六十一話
「すずめ。昨日はどこにいたの?」
玄関で知世が困ったような顔で立っていた。そういえば圭麻の家に泊まると決まった時に、電話をするのを忘れていた。
「エミの部屋だよ。急に泊まることになって」
「なら、しっかりとそう伝えて。お父さんと二人で不安だったんだよ。警察を呼ぼうかって考えてたくらいなんだから」
「ごめん。でも、あたしが行く場所ってほとんどエミの家だからね。心配しないでよ」
「子供を心配しない親なんていないでしょ? みんな心配で、居ても立っても居られなくなるよ」
しかし蓮の母親は息子がどこに行っても探そうとせず、むしろいなくなって喜んだはずと聞かされた。彼の魅力であるツリ目を潰そうと、わざわざハサミまで持って日本に来たし、あれをしつけだと言う人はどこにもいない。愛人と別れたイライラを子供に八つ当たりするなど、とても母親とは呼べない。
「とにかく、次からは連絡してよ」
「うん。ごめんね」
素直に反省すると、知世は歩いて行った。
なぜ母親に愛される子供と愛されない子供がいるのだろう。蓮と柚希は本当に可哀想な子供だと言える。圭麻の母は優しかったらしいが、五歳の頃に亡くなって再会はできない。そのため、母性に溢れ暖かな子のそばにいたいという思いが生まれるのかもしれない。三人とも、すずめが母親だったらよかったと嘆き、すずめから離れたくないと願っていた。
「あたしがお母さんか……」
確かにストレスもプレッシャーも虐待も病気もなく、幸せになれそうだ。すずめだって、あんなにイケメンな王子だったら何人でも大歓迎だし、比較もせずみんなに同じ愛を注いであげる。明るく楽しく毎日を過ごせるように努力もする。だがそれは不可能なので、空しい気持ちでいっぱいになってしまう。
バッグの中の携帯が鳴った。誰だろうと名前を見て驚いた。蓮からだった。蓮の方から電話がかかってくるのは珍しい。慌てて耳に当てると、低い声が飛び込んだ。
「おう。さっき、何か話したかったんじゃないのか?」
「だけど蓮くん寝ちゃうから、別の日にしようって勝手に帰っちゃったの。ごめんね」
「しっかりと寝たから、今なら話聞けるぞ。どこかで会うか?」
「じゃあブランコの公園で。遅れないようにするよ」
「わかった。あそこでいいんだな」
一方的に蓮が切り、すずめはバッグを持って走って行った。
まだ蓮の姿はなく、ブランコに乗って空を眺めていた。十五分ほど経って蓮は現れた。
「で? 話って?」
どきどきしながら昨夜の出来事を打ち明けた。するとまた背中を押された。
「きゃああああっ。やーめーてーっ」
「どれだけ油断してるんだよ。もしあいつに襲われて妊娠したらどうするんだっ」
「でも、もう二度としないって圭麻くんが言ってたし流那ちゃんもいるし、信じてたの」
「こりゃ、いつかあいつにエロいことされるな。いつの間にか腹に子供がいるって気づいて後悔して泣くな」
「別に蓮くんには関係ないじゃん」
強気な口調で言い返すと、ツリ目の瞳が大きくなった。
「……は?」
「あたしが圭麻くんの赤ちゃん身ごもっても、蓮くんには一切迷惑かけないでしょ? どうしてそんなに怒るの? そんなにあたしが妊娠するのが嫌なの?」
突然、蓮は口を閉じた。視線を逸らし、かなり動揺していると見えた。さらにすずめは続ける。
「高校生で出産は早いし、いろいろと大変なこともあるけど、蓮くんには全く迷惑はかからないよ。怒らなくたって……」
「なら、あいつと寝て、たくさん子供産めば?」
かなりぶっきらぼうで冷たい声が飛んできた。頭に来ていると直感した。
「だ、だから、イライラしないで……」
「せっかく俺が心配してやってんのに、お前って聞く耳持たずでだめ人間だな。まあ、確かに俺は無関係だし、傷ついても構わないならご自由にどうぞ」
「あたしだって怖いし、やっちゃいけないって充分気づいてるよ。もう怒らないでよ」
ぽろぽろと涙が流れた。目をこすっていると、蓮の囁きが微かに聞こえた。
「泣かなくたって……」
