六十五話
「おい、朝だぞ」
体を揺すられ目が覚めた。熟睡したらしく、むにゃむにゃと寝ぼけながら答える。
「もうちょっと寝てたい……」
「なに甘えてんだ。さっさと起きろ」
厳しい一言に、仕方なく頷いた。
「あれ? 蓮くん。おはよう」
「昇降口、開いたぞ。早く帰らないと親に心配かけるだろ」
そういえば、家に学校に泊まると電話をかけていなかった。今頃不安で堪らないだろう。慌てて携帯を取り出した。メールには、どこにいるの? エミちゃんのお家にいるの? いつ帰ってくる? という文字がびっしりと書かれている。
「あたし、先に行くねっ」
立ち上がり、蓮の手を握り締めた。
「昨日は、ずっととなりにいてくれてありがとう。嬉しかったよ」
「幽霊にビビって泣いてるなんて、お子ちゃまだよな。はっきり言って呆れたぞ」
「うるさいな。別にいいじゃない」
「まあな。子供っぽいところもお前の長所だから」
褒められたのかけなされたのかよくわからなかったが、ふっと微笑みが浮かんだ。
「じゃあ、蓮くんも気を付けて帰ってね。いろいろとありがとう」
頭を下げると、走って家に向かった。
ドアを開けると、玄関に知世が立って待っていた。顔色は白く、すずめの姿を見て肌色に変わった。
「すずめっ。ど、どこに行ってたの?」
「エミのお家。電話するの忘れちゃって」
パシッと知世に頬を叩かれた。軽い力だが、どきりとした。
「お、お母さん」
「ちゃんと連絡するって約束したよね? ずっとすずめが帰ってくるまで、外に立って待ってたんだよ? お父さんは誘拐だってパニック起こすし……。お母さんたちの気持ち、もっとよく考えなさい」
我が子を想っての言葉だと心にしっかりと届き、涙が溢れた。改めて二人の愛情の深さを痛いほど感じた。
「ごめんなさい……。勝手なことして……」
「高校生は大人かもしれない。だからといって油断はしないの。事件にでも巻き込まれたら大変でしょ? 怖い目に遭いたいの? 何歳になっても、お母さんたちにとってすずめは子供なの。二十歳でも三十歳でも四十歳でも。大事な大事な娘なのよ」
蝶よ花よと育ててもらった自分がどれだけ幸せ者なのか。うんうんと繰り返し頷き、溢れた涙を指で拭った。
「……でも、ちゃんと帰ってきてくれてよかった。朝ご飯作ってあるから食べなさい」
「わかった。ありがとう……」
ようやく家の中に入り、テーブルの上の朝食をいただいた。
緊張したり怖がったりして、その日は仮病を使って学校を休んだ。昼休みの時間に圭麻から電話がかかってきた。
「ヒナコ、具合が悪いの?」
「うーん。ちょっとだるくって……。疲れてるの」
「蓮も休んでるんだよ。俺一人ぼっちで寂しい」
「蓮くんも? ふうん……。どうしたんだろうね?」
わざと知らないフリをした。二人きりで学校に泊まったなんて絶対に不機嫌になると予想し、うまく誤魔化した。
「明日は来れそう? ヒナコに会いたいよー」
「きっと行けるよ。ごめんね」
すると、圭麻の口調が低くなった。
「さっき柚希が話しかけてきたよ」
「柚希くん?」
「ヒナコとおしゃべりしたかったんだって。休んでるって教えたら、めちゃくちゃ残念そうな顔で戻っていったよ。あいつ、ヒナコに惚れてるのかな?」
どきりとして苦笑しながら即答した。
「柚希くんが女の子にモテモテなのは圭麻くんも知ってるでしょ? 柚希くんは王子様なの。あたしになんて興味もないよ」
「興味のない子に、わざわざ会いに来る? しかも違うクラスなんだよ? 他の女の子には声かけてなかったし。俺は、きっとヒナコを狙ってるって読んでるけど」
「ないない。柚希くんって誰にでも優しいから、暇つぶしに会いに行ったってくらいだよ。B組に用があって、ついでにあたしともおしゃべりしようかなって」
「うーん。どうなんだろう。ヒナコを狙ってないなら、俺は安心してられるけどね」
