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四十九話

 バレンタインデーから一週間が経った。柚希からは「おいしかったよ」と言ってもらい、空き教室では蓮の枕になっている。どんどん母性が沸いてきて、まるで息子がいる母親みたいな気分だった。

「男の子って可愛いなあ。もし産むなら男の子がいい……」

 妄想が浮かんで止まらない。まだ恋人すら見つかっていないのに。ある日、その独り言を蓮に聞かれてしまった。

「産むなら男がいい?」

「え? 聞こえてたの?」

「こんなに至近距離なんだから聞こえるだろ。ふうん……。お前、子供産みたいのか」

「そりゃあ女の子だし。痛くても辛くても頑張って産むよ」

「その前に彼氏が必要だけどな。出産よりまずは恋人探しを考えた方がいいぞ」

「わ、わかってるよー。蓮くんも、きちんと彼女探しなよ」

 むっと言い返すと、蓮は小さく笑った。

「俺は、とりあえずお前がとなりにいれば問題ねえよ。寂しくねえし」

 また寄りかかってきた。甘えているような口調にどきどきした。

「……ずっととなりにはいられないよ?」

 はっと蓮が起き上がった。

「ずっと?」

「うん。高校卒業したら、きっとあたしたちバラバラになるだろうし、お互いにそれぞれ歩む道は違うよ。大人になったら二度と再会できなくなるかもしれないし」

「バラバラか。まあ、同じ学校には行かないよな。お前は真壁の嫁になって、俺もアメリカに帰ることになるかもな」

 衝撃を受けて、思わず立ち上がった。全身が無意識に震える。

「アメリカに帰っちゃうの? それはやめて。アメリカには戻らないで」

「かもしれないってだけだ。おかしな妄想して焦るなよ」

「ほ、本当? ずっと日本にいてね。お願いだよ。アメリカに帰るのだけは嫌だよ」

 へなへなとしゃがみ込む。二度と再会できないとしても、同じ国には住んでいたい。

「俺も、なるべく日本で一人暮らし続けるつもりだけどな」

 ぽんぽんとすずめの頭を軽く叩きながら即答した。

 自分で言っておきながら、心の中に大きな穴がぽっかりと空いていた。いつか蓮と別れる時が来るのだ。もしかしたら柚希とも別れるかもしれない。切なくて空しくて涙が零れそうだった。彼女を探しなよ、というのも本心ではなかった。もし蓮に愛する彼女が現れたら、こうしておしゃべりも二人きりで弁当を食べるのも無理になる。蓮ともっと仲良くなりたいという願いは叶わないのだ。それに、たまに見せる蓮の笑顔は、すずめだけのものにしておきたい。できれば、ずっとずっととなりにいて笑顔を見ていたい。そばにいたい。せめて高校卒業するまでは……。ぼんやりとしていると昼休みが終了した。今は、やがて訪れる悲しい現実に悩むのではなく、その日のうちにやるべきことをしっかりとやり通すだけだ。




 いつも通り放課後になって蓮と二人で帰ろうと思っていた。が、突然その予定が狂った。並んで歩いていると、後ろから女子の叫び声が耳に入った。別に興味もなかったため、すずめも蓮も気にしなかったが、いきなり後ろから腕を掴まれた。はっとして顔を上げると、初詣で出会った王子様が立っていた。しかし笑顔ではなく鋭く睨みつけた表情だった。

