五十二話
ソファーに並んで座り、両親や過去の出来事について全て教えてもらった。二歳までは普通の母親だったが、三歳になると急に感情の起伏が激しくなってきたらしい。原因は仕事の疲れやストレスで、幼い蓮を叩いたり怒鳴ったりしていたようだ。やがて愛人ができ、料理以外の家事は一切しなくなった。夜遅くまで帰ってこなかったり、逆に男を部屋に連れ込んだりは日常茶飯事で、蓮は辛く寂しい日々を送ってきた。
「お父さんは? どうしてたの?」
すずめが聞くと、蓮は抑揚のない口調で即答した。
「仕事が忙しかったっていうのもあるけど、もともと家庭を顧みない冷たい性格だったからな」
「だからって、息子がそんな酷い目に遭ってたら気付くでしょ? 大体、知らない男があがり込んでるのに」
「俺が傷つくのはどうでもいいんだ。自分が傷つくのは絶対に嫌だ。最低な父親なんだよ」
「そんな……」
「たまたま、あの女と愛人が遊んでるところを目撃して、話し合いもなく即離婚。俺は母親についていくことになったけど、愛人もいたから三人で暮らしてた。でも、その愛人も性悪で、お前なんか生きてても意味がないとか、ここから出て行けとか邪魔者扱いしてきやがる。成長して、俺が父親に似てくると、何度もそのツリ目潰してやるって脅された。寝てる間におかしなことされないかって怖くて眠れなかったんだぞ」
「お父さんもツリ目だったんだ」
「よく覚えてねえけどな。子育てもしないから、毎日同じ服着てゴミだらけの部屋で座ってるだけ。六歳の頃、ついに家出した。そしてようやく、俺を心の底から愛してくれるおばさんに出会ったんだよ」
「おばさん?」
「そのおばさんは結婚してないから、夫も子供もいなくて寂しい思いをしてたんだよ。少しでも気がまぎれるようにってインコ飼って暮らしてた。インコって、人の声真似するだろ。それで誰かに話しかけられてる気持ちになるんだってさ。俺が腹が減って死にかけてるのを偶然見かけて拾ってくれたんだ。まるで血が繋がってる息子みたいに可愛がって、二人で住もうって言ってもらえたんだ」
「お母さんは? 探しに来なかったの?」
「探すわけねえだろ。むしろ出て行ってくれて大喜びしたんじゃねえの?」
「頑張って産んだ子を愛せないなんて……」
すずめには信じられなかった。というか信じたくなかった。
「おばさんは料理もおいしいし洗濯も掃除もきちんとする優しい人だったけど、周りに飛んでるインコはうるさかったな。ある意味おばさんも鳥女だな」
はっとして目を丸くした。すずめが嫌で嫌で堪らなかったあだなだ。鳥女が、もう一人いたとは。
「そのおばさんは、アメリカに一人暮らししてるの?」
首を横に振って、蓮は即答した。
「九歳の頃、病気で死んだよ。インコは近所にいる人たちが飼って、俺はゴミだめの部屋に帰る羽目になった。絶対に、こんな地獄から抜け出してやるって願って、高校生になってようやく日本に来たってわけだ」
すずめが蝶よ花よと甘やかされていた間、蓮は凍り付くような毎日を過ごしていた。ぽろぽろと涙がこぼれた。
「酷い……。あんまりだよ……。蓮くんが可哀想すぎる……」
もっと両親に愛されれば、きっと蓮も柚希のように穏やかで優しい性格になれたかもしれない。幸せで満ち溢れた人生を歩めたはずだ。ごしごしと目をこすると、蓮は立ち上がって机の引き出しから何か取り出した。そして戻ってくると、すずめの前にネックレスを置いた。純金で十字架が付けられている。
「……綺麗……。何? これ……」
「おばさんが、お守りとして大事にしてたネックレスだ。お前にやるよ」
「え? あたしに?」
「俺じゃなくて、同じ鳥女のお前が持ってる方がいいだろ。おばさんもきっと喜ぶはずだし」
言いながら、蓮はネックレスを首にかけてくれた。涙が嬉し涙に変わっていく。