圭麻の恋心は、どんどん燃え上がっているとわかった。地味なすずめをここまで愛してくれるなんて、感謝してもしきれない。しかし初恋の人は柚希で、彼女になれるかと言われたら戸惑ってしまう。もちろん嫌いなわけではないし、圭麻だって超が付くほどのイケメンな王子なのだが。
「昼休み終わりになっちゃった。もう切るね」
「うん。電話してくれてありがとう」
素早く伝えると、息を吐いてベッドに横たわった。
「あたし……。柚希くんに好かれてるの……?」
とても嬉しいし胸がときめいたが、本当に柚希がすずめを好いているとは思えなかった。あんなにモテモテでイケメンな王子様が村人のすずめを選ぶなど信じられない。クリスマスパーティーに誘われたり二人で出かけたりはしているけれど、実際に告白はされていないのだから。けれど、確かに興味のない人に会いに行こうとするだろうか。違うクラスだし、休んでいると知って残念そうな顔なども、単なる暇つぶしとは思えない。もし本当に柚希に好かれていたらイケメン王子と両想いという関係になるし、天にも昇るだろう。しかし、その裏で空しさが募る。蓮と圭麻がいるから、心の底から喜べそうにない。圭麻は、また大好きな彼女と別れたと泣くだろうし、蓮はアメリカに帰ってしまうかもしれない。そして柚希には恐ろしい母親とわがままな妹がいる。あの二人が、すずめとの交際を許してくれるか。ドラマチックに柚希と駆け落ちなんてできるわけないし、少し嫌な予感が浮かんでいた。
「つまり、柚希くんはあたしの運命の人ではないってことか……」
しょんぼりと俯き、不安と迷いが胸に溢れた。
翌日はきちんと学校に行った。教室に入るとすぐに圭麻が声をかけてきた。
「おっはようっ。元気そうでよかったー」
「うん。昨日は休んじゃってごめんね」
にっこりと笑うと、ドアが開き蓮が現れた。すずめと圭麻の方に目をやり、席に着いてイヤホンを外す。
「感じ悪いよな。相変わらず」
こそこそと圭麻が囁き、すずめは首を横に振った。
「たまに優しい態度もとるよ? 少しだけど、思いやりもあるよ」
「思いやり? あいつに思いやりなんてゼロじゃないか」
「人間なんだから感情はあるよ。怒りっぽいし何考えてるかわからないけど、それでもちょっとは」
「それって、ヒナコだけなんじゃない?」
「あたしだけ?」
「他の女の子には、全く興味も示さないし視線すら合わせようとしない。なのにヒナコには返事もしてたまに優しくもなる。柚希も一緒だよね。ファンがいっぱいいて恋人なんて嫌ってほど作れそうなのに、どうしてヒナコと仲良くするのか。クラスだって違うのに、わざわざ会いに来てさ。俺は絶対に狙ってると思うよ」
「狙ってるなんて、悪者みたいに呼ばないでよ。柚希くんは、ただ紳士で穏やかなだけ。地味な村人にも暖かく笑いかけてくれる人なのよ」
「本当かな? 実は意外な性格もあったりして……」
話し合っていると教室に担任が入ってきた。仕方なく、そこで会話は中断された。
ふと横に座っている蓮の胸を見た。ネクタイが結んでいない。
「あれ? ネクタイは?」
「息苦しいから置いてきた」
「えー。じゃあ練習できないじゃない」
「あんな暑い場所にいるなんて嫌なんだよ。また泊まることにでもなったら面倒だし」
抑揚のない口調に、がっくりと項垂れた。すずめも暑いのは苦手だし幽霊で怖い思いはしたくなかったが、蓮と二人きりになったのはどきどきした。距離が縮み髪や手に触れられ幸せが満ちていく。蓮は早く帰りたいとうんざりしているかもしれないが、できれば毎日でも練習をしたかった。
「わかった。今日はお休み。明日は付けてきてね」
「俺じゃなくて、他にも頼める奴がいるだろ」
柚希の姿が浮かんだ。しかし彼にはなかなか近づけられないし、迷惑をかけたくない。それとも圭麻について話しているのか。愛するすずめのためならいくらでも練習させてくれるだろうが、一番いいのは蓮なのだ。
「とにかく、お願いだよー」
繰り返すと蓮は黙ったまま窓の外を眺めて返事はしなかった。




