六十四話
翌日から、放課後は空き教室でネクタイの練習が始まった。蓮も嫌がらずに付き合ってくれ、とてもありがたかった。
「お前って、手先不器用だよな」
「うるさいなー。あたしも頑張ってるんだから」
むっとしながら睨むが、全くもってその通りだ。またその日もネクタイは皺だらけになっていた。
「だめだ……。あたしにはネクタイを結ぶことはできないんだ」
はあ、と長いため息を吐き、蓮にネクタイを返した。
「ところで、この部屋やけに暑くねえか?」
不快そうに蓮が呟く。すぐにすずめも答えた。
「空き教室だから、クーラーが効いてないんだよ」
「暑すぎるだろ。俺、脱ぐぞ」
「脱ぐ?」
蓮は素早くボタンを外すと、シャツを床に捨てた。露わになった蓮の上半身に、全身が興奮してしまう。
「うわあああっ。いきなり脱がないでよー」
「しょうがねえだろ。この暑さに耐えられねえし」
「一応、あたしは年頃の女なんだからね。そういうのもわかってよー」
頬が赤くなり視線を逸らした。そのまま直視などできなかった。男は上半身なら服を着ていなくても大丈夫だが、誰もいない二人きりの教室で、この美貌と至近距離。心臓が跳ねて止まらない。
「お前も暑かったら脱げば?」
「脱ぐわけないでしょっ。蓮くんって実はめちゃくちゃエロいよね」
「男の部屋に泊まっていかがわしい本探すお前にエロいとは言われたくねえな」
確かに探したのは本当なので、悔しかったが言い返すことはできなかった。
「もうそれは忘れてよ……」
「忘れるわけないだろ。まじでお前面白い奴だな」
「馬鹿にしてっ。エッチは当たり前なの。正しいのっ」
「そうかそうか。一生覚えててやるぞ」
ぽんぽんと軽く頭を叩き、からかうように笑った。
「蓮くんの意地悪。どうしていっつもそうやっていじめるのよー」
「お前の反応がおかしいからだよ。これまで出会ってきた中で、こんなにウケる奴って初めてだな」
「とにかく、暑くても我慢して服着てっ。これ以上びっくりさせないでっ」
叫んだが、蓮は無視をしてすずめに寄りかかってきた。熱くなった肌に触れ、血が沸騰しそうになった。
「ね、眠いの? 蓮くん……」
「ちょっとな。いろいろ疲れてるんだよ」
「きちんと睡眠取らないとだめだよ」
暑いのなら他人と離れていたいものだが、逆に距離を縮めてきた蓮に鼓動が速くなった。目を閉じて寝息を立てた彼の肩にすずめも頭を乗せ、いつの間にか一緒に眠っていた。
はっと起きると、周りは真っ暗で何も見えなかった。ここはどこだろうと考え、ふと学校の空き教室が記憶に蘇ってきた。
「れ、蓮くん。ちょっと」
となりに座っている蓮の体を揺すると、寝ぼけた声が聞こえた。
「ん? あれ?」
「学校に閉じ込められちゃったよ。あたしたち」
「閉じ込められた?」
「たぶん空き教室だから、見回りの人も来なかったんじゃない? まさか生徒がいるなんて思ってなくて。どうしよう。帰れないよ……」
ようやく意味がわかったらしく、蓮は立ち上がってまず電気を点けた。真っ暗じゃ前に歩くこともできない。眩しい光で目をつぶり蓮の方に視線を向けると、すでにシャツを着ていた。
「どこかで外に出られるんじゃねえの? 俺、探しに行ってくる。お前はここで待ってろよ」
「え?」
驚いて勢いよく立ち上がった。ドアに向かう蓮の腕を掴み首を横に振った。
「やめて。どこにも行かないでよ」
「すぐ戻ってくるって。心配すんな。お前を置いて勝手に帰ったりしねえよ」
「一人になりたくないよ。探しに行くなら、あたしもついていく」