「いつも蓮くんって急に不機嫌になったり怒鳴ったりするから、びっくりするんだよ。いきなり態度変えるのやめて……」
「そうか? 俺はずっと普通にしてるつもりだけど」
「蓮くんは普通でも、あたしはそう思えないの。やっぱり男の子の気持ちって全然わからない」
女だから当然だし仕方ない。蓮だけじゃなく柚希も圭麻もそうだ。正直に思いを伝えると、頭を撫でられた。
「俺だって、女の気持ちがわかってないぞ。そうやって泣くのも逆に言い返してくるのも意味不明だし。あいつらも同じだろ」
「柚希くんと圭麻くんは、お姉さんと妹がいるから、少しは」
「姉と妹がいたって変わらねえよ。そのせいでぎくしゃくしたりすれ違ったりしてるだろ」
今までの出来事が蘇ってきた。どれも失敗ばかりで、お互いに嬉しくなったことはなかった。クリスマスパーティー、デート、ちょっとした散歩だって、必ず一つは悲しい空しい思いが浮かんだ。キスだって愛しているからではなくて、たまたま触れ合っただけだ。
「……蓮くんって、意外とよく見てるね。他人の行動とか、誰がどんな気持ちなのかとか……」
「お前に影響されたんだよ」
「え? あたし?」
「お前が、相手が嫌がりそうなことはしない、とにかく気遣いを持って接するって性格だったから、何となく似てきたんだろ。昔の俺だったら、妊娠しないようになんて絶対に心配しなかったし」
出会った頃の蓮を思い出した。平気で馬鹿だのアホだの嫌味を並べ立て、無表情で話しかけても完全に無視するような凍り付いた人物だった。しかし今は返事をするし喧嘩はしないと約束もしてくれて、わりと優しくなったかもしれない。とはいえ、柚希や圭麻ほどの柔らかさと穏やかさは持っていない。
「あたしの影響だなんてびっくり……。だけど、自然に笑顔も作れるようになったんだもんね」
辛くても無理矢理笑え、幸せそうにふるまえと決めつけられてきたが、すずめに会ってからは作り笑いではなくなったらしい。それだけでもかなりの成長といえる。
「とにかく油断は禁物だぞ。もし泊まるなら」
「泊まらないよ。嘘や言い訳はしたくないけど、家に帰りたいって断る。蓮くんに怒られたくないし」
「そうか。本当に素直で単純で聞き分けのいい奴だな。お前」
からかう表情だったが、悪い気はしなかった。うん、と大きく頷くと五時の鐘が鳴った。
家に帰り部屋に入ると、柚希に電話をかけた。圭麻とのひとときと、蓮の動揺した姿などを詳しく教えた。全て聞き終わると、柚希はすぐに答えた。
「高篠くんが動揺したのは、たぶん天内くんにすずめちゃんを取られるんじゃないかって焦ったからじゃないかな?」
「取られる? 別に蓮くんはあたしのこと好きじゃないんだし、焦る必要は」
「好きじゃなくても、ずっとそばにいる子なんだし特別な思いはあるよ」
「そうなのかなあ?」
「もし俺だったら、仲良くしてる子が知らない男の家に泊まったり楽しそうにおしゃべりしてたら嫉妬しちゃうな。誰かに可愛い顔向けてたら、頭に来るよ」
男には独占欲があると知った。彼女を他人の男に見られるだけでも不満になるのなら、一緒に部屋で寝るなんて絶対に許せない。ましてや妊娠などしたら気が狂いそうだ。
「柚希くんでも嫉妬するの?」
「そりゃあね。とりあえず、これからは天内くんと二人きりになる時は気をつけてね。俺も、すずめちゃんが後悔して泣く姿なんか見たくないよ」
「わかってるよ。泊まるのはやめるから」
しっかりと約束し、電話を切った。
柚希はともかく蓮はプライドが高くて誰にも負けたくないと常に考えているような性格だ。自分の好きな女子を奪われたら黙ってなどいられない。何としてでも奪い返そうとするだろうし、また自分のものになったら命がけで護ろうとするだろう。しかし、蓮はすずめに惚れていないし奪われてもどうでもいいという存在だ。なぜ焦る必要があるのか。今回の柚希の予想は、どうやら外れたみたいだ。きっとすずめが喜ぶように作り話をしたのだ。
「よーしっ。あたしもガード固くして、エッチなことされないようにするぞっ」
ぐっとガッツポーズをし、自分を奮い立たせた。




