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五十一話

 翌日も、さらに翌日も圭麻はすずめの元にやって来た。昇降口で会うと肩を叩かれるし、休み時間も必ず話しかけられた。別に嫌ではないし圭麻はかっこいい王子様なため、むしろ嬉しくなるがその度に蓮の睨みつける視線が飛んでくるのが怖い。そこで柚希に助けを求めに逃げた。

「へえ……。すずめちゃんを取り合ってるのか」

「取り合ってるというか……。ただ相性がよくないってだけだと思う」

「とりあえず高篠くんは喧嘩しないって約束してるし、慌てなくても平気じゃない?」

「それでも、めちゃくちゃイライラしてるし……。いつ爆発するか……」

 喧嘩をしたら、きっと乱暴者と噂され、不登校が再び始めるかもしれない。しかも今回は圭麻までいるのだ。とても穏やかには過ごせず、テストの点も酷くなった。英語のテストが、たった十五点しかとれずショックを受けていると、圭麻が話しかけてきた。

「ヒナコって、英語苦手なんだね」

「う、うん」

「なら、今週の土曜日に俺と勉強する?」

「本当? ありがたいなあ」

「だって、俺はヒナコの」

「俺が教える」

 蓮が遮った。はっとして目を丸くする。

「蓮くんが?」

「俺の方が英語は得意だろ。アメリカで産まれたんだからな」

 生意気そうに、圭麻が即答した。

「ふうん……。でもそれって全く自慢になってないよ」

「自慢じゃねえよ。おかしな勘違いするな」

 不機嫌そうに呟くと、蓮はすずめを見下ろした。

「ということで、土曜日は英語の勉強するぞ。みっちりと叩き込むからな」

「ええ? 優しくしてよー」

「俺は女でも手加減はしないぞ」

 むっとしながら圭麻は黙った。すずめと二人きりのひとときを奪われて悔しいと表情で伝わった。

 ことあるごとに、圭麻は突っかかってきた。昼休みも、すずめが空き教室に向かう前に呼び止めて、蓮には弁当だけ渡すという日も増えていった。すずめとしては蓮と一緒に食べたかったが、圭麻の気分を悪くはさせたくない。

 毎日バランスのいい弁当を食べている圭麻に、そっと聞いてみた。

「圭麻くんのお母さんってすごいね。ちゃんと栄養を考えて作ってて」

「え? 弁当作ってるの俺だけど?」

「圭麻くんが? 一人暮らししてるの?」

「ううん。俺が五歳の時に死んじゃったから」

「亡くなったの? 病気?」

「そう。それからは、ずっと父親と二人暮らし。たまに姉さんが帰ってくるって感じ」

「圭麻くんって、お姉さんがいるんだ。何だか甘えん坊なイメージはあったけど」

「かなり歳離れてるんだ。……今は父さんは単身赴任だから、ほとんど一人暮らしだよ」

「そっか。圭麻くんって、お母さんがいないんだ……」

 一気に圭麻が可哀想になった。二度と母親と再会できないのだから。

「蓮くんも一人暮らししてるんだよ。お父さんとお母さんはアメリカに住んでるんだって。料理ができないからコンビニで買ったものばっかり食べてて、それじゃあ体に悪いよってあたしがお弁当渡してあげてるの」

「ふうん。ヒナコは蓮のお世話焼くの、本当に大好きなんだ」

「うーん。たぶん母性かな? 一応女だし、少しはそういう愛情もあるんじゃないの?」

「母性かあ。いつかヒナコも子供を産んで、お母さんになるんだよね。相手はまだ決まってないけど」

「誰の子を産むのかなあ? どきどきだよね」

 えへへ、と笑うと圭麻が寄りかかってきた。緊張して全身が固まった。

「圭麻くん? どうしたの?」

「母さんにそっくり……」

「え?」

「ヒナコって、すっごくあったかいね。死んだ母さんが一緒にいるって安心する……」

 悲しくて辛いのが、痛いほど感じる。きっと圭麻はとてつもなく母親っ子だったのだろう。突然の死。突然の別れ。たった五年で、二度と会えなくなってしまった。これほど残酷な出来事は、他にあるだろうか。少しでも圭麻が寂しくならないよう、すずめもぎゅっと手を握り締めた。



 金曜日の夜に、蓮から電話がかかってきた。

「明日必ず来いよ。英語の勉強するぞ」

「ええ? あれ嘘じゃなかったの?」

「テストで十五点しかとれないなんてありえないからな。来なかったら怒るぞ」

「わ、わかったよー。行くよ」

 答えると電話が切れた。

 翌朝、バッグに教科書とノートを詰めてマンションに向かった。インターフォンを押すと、すぐにドアが開いた。

「よし。ちゃんと来たな」

「厳しいのはやめてよ」

「お前の努力次第で、厳しくも甘くもなるぞ」

「何よ、それー」

 不安でいっぱいになりながらも中に入った。となりに並んで座り、さっそく勉強が始まった。意外にも蓮は思いやってくれて、冷たい態度はとらなかった。また、説明もわかりやすく英語が苦手なすずめにはありがたかった。

