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五十七話

 有那が出て行ってから、圭麻は俯いてばかりだ。すずめとも目を合わせずため息と後悔の表情でいっぱいだ。

「け、圭麻くん……。落ち込んでるの?」

「だって俺、ヒナコに悪いことしたから」

「悪いこと? もしかしてエッチ?」

「うん。有那が話してた通り、一回でも妊娠しちゃうかもしれない。それなのに我慢できなくて無理矢理エッチなこと……」

「別に落ち込まなくても。びっくりはしたけど」

 苦笑したが、圭麻は首を横に振った。

「もっとヒナコの思いも考えないといけないのに。どうして俺ってこんな奴なんだろう」

 そして、ずっと逸らしていた視線をすずめに向けた。あまりにも空しく色を失った瞳にどきりとした。

「俺、五歳の頃に母さんが死んだって話しただろ。本当にショックで、悲しさと寂しさでずっと泣いて過ごしてたんだ。けど、中学生になって初めて彼女ができて、恋人がいれば母さんを思い出さなくて済むって知ったんだよ」

「そうなの? 気が紛れるって?」

「最初は普通に付き合ってたんだけど、なぜかすぐに別れちゃうんだ。どんなに長く続いても一カ月くらい。俺がだめ人間だからって考えてたけど、有那がわざと離れ離れになるように彼女にお願いしてたみたいでさ」

「お願い? 何で?」

「圭麻は絶世の美女と恋をするべきって決めてるんだ。絶世の美女なんているわけないのに。俺も反抗したけど、有那って頑固だから聞く耳持たずだよ」

 少し柚希と立場が似ている。お見合い結婚でないだけいいが、もし絶世の美女が現れなかったら、一生独身となる。

「だから、ちょっと焦り過ぎちゃった。ヒナコとは別れないために、子供を作っちゃえばいいってね。子供がお腹にできたら結婚できるし、ずっと離れ離れにならずに済むって急ぎすぎた。また有那に止められたけど」

 確かに、圭麻は本気ですずめを愛しているし、これ以上大切な人を失いたくないだろう。

「……圭麻くんは、他に寂しさを紛らわせるものはないの? 恋人じゃなくて」

 しかし黙ったまま俯いた。恋人しか、母親の代わりになるものは何一つないのだ。

「圭麻くん……」

「さっきはごめんね。どうか俺のこと嫌いにならないで。遠くに行かないで」

 涙声に変わっている。勢いよく彼を抱き締めた。

「あたし、どこにも行かないよ。心配しなくても、ずっとそばにいるよ」

「本当? 俺のこと嫌いになってない?」

「絶対にならないし、ちょっとびっくりはしたけど、全然怒ってないし」

 ぎゅっと圭麻もすずめを抱き締め、ごしごしと涙を拭った。

「よかった。男なのに泣き虫で情けないよな」

「情けないなんて言っちゃだめ。圭麻くんは、お母さんが大好きだったんでしょ? たった五年間しか一緒にいられなかったんだもん。あたしだったら頭狂って死んじゃう」

「そっか。ありがとう……。ヒナコは優しくて暖かくて癒されるよ。やっぱり母さんにそっくりだ」

 すずめの頬を撫でて、圭麻は力なく微笑んだ。その表情が痛いほど胸を突きさし、すずめまで涙がこぼれた。

「ヒナコ?」

「圭麻くんが可哀想……。大好きな人と二度と会えないなんて、辛過ぎる……」

 馬鹿みたいにもらい泣きしてしまった。圭麻はさらに強く抱き寄せて、しばらく彼の広い胸に包まれていた。

 空が夕方の色に染まり、すずめは家に帰ることにした。圭麻を一人にさせたくなかったが、いつまでもお邪魔はしていられない。

「ヒナコの家まで送っていくよ」

「ううん。大丈夫。それに、ちょっと寄り道したいの」

「デートって言ってたのに、全然デートっぽくなかったね。ごめん」

「謝らないで。すっごく楽しかったよ。また明日ね」

 早口で言い、すぐに外に飛び出した。少し冷たい態度だったが、これ以上圭麻のそばにいたら、また泣いてしまうと考えた。



 ブランコのある公園に辿り着き、蓮に電話をかけた。眠っていたらしく、口調が甘ったるかった。

「今、暇?」

「は? 暇だけど」

「なら、公園に来てくれない? ブランコがある公園。話したいことがあるの」

 たぶん断られると予想していたが、蓮は意外にも「わかった」と返事をしてくれた。

 十五分ほどで蓮は現れた。ブランコに乗ったまま、すずめは圭麻の家の中で起きたことを全て打ち明けた。

「ほらな。あいつは女好きだっていうの当たりだっただろ」

「女好きってわけじゃないと思うけど……」

「大体、一回くらいはエッチしてもいいなんて言ってる奴は、みんなエロ男だろ。お前もさあ、いつも注意してるけど油断しすぎなんだよ。母親が死んで可哀想だからって理由で男と寝るなんて女いねえぞ」