「まさか幽霊にビビってんのか? 高校生なのにそんなもので怖がってたらどうするんだよ」
呆れられて、ぽろぽろと涙が流れた。確かに馬鹿みたいだし、自分でも恥ずかしいとは思う。だが今頼りになるのは蓮しかいない。蓮がいなくなったら、どうやって身を護るのか。へなへなとしゃがみ俯いた。ふう、と息を吐き蓮は考え直してくれた。
「全く、お子ちゃまで仕方ねえな。わかったよ。今日は学校に泊まるぞ」
「泊まるの?」
「閉じ込められたんだから、ここにいるしかないだろ」
すずめの横に座り、蓮は冷静に答えた。その通りだが、夜の学校ほど恐ろしい場所はない。
「お化け……。出てこないかな……」
「出るわけないだろ。そんなものいるわけねえし」
「蓮くんは、お化け怖くないの? 信じてないの?」
「実際に見たら信じるかもな。でもこれまで生きてて一度も体験してねえから信じてねえよ」
他人の話だったら、作り話や出まかせかもしれない。蓮の言葉にはすずめも頷けた。とはいえ、やはり生まれつき苦手なのだから、あっさりと恐怖が消えるわけではなかった。腕にしがみついて、がたがたと震えていた。
「蓮くんが羨ましい。お化けなんていないって平気でいられる性格で……」
「男って幽霊信じないタイプが多いからな。意味不明なものは無視したり気にしないんだよ」
「じゃあ、柚希くんと圭麻くんも?」
「さあ。今度本人に聞いてみれば?」
もしかしたら、これは男が妻と子供を護る役目だからかもしれない。幽霊なんかに怖がっていたら誰も護れない。自分だってきちんと立派に生き抜き、敵と戦い続けるのだ。
「そっか。じゃあ二人に質問してみようかな」
呟くと、廊下の方から物音がした。ぎくりとして蓮の華奢な体に抱き付く。
「うわあああっ。変な音がしたよっ。む、向こうからっ」
「音? 俺には聞こえなかったぞ?」
「でも確かにしたんだよ。やっぱりお化けいるんだよ……」
あわわわ……と顔を青ざめて、緊張でがんじがらめになった。蓮は背中に腕を回し、ぐいっとすずめを抱き寄せた。
「怖いなら、もっとこっちに来いよ。幽霊が現れたら俺がやっつけてやる」
「やっつけるって……。そんなことできるの?」
不安になって聞くと、蓮は小さく笑った。
「無理だったら、お前置いてさっさと逃げるかも」
「やだあ。やめてよ。本当に蓮くんって意地悪っ」
ぎゅっと抱きつくと、蓮もすずめの髪に触れて距離を縮めた。
「……なに悩んでたんだ?」
「え?」
耳元で囁かれ、目が丸くなった。蓮は触れた髪をもてあそぶように動かし、低い声で繰り返す。
「天内のネクタイゲームの後。俺と会話するの避けてただろ。またつまんない妄想したんじゃねえの」
魅力の欠片もない。くれると言ってもお断り。かなり落ち込んで、圭麻とだけ仲良くしていた。気付いていないと感じていたのにバレてたのか。
「妄想なんて……。蓮くんの勘違いだよ。あたしは悩みがないのが悩みって」
「なら、やけに他人行儀な態度とるのやめろよ。こっちも不安になるんだぞ」
蓮の口から不安という言葉が飛んでくるとは驚きだった。すずめと同じく、蓮も悩んでいたのかもしれない。
「う、うん……。ごめんね」
謝ると、また耳元で囁かれた。しかし微かな音で、すずめには聞き取れなかった。
「何? もう一回言って」
「残念だけど、もう言わねえよ」
「どうしてそうやっていじめるの?」
むっとしながら話すと、また寄りかかってきた。まだ夜だし、二度寝をしようと思ったのかもしれない。すずめも安心して、ゆっくりと目を閉じた。




