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六十七話

「ま、待ってよ。柚希くん」

 慌てて呼び止めると、柚希はくるりと振り返った。

「図書館で宿題なんて……。いつ約束……」

「もちろん嘘だよ。すずめちゃんが困ってたから、居ても立っても居られなくてね。かなり強引だったけど、外に出られてよかっただろ?」

「う、うん。それはありがとう」

 柚希が助けてくれなかったら、今頃どんな酷い目に遭っていたか。きっと喧嘩が始まって冷や汗でいっぱいだっただろう。ふう、と息を吐くと柚希が呟いた。

「あの二人も子供だよね。特に天内くんは、ほしいとなればどんな手を使ってでも自分のものにしようって考えだから。高篠くんは、どうしてイライラしてるのかはっきりと話さないし。すずめちゃん嫌がってるのに気付かないのかな」

「そうなんだよ。柚希くんは、ちゃんとわかってくれて……。蓮くんも圭麻くんも聞く耳持たずなんだよね」

「聞く耳持たずなんじゃなくて、相手に勝って白黒をつけたいんだよ。勝てば他の男に大事なものを奪われないし、かっこいいって尊敬される。人気者になれば自信に満ちあふれるだろ?」

「すでに蓮くんも圭麻くんもかっこいいよ?」

「姿が美しいってだけじゃだめだよ。実際に言ったりやったりしたことが大切なんだ。イケメンだけど、特に努力もせず暮らしてたらかっこよくない。逆に、あんまりモテなさそうな男が偉業を成し遂げたら、かっこいいじゃないか」

 確かにその通りだ。すずめも後者の方が素敵だと感じ、うんうんと頷いた。

「そっか……。じゃあ、勝敗が決まれば二人は喧嘩しなくなるの?」

「さあ。でも、今よりは関係が穏やかになるはずだよ」

 とても想像できない。それに、勝敗が決まっても嬉しくはない。どちらかが負けて傷つくからだ。うまく仲がよくなる術はないものか。

 突然、携帯が鳴った。すぐに柚希が鞄から取り出し、「もしもし」と話した。さっと顔色が悪くなった。

「今日も? 一人でやらせなきゃだめだろ。……わかったよ。しょうがないな」

 短く答えて電話を切った。そっと覗き込んで聞いた。

「お母さん?」

「うん。桃花の宿題に付き合えって。俺を家庭教師だって勘違いしてるのかな……。俺にも勉強があるのに」

「頑固で厳しい性格で嫌になるね。全然、柚希くんの思いなんか考えてないよ。あたしだったら、息子にそんなこと絶対に言わない」

 強い口調で返すと、勢いよく抱き締められた。ぎゅっと力強く、逃げる余裕はなかった。

「うわわっ。ゆ、柚希くんっ」

「俺ね。いつかあの家を出るつもりでいるんだ」

「え? 出る?」

「そう。そして、安いアパートでも借りて、そこで生きていこうって。でも寂しいから、すずめちゃんと二人暮らししたい」

 どきんどきんと鼓動が速くなった。有名会社の後を継げなくてもいいと教えてもらったが、まさかすずめと二人暮らしする夢が生まれたからか。

「もちろん、すずめちゃんの都合もあるからね。お父さんとお母さんに断られたら、仕方ないけど一人で暮らすよ。でも家を出るのは完全に決まってる。ストレスとプレッシャーで爆発しそうな家族とはお別れするんだ」

 すずめも、毎日あの厳格な母に怒鳴られたり叱られたり睨まれたら、どれくらい立派で大きな屋敷でも幸せとは思えない。息苦しく自由がほぼない場所など地獄だろう。

「そ、そうなの。お母さんが探しに来たりは」

「ないよ。俺がアルバイトしたいってお願いした時、もしするなら家に入れてやらないって言われて、愛してもらってないんだって知ったんだ。桃花だけいれば、俺なんか帰らなくたって構わないんだよ」

 だんだん切なくなってきた。柚希ほどできた子供はいない。なぜ、わがままで他人をブス女呼ばわりする桃花ばかり甘やかすのか。偉そうなくせに、子供の気持ちに一つも気づいていない。家を出たいと嘆く姿に、ぽろぽろと涙が流れた。