「ちょっと休憩するか」

 一時間ほど経ってから、蓮は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。疲れた体が一気に元気になる。ふう……とため息を吐き、机に突っ伏した。

「英語って難しいな……。どうして英語なんて教科があるんだろう」

「慣れればどうってことないけどな。お前もアメリカで産まれればよかったな」

「日常生活で覚えられるもんね。蓮くんが羨ましい」

 呟くと、突然玄関から音がした。蓮も気づいたらしく視線を移す。ガチャリと鍵が回される音が耳に入った。

「な、何? まさか泥棒?」

「泥棒が鍵持ってるわけないだろ」

「じゃあ誰?」

 蓮が勢いよく立ち上がった。廊下に飛び出す前に、リビングのドアが開いた。ひゃあっと小さく悲鳴を上げたが、現れたのは泥棒ではなく髪の長い美しい女性だった。蓮を見て、ほっと柔らかく微笑んだ。

「久しぶり、蓮。元気にやってる?」

 少女のように高い声に、驚きが隠せなかった。

「まさか、蓮くんのお母さん?」

 聞いたが蓮には届かなかった。鋭く睨みつけながら答えた。

「お前、日本には来るなって言ったよな」

「でもやっぱり寂しいじゃない。大事な一人息子なんだもの」

「どうせまた愛人と別れて、俺に八つ当たりしようって考えてるんだろ」

「……あら。よくわかってるじゃない。蓮が賢くて、ママ嬉しいわ……」

 美女は一瞬にして悪魔のような微笑みに変わり、あまりの恐ろしさにすずめは愕然とした。

「このアバズレ女。俺はお前を母親なんて一度も思ってねえよ」

「ママをアバズレ女なんて呼んじゃだめよ。すいぶんと生意気な口叩くようになったじゃない」

 すずめはどうすることもできず、ただ固まって立ち尽くしていた。先ほどの穏やかな美女が魔女みたいになったことが信じられない。また八つ当たりということは、蓮は繰り返し傷つけられてきたのだろう。

「そのツリ目、あの男にそっくり。その目で私を見るのはやめなさいっ」

 そして母がバッグから取り出したのは鋭利なハサミだった。どきりとして蓮の前に走って行く。

「だめっ」

 両手を広げて叫ぶと、母は手を止めた。はっとして後ずさる。

「あなた誰? どうしてここにいるのよ」

「あたしは蓮くんのクラスメイトです。英語の勉強しに来たんです。詳しくは知らないけど、自分の子供を傷つけるなんて、母親とは呼べませんっ」

「最近の高校生は、生意気な性格の子が多いのね。これは、しつけなの。他人のくせに偉そうなこと言わないでよ」

「いいえ。どう見てもしつけじゃありません。虐待です」

 ちっと舌打ちをして、母はまるで蛇のように表情を歪めた。

「あなた、もしかして蓮の彼女? ふうん。蓮ってこういう地味でブスな子が好みのタイプだったの? 意外ねえ。だけどこの子はよくないわね。他人の母に虐待をしているだなんて失礼極まりない娘なんだから。さっさと付き合うのはやめること。わかったわね」

 しかし蓮は母の胸ぐらを掴み、凍り付く口調で怒鳴った。

「殴られたくないなら黙って出て行け。そして二度とここには来るな」

 本気でキレている、と冷や汗が流れた。これほどまでに低い蓮の声は聞いたことがなかった。母はもう一度舌打ちをし、ハサミをバッグに入れて立ち去った。乱暴にドアが閉まり、すずめも蓮も張りつめていた息を吐いた。

「れ……蓮くん……」

 囁くと、すぐに蓮は振り向いた。手を伸ばしてきて、無意識に目をつぶった。勝手な行動をして叩かれると身構えたのだ。だが蓮はすずめの頬に優しく触れ、心配そうに覗き込んだ。

「どうして庇おうとするんだよ。もしかしたら、酷い大怪我だったかもしれないんだぞ」

「だって、蓮くんが傷ついたら嫌だから」

「自分が傷つくのはいいのか?」

 怖かった思いと安心が混じり、ぽろぽろと涙がこぼれた。

「いつも話してるでしょ。あたしは、蓮くんに幸せになってもらいたい。もっともっと笑えるようにしてあげたい」

 魔法使いでもヒーローでもないけれど、少しでも蓮が楽しい人生を歩めるようにと願っている。涙を流すすずめを、蓮はぎゅっと抱き締めた。どきどきと鼓動が速くなっていく。

「……お前が母親だったらよかったのにな……」

 耳元で囁きが聞こえ、すずめも小さく頷いた。


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