「ありがとう……。大事にするよ」
「なくしたり落としたりするなよ」
ふっと小さく蓮も微笑んだ。
「それにしても、お前には本当に助けてもらってばっかりだな」
しみじみと蓮が言う。
「え?」
「今日だって、お前がいなかったらあの女まだ帰らなかっただろうし。さっきのお前、かっこよかったぞ」
褒められて、えへへ……と頬が火照った。
「か、かっこよかった? 嬉しいなあ」
「男の俺が護れなくて情けないな」
「そんなことないよ。あたしも蓮くんにいっぱい救われてるし。すごく感謝してるんだから」
早口で伝えると、蓮はすずめに寄りかかってきた。ばくんばくんと鼓動が高鳴る。
「ね、眠いの?」
「いや……。お前ってあったかいな。あったかいものに包まれてるって安心する」
「お母さんのお腹の中にいるみたいな?」
「さすがに胎児の頃の記憶は残ってないけどな。しばらくこうさせてくれよ」
蓮の瞳が潤んでいるのに気が付いた。ずっと誰にも言えなかった、辛くて寂しかった思い。やっと他人に打ち明けられた。すずめも蓮の肩に頭を乗せ、ゆっくりと目を閉じた。本当の母親にはなれないけれど、蓮を暖めてあげたい。そばにいて癒してあげたい。お母さんの代わりとなれるのなら、いくらでも愛を注いであげたい。
ぼんやりとしていると、外はすっかり夕方になっていた。バッグを持って玄関に行き、蓮もついてきた。
「勉強したいなら、電話くれれば付き合ってやるよ」
「え? いいの?」
「ただし、甘くはねえぞ」
「蓮くんって厳しいよねえ……。それに英語も難しくて嫌になっちゃう」
「慣れれば簡単だぞ。俺だって頑張って日本語の勉強したんだからな」
「もしかして蓮くんって英語しか話せなかったの?」
「話せたけど、漢字は苦手だったな。みんなそうやって努力してるんだから、お前も逃げるんじゃねえよ」
「うう……。わかってるよー」
ため息を吐くと、ドアを開けて外に飛び出した。
家に帰り、ベッドの上で柚希に電話をした。蓮から聞いたことを全て教えた。
「そうか。高篠くんって可哀想な人生を歩んできたんだね」
「だから、何不自由なく生きてきたあたしを嫉妬して、大嫌いって怒鳴ったんだろうな」
「すずめちゃん、高篠くんに嫌いって言われたの?」
「けっこう前にね。今はどうなのか知らないけど」
「俺は嫌ってないと思うけどね。もし嫌いだったら、勉強に付き合ったり自分の過去について話したりしないよ」
「うーん。蓮くんって、嬉しいとか悲しいとか口に出さないから、どんな感情なのかわからないんだよね。突然不機嫌になるし黙ったりするし怒ったりするし睨んだりするし、どきどきするんだよねえ」
「俺も、高篠くんの心の中は謎だな。いつかは仲良くなりたいなとは願ってるんだけど」
「柚希くんもわからないの? ちょっとびっくり」
男ならみんな男の子の気持ちが理解できると思っていたため驚いた。
「たぶん天内くんも同じじゃないかな? それに、実は友だちになりたいって考えてるんだよ」
顔を合わせるとすぐ喧嘩という二人だが、まさか圭麻も蓮と仲良くなりたいのか。とてもそうは感じないが。
「ごめん。母さんに呼ばれちゃった。もういい?」
「あ、うん」
慌てて答えると、一方的に電話が切れた。
「……そういえば、柚希くんもお母さんに愛されてないんだっけ」
妹ばかり甘やかされて、柚希にはあれをしろこれをしろと命令をし、ストレスとプレッシャーで押し潰れそうなのだ。虐待ではないが、辛くて苦しいのは一緒だ。やりたいこともできず結婚はお見合い。もし父の跡を継げなかったら、どれほど口うるさく怒鳴りつけてくるか。
「柚希くんも、可哀想な人生を歩んでるんだ……」
そっと呟いた。狭い檻の中でもにこにこと笑わなければならない柚希が哀れで、無意識に俯いた。