「……どうして、すずめちゃんが泣くんだよ……」

「可哀想になっちゃって……。ごめん。あたし……。泣き虫で情けなくてだめだよね」

「だめじゃないよ。俺だってあまりにも辛い日は部屋でこっそり泣いてるよ。俺の方が弱くてだめ人間だ」

 声が震えている。こんなに苦しいのに周りには笑っている柚希が哀れで仕方ない。すずめも背中に腕を回し、華奢な体に抱き付いた。

 できるなら、すぐにでも二人暮らしを始めたい。父と母は反対するだろうが、柚希の心の叫びを打ち明けたらわかってくれる。とりあえず今は我が家で過ごして、大学生になってから本当に二人きりの生活と考え直すかもしれない。あれこれと妄想していると、柚希が耳元で囁いた。

「すずめちゃん、俺、もう帰らなきゃ。遅くなったら、さらに厳しく怒鳴られるよ」

 はっとして、回していた腕を外した。一体どこで何をして遅れたのかと詰問されたら嫌なので、頷くしかなかった。

「桃花ちゃんの勉強……。頑張って……。愚痴ならいつでも聞くよ」

「大事なすずめちゃんに愚痴るなんてできないよ。すずめちゃんも気を付けて帰ってね」

 手を振りながら、柚希は歩いて行った。小さくなる後ろ姿を眺めながら、また涙が溢れてきた。ごしごしと拭い、すずめもゆっくりと道を進んだ。



 やはり、蓮も柚希も圭麻も理想の母がいない。圭麻の母は優しかったみたいだが、亡くなっているので愛されていないのと同じだ。子供にとって、最も信頼できるのが母なのに、冷たい態度だったら誰を信じたらいいのか迷ってしまう。足りなくなった愛情を埋めるために、三人の王子はすずめの近くにやって来るのだ。すずめが母親だったらよかったのに。次は、すずめの子供として生まれたい。しかしそれは叶わない。空しくて寂しくて、無意識に俯いていた。

「ただいま……」

 そっと呟くと、知世がすぐに返事をした。

「おかえり。遅かったねえ。もう七時だよ?」

「エミと喫茶店でお茶飲んでたの」

「やけに暗いね。学校で嫌なことでも起きた?」

「別に。嫌なことなんか」

「今夜は、すずめの大好物のから揚げだよ。たくさん作ったから、食べて元気なすずめに戻って」

「え? やったあっ。お母さんのから揚げ大好きっ」

 一気に喜びで胸が明るくなった。走って行くと、できたてのから揚げがテーブルに乗っていた。

「うわあっ。いただきまーすっ」

「こらこら。手を洗ってからだよ。本当にすずめってから揚げ大好きだよねえ」

 ふふふっと嬉しそうに微笑み、先ほどの柚希が蘇った。柔らかく穏やかな母親の笑み。これだけでも子供は幸せで満ち溢れるが、あの三人は一度も見たことがないのでは。もやもやとした黒い鉛を追い払うべく、その夜はご飯を四杯もおかわりした。

「さすがに食べ過ぎじゃない?」

 聞かれたが、すずめは首を振って即答した。

「たまにはドカ食いも必要なんだよ。そういえば、アイスもあるよね?」

「アイスまで食べるの? どうしたのよ?」

「病気じゃないから、心配しないで」

「太っても知らないよ?」

 もう……と苦笑しながら、知世はアイスを持ってきてくれた。完食し部屋に戻ると、ベッドに寝っ転がった。

「……柚希くん、今頃桃花ちゃんに勉強教えてるのかな?」

 独り言が漏れた。自分の宿題もあるのに妹の世話までさせられて、気の毒で堪らなかった。いくら妹のために努力したって、きっと母には褒められはしない。桃花がテストで酷い点をとったら、柚希を責めるのだ。お兄ちゃんが、もっとしっかり勉強を教えなかったから。桃花は悪くない。柚希の教え方が悪い。簡単に想像できる。

「何て性格だろう……。絶対に許せない……」

 ぐっと拳を作ったが、村人は女王様に勝てるわけないのはわかっていた。戦いを挑んでも負けるのは確実だ。いつか、柚希が屋敷を出た時に助けるのがすずめの役目なのだ。


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