 図星だったため、がっくりと項垂れた。全くもって蓮の言う通りだ。

「一回くらいなら妊娠しないかなって……」

 呟くと、蓮に背中を押された。

「うわあああっ。危ないってばっ。いきなり押すのやめてっ」

 足で止めると、腕を組んで蓮が睨みつけてきた。

「一回だろうが二回だろうが変わんねえよ。もし妊娠したらどうするつもりだったんだ? 高校生で出産か? あいつと結婚して母親になるって? 自分にはその力があるって信じてんのか?」

 きつい言葉に、ぼろぼろと涙が溢れる。さらに圭麻にエッチをされそうになった恐怖が蘇ってきた。

「あたし、本当は……。エッチなんか嫌だったよ。だけどあの状態じゃ逃げられないし、頭の中真っ白になっちゃって……。どうすることもできなかったの」

 ふう、と息を吐いて蓮は頭を撫でてきた。ゆっくりと顔を上げると小さく笑っていた。

「まあ、姉に止めてもらえたから、とりあえずよかったな。あいつも襲いかかるのはやめるだろうし。後悔して自分が泣くのもお前を泣かせるのも嫌だからな」

「……怒ってないの?」

「怒ってるよ。でも、反省したならそれでいいんだよ。これからは危機感持ってあいつと付き合っていけば」

 すっとブランコから立ち上がると、蓮の華奢な体に抱き付いた。

「おっと。どうしたんだ」

「なんか……。励ましてくれて、蓮くん優しい……」

 ぎゅっと腕に力を加えると、蓮も抱き締めてくれた。

「ずいぶんと素直な態度だなあ。でも俺はお人好しじゃねえから、他の女にはこんなこと言わねえよ」

「え? そうなの?」

「そりゃあ。お前にはいろいろ助けてもらってるからな。俺もいろいろやってあげたくなるんだよ」

 お節介だ迷惑だと文句ばかり聞かされてきたが、今ようやく感謝されていたのだと気付いた。

「ありがとう。心配してくれて……」

 涙は消え、柔らかな笑みへと変わっていた。

「ねえ、あたしっておいしそうかな?」

 ふと質問してみた。蓮は驚いた目になり、首を傾げた。

「……いや、俺はそういうのは……」

「実際に食べるんじゃないよ。圭麻くんに、おいしそうな匂いがするって言われて……。蓮くんは、そういうイメージする?」

 すると、蓮は髪に顔をうずめてきた。どきどきして、全身が固まる。

「……何してるの?」

「だって、匂いがするかって聞かれたから。うーん。うまそうというより……。シャンプーの匂いがする」

「シャンプー? まあ、毎日洗ってるからね。甘いお菓子じゃない?」

「というか、俺ってもともと甘いもの嫌いだし」

「そっか。……じゃあもう一つ。お母さんみたい?」

「ああ、それはすごくするな。やっぱり女だからか、母性があるんだろ」

「そうだね。母性はあるよね……」

 寝ている時の蓮や柚希が可愛くて堪らないというのも母性からだ。早く子供が産みたい。もし産むなら男の子がいいと常に妄想している。まだ恋人すらいないのに。

「いつか、誰かと愛の結晶を作り出すんだからね。相手は決まってないけど」

「次にあいつの家に行く時は、避妊治療してからにしろよ」

「え? 避妊治療って?」

「妊娠しないようにする治療だよ。俺は男だから詳しくは知らねえけど」

「こ、これからはエッチはしないもんっ」

 ぼっと頬を赤くして叫ぶと、からかうように笑いながら答えた。

「よしよし。きちんと自分の身は自分で護るんだぞ」

「また馬鹿にしてー」

「じゃあな。気をつけて帰れよ」

 くるりと振り向き、蓮は歩いて行った。もう少し声を聞いていたがったが、しつこくすると不機嫌になるかもしれない。残念だが仕方ないと諦め、すずめも家に向かった。

 部屋に入ると柚希に電話をかけた。すぐに柔らかな言葉が耳に飛び込む。

「なあに?」

「あのね、突然だけど、あたしっておいしそうな匂いがするの?」

「おいしそう?」

「圭麻くんに言われて。柚希くんは、そんな匂いがする?」

「……あんまり女の子の匂いって嗅がないけど……。甘いお菓子みたいなイメージはするな」

「そうなんだ? じゃあ、お母さんみたいって感じることは?」

「それはずっと思ってるよ。みんなが怖がってる高篠くんの怪我の手当てをしてあげたり、お弁当食べたり、本当に愛情深いんだなーって感心してる。次産まれたら、すずめちゃんがお母さんだといいなとか、すずめちゃんがお母さんだったら幸せだったなとか」

「そ、そう。蓮くんにも圭麻くんにもお母さんみたいって言われたんだ。柚希くんにも言われるとはびっくり」

 えへへ……と頬が火照る。柚希も柔らかな口調で話した。

「それはすごいね。でも本当にすずめちゃんは優しいお母さんだよ。俺、すずめちゃんの息子になりたいよ」

「さ、さすがに息子は無理だけどね」

 苦笑をすると、申し訳なさそうに柚希が答えた。

「ごめん。母さんに呼ばれちゃった。もういいかな」

「うん。いきなりおかしな質問して、あたしの方こそごめんね」

「気にしないで。またいつでも電話してね」

 最後の最後まで、柚希は丁寧で紳士的だ。携帯をベッドに放り投げて、勢いよく横になった。

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