み時間終了のチャイムが鳴ったため、空き教室を後にした。席に座ると圭麻が話しかけてきた。
「柚希に伝えたの? 仲良くするのやめるって」
「うん。でも離れ離れになったら生きていけないから、お母さんが見ていない場所で付き合うってことになったよ。あたしが生き甲斐なんだって」
「生き甲斐か。まあ俺もヒナコを命よりも大切って思ってるけどね」
「ええ? そうなの?」
「そうだよ。ヒナコが学校を休んだら、お弁当の味もしないよ。ただ会えないってだけで、かなり辛いんだから」
そこまで好かれているなんて、と嬉しくて頬が火照った。しかし、ふと横から蓮に睨まれていると気づき、はっとした。エロ男に騙されているなと目線で感じた。
「そういえば、柚希くん怪我してて……。家出したから、罰として殴られたみたい。傷ついてる柚希くんを、お母さんと桃花ちゃん大笑いしたらしいよ。あたし許せない」
「罰? 家から出たってだけで殴るなんて悪魔と一緒だな。哀れで泣けてくるよ。どうすればそこまで性格悪くなれるんだろうな」
「いちいちイラついたって、あいつらの問題なんだし考えても無駄だろ」
突然、蓮が口を出してきた。すぐに圭麻が聞く。
「蓮は、柚希が可哀想だって思わないのかよ?」
「そりゃあ可哀想とは思うけど。魔法使いでもヒーローでもないんだから、恨んでも仕方ないだろ」
昔の自分が蘇ってきたのか、とても固い口調だった。結局、他人には助けることも護ることもできない。親に虐待された経験を持つ蓮にしか知らないものがあるのだ。蝶よ花よと育てられたすずめには全くわからない、寂しさや空しさが存在するのだろう。
「心配したっていいでしょ? 迷惑はかけないんだから」
「まあ、迷惑にはならないな」
あっさりと蓮は答えると、口を閉じた。
昼休みはA組の教室を覗いてみた。柚希はまた俯いて座っていた。女の子に囲まれているのが普通なため、とても不思議な光景だった。じっと遠くから見つめていると、ファンクラブのメンバーの一人が質問をしてきた。
「なあに? どうかしたの?」
「い、いや……。ゆ……じゃなくて真壁くん、今日やけに暗くない?」
「ああ。おはようも言わないし、おかしいのよね。そっとしておいてあげて」
「お弁当は? まだ食べてないんじゃ」
「食欲がないんだって。とにかく、そっとしてあげようよ」
ね、と微笑んだ子の気遣いに、見習わなくてはと自分に言い聞かせた。誰だって隠したい秘密や、一人にしてくれという思いはある。根掘り葉掘りをして無理に首を突っ込むのはやめようと考え、柚希の方から詳しく打ち明けるまでは、あまり関わらないと決めた。いつか、柚希が本当に家を出て一人暮らしを始めた時に、「よかったね」と伝えに行けばいい。
くるりとB組に戻ると、圭麻が聞いてきた。
「柚希どうだった?」
「相当、傷ついてるみたい。お弁当も食べないんだって」
「食べないんじゃなくて、作ってもらわなかったんじゃないか?」
「え?」
「愛情の欠片もないような奴なんだぞ。勝手な行動をしたから、弁当用意してくれなかったんじゃないの?」
確かにそれはあるかもしれない。あの性格なら、柚希が空腹で苦しんでいても平気でいられるし、可愛がっているのは桃花なので、持たせなかったという想像は簡単にできた。
「酷すぎるよね。まさに悪魔だよ。よく今まで耐えてきたよね、柚希くん」
「俺だったら、とっくに家出てるな。そんな奴らと一緒にいたら頭パンクしそう」
「あたし、さっさと連れていけばよかった」
ぐっと拳を固めて呟いた。もたもたしていたせいで、柚希は車に乗せられてしまったのだ。何も言わずに走って帰れば、捕まえられなかったのに。
ただ実を言うと、すずめも戸惑っていた。突然、柚希が現れたら二人とも驚くだろうし、もしボロが出てずっと片想いしていたと知られたらどうしようと焦ったのだ。柚希は普通の男子ではなく、イケメン王子なのだ。いきなり泊まると話したら、どう接したらと困ってしまう。礼儀正しいので不愉快な態度もわがままもないだろうが、かっこいい男の子に慣れていなければ緊張でいっぱいだ。すずめだって最初はうまく心が読めず、どうして怒るのかどうしたら機嫌が直るのかと振り回されてばかりだった。もちろん、今でも全く理解できていない。
「ヒナコ? 大丈夫?」
圭麻に肩を叩かれ、はっと我に返った。
柚希を一番傷つけたのは、どんくさかった自分だと無意識に責めていた。しかも仲良くするのはやめるなど、さらに地獄に落とすような言葉もぶつけ、それなのに柚希はすずめを生き甲斐だと優しく笑ってくれた。次は絶対に家に連れていこうと胸の奥で決意した。
放課後もA組を覗いてみたが、柚希の姿はなかった。もう帰ったのかとクラスメイトに聞くと、「保健室で寝てる」と教えられた。
「保健室? 具合が悪いの?」
「息が苦しいんだって、急に……。顔も青かったし、みんなびっくりしてたよ」
「な、なに……それ……」
慌ててすずめも保健室に走った。とにかく柚希の状態を見ないとわけがわからない。ドアを叩くと、先生が開けてくれた。
「あの……。真壁くん、どうしちゃったんですか?」
「さっき病院に連れて行ったけど。体中に殴られた跡がたくさんあって、転んだって話してたけどあれは転んでつく傷じゃない。真壁くん、お家が厳しそうだから、もしかしたら……酷い目にあったのかも……」
さすがに先生も険しい顔をしていた。完全に虐待だと、すぐにわかった。
「どんな感じですか? あ、痣とかができてるんですか?」
「詳しくは答えられないけど、あそこまで強く殴るのは、ちょっとおかしいわね。自分の子供にあれほど怪我をさせる親って……。いないわね……」
「息が苦しいって聞いたんですけど」
「ああ。それは心配しなくても大丈夫。少し横になったら、すっきりしたって言ってたし」
「……そうですか……」
やはり無理をしてでも家に連れていくべきだった。片想いがバレようが、振り回されようが別にどうだっていい。むしろ大事な王子様が家にやって来るなんて、奇跡でも起きない限りありえないのだ。「失礼します」と呟き、項垂れたままドアを閉めた。