「え? あ、あの」

 わけがわからずうろたえていると、彼女が走りながら金切り声をあげた。礼儀のなっていない、だめ女だ。

「う、嘘でしょ? まさか……そのブス女が……」

「そう。俺、この子と付き合ってるから」

 一瞬、心臓が止まった。冷静な蓮さえも口を半開きにしていた。彼女はめまいを起こしたように尻もちをついた。

「じょ、冗談やめてよ。あたしを捨てて、そのブス女と付き合うなんて」

「お前のわがままには懲りた。いつも謝ってばかりの俺の身にもなれ。もう俺とお前は恋人じゃなくなったから。馴れ馴れしく名前呼んだりするなよ」

「信じられない……。あたしを捨てたこと、一生後悔させてやるっ」

 泣きながら彼女は振り返り、また走って行った。その背中に彼は凍り付いた捨てゼリフを吐いた。

「後悔なんかするかっ。馬鹿女っ」

 そして、くるりとすずめに視線を移した。先ほどとは違って、にっこりと暖かな笑顔をしている。

「ごめんね。彼女が別れたくないってしつこいから、新しい恋人のフリさせてもらっちゃった」

「ああ。フリ……」

 ほっとしたが、彼はすずめの顔をじっと穴が空くほど見つめてきた。

「……君、可愛いねえ。いろんな男から告白されない?」

「え? 可愛い?」

「ちょっと背が小さいからかな? ぎゅっと抱き締めて護ってあげたくなるよ。もしよければ名前教えてくれない? せっかくだから電話番号も交換しようよ」

「あ。じゃあ」

 すると突然、後ろから口を覆われた。蓮の低い声が聞こえる。

「どうして名前が知りたいんだ?」

 ずっと蓮の存在に気づいていなかったのか、彼は目を丸くした。

「あれ? 彼氏?」

「彼氏じゃねえよ。でも、こいつの名前を聞く理由は何だよ。しかも他校なのに」

 確かに彼が着ていたのはワインレッドの制服だった。陽ノ岡と同じく制服がかっこいいことで有名な夜ツやづきという高校だ。夜ツ木は数学のレベルが高い。にっと彼は笑い、少し生意気そうに答えた。

「彼氏じゃないならいいじゃん。可愛い女の子に出会ったから、つい知りたくなったってだけだよ。ねえ、俺も教えるから、君も」

「さっさと帰るぞ。他校の生徒と親しくなったって意味ねえし」

 ずるずると蓮に引きずられながら歩いた。しばらくして、ようやく手を放してくれた。

「蓮くん、どうしたの?」

「どうしたのじゃねえよ。わかんなかったのか? あいつかなりの女好きだ。何度も付き合ってるから、女の弱点いっぱい知ってるぞ。絶対に名前なんか言うんじゃない」

「ええ? 女好き? 普通の優しい王子様じゃない」

「仮面被ってるんだよ。俺と話してた時の顔見たら、一目瞭然だ」

「そうかなあ? あたしは違うと」

「次、あいつに会ったら逃げろよ。二人きりになるんじゃない」

「逃げるなんて失礼だよ。名前くらいなら」

「誰が女好きだって?」

 はっとして目を丸くすると、彼は腕を組んですぐ後ろに立っていた。

「つけてきたのか」

「この子の名前を聞いてないからね。教えてもらうまでは帰れないな」

 そして彼はすずめの手を掴み、そっと囁いた。

「俺は女好きじゃないよ。君は素直で性格も可愛いね。すぐ人を疑うだめ人間になっちゃいけないよ」

「だめ人間? ふざけんなよっ」

 蓮は睨みつけ、彼のネクタイを握った。しかし彼は全く怯えもせず、どうぞ殴ってくれと言ったように笑っている。

「蓮くんっ。喧嘩はやめてっ」

 慌ててすずめが叫ぶと、すぐに蓮は手を放した。

「怖い怖い。陽ノ岡には、こんなに短気な奴がいたのかあ。頭に来たらすぐに殴りかかるって最低だぞ」

「うるせえな。さっさとどこかに消えろ」

 完璧にイラついていると感じ、すずめは早口で答えた。

「あたしの名前は日菜咲すずめ。で、こっちは高篠蓮くん。あなたの名前は?」

「日菜咲さん? 名前も和風で可愛いね。俺は天内あまない圭麻けいま。いきなり圭麻って呼んでいいよ」

「圭麻くん?」

「そうそう。これから」

「帰るぞっ」

 ぐいっと肩を掴まれ、引きずられながら歩いて行った。明らかに蓮は気分を悪くしていた。自分をだめ人間扱いされたからではなく、すずめと親しげに笑っているのが不満らしく、一言も話さなかった。曲がり角で、ようやく手を放してくれた。この王子と離れるには名前を教えなければならないと思い、勝手なことをしてしまったと反省した。しかし、もしかしたら喧嘩が始まってしまう恐れだってあったし、これは仕方がない。この第三の王子様がとんでもない人物だとは、まだ二人とも気付いていなかった。

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