四十三話
眠りから覚めると、一瞬そこがどこなのかわからなかった。しかし次第に柚希の部屋だと気付いた。カーテンからは朝の光が差し込み、起きようと体を動かすとびくともしなかった。何か鉛のように重いものがくっ付いているからだ。
「あ、あれ?」
もう一度繰り返すが、やはり指一本動かない。しばらくして、柚希が背中から抱きしめているのだと考えた。ぐいぐいと身をよじると、確かに柚希の横顔が見える。
「ゆ、柚希くん。朝だよ。もう起きて」
囁いたが、離れるどころか足を絡ませてきた。一気にどきどきが加速していく。
「ちょっと……。柚希くん……」
呟きながら、ふとベッドの下に視線が移った。ネクタイやシャツが脱ぎ捨てられている。さすがにズボンはなかったが、驚いて冷や汗が流れた。まさか……と自分のドレスを確認すると、きちんと着ていたため安心した。もちろん柚希を信じているし、寝ている間におかしなことをする性格ではないけれど、年頃の男子だからと疑ってしまった。
「早く柚希くん、起きてよう……」
じたばたと暴れたくても、がっちりと捕まえられて足も複雑に絡み合っていく。こんな姿を見られたら母に殺される。誰かにバレないうちに逃げなくては……。
「うるさいよ……」
「へ?」
びくっと全身が震えた。柚希はゆっくりと起き上がり、寝ぼけまなこですずめを見つめた。
「うるさい……。桃花……」
「柚希くん。あたし桃花ちゃんじゃないよ。すずめだよ。勘違いしないで」
必死に伝えるも、柚希には届かず、そのまま顔の距離が縮まった。やがて二人の唇が重なる。衝撃が走り、ぼっと頬が赤くなった。柚希にキスをされた。ずっと憧れだった王子様にキスされてしまった。体中から力が抜け、すずめは抵抗できずされるがままだった。天井がぐるぐると回り始め、生きてるのか死んでいるのか判別できない。ようやく唇が離れると、そっと囁いた。
「柚希くん……。しっかりして……」
普段は見られない、セクシーで色っぽい姿の柚希に、意識を失いかけた。
その時、遠くから鈴の音がした。だんだん近づいてくる。やがて柚希が呻き始めた。
「い……いてて……。わかったよ。もう起きるって」
頭をさすりながら、上半身を起こした。そしてベッドの上に猫が三匹座っているのがわかった。
「……柚希くん家の猫ちゃん?」
聞くと、ふわあ……と欠伸をしながら柚希は視線を向けてきた。
「あれ? いつの間に寝ちゃってたのか……」
寝ぼけた口調で呟くと、また猫に背中を叩かれ、「いたたっ」と呻いた。
「全く、容赦ないんだから」
「柚希くんって、猫ちゃん三匹も飼ってるんだ」
「そう。ベリーとチェリーとリリーっていうんだ。俺って朝が弱いから、いつも猫パンチで起こされてるんだよ」
「猫パンチ? 可愛いね」
猫の首輪が、それぞれ紫、ピンク、白なのに気づいた。それぞれの名前から色を変えているのだろう。先ほどの音は首輪についている鈴だ。
「ところで、すずめちゃん。足は?」
聞かれて、自分が怪我をしたのを思い出した。動かすと未だに鈍い痛みはあったが、だいぶ治っている。
「少し痛いけど、歩くのは平気じゃないかな」
「そっか。家まで車で送るよ」
「いいの? 迷惑じゃない?」
「誘ったのは俺なんだし。遠慮しないで」
優しい言葉に胸がときめく。やはり柚希は王子様だと改めて思った。
母にバレないように、こっそりと車に乗り込んだ。近くまででいいとすずめは話したが、家まで送ってくれた。
「またパーティーがあったら誘うよ」
「うん。どうもありがとう」
感謝を告げたが、もう行かないと心の中で決めていた。あの恐ろしい厳格な母に睨まれたら、まともに返事などできない。しかも柚希とキスしてしまったなど絶対に許されない。バレたら殺される。
家に帰ると知世は、すぐに怪我の手当てをしてくれた。
「病院に行った方がいいかもね」
「それほど痛くはないよ」
「慣れないブーツで、無理しすぎちゃったね」
「けど、スニーカーじゃだめでしょ」
「まあ、とりあえずは軽い捻挫で安心したよ」
柚希がすぐに部屋に連れて行ってくれたおかげだ。それに柚希が助けてくれなかったら、あの母に何をされていたか。お金持ちしか認めないという性格の母。だからといって、あそこまできっぱりと悪口を言うのは非常識極まりないが。
自分の部屋に入り、ベッドに寝っ転がった。ふう……と息を吐くと、携帯が鳴った。柚希からだ。
「すずめちゃん、母さんと桃花に注意しておいたよ。失礼すぎるって」
「でも反省しないでしょ」
「え? どうしてわかるの?」
「イメージで、そうじゃないかなって。すごく怖くて頑固なお母さんで、柚希くんも大変だね」
「本当だよ。結婚も完全にお見合いで決定したし」
「お見合いか……。できれば好きな人と自由に付き合いたいのにね」
「俺、すずめちゃんがよかったな」
どきりとした。目が丸くなる。
「あたし?」
少し間をおいて、柚希は固い口調で繰り返した。
「すずめちゃんがお母さんだったらなって。きっとすずめちゃんみたいなお母さんだったら、幸せでいっぱいだったよ。ストレスもプレッシャーもなくて」
「そっか。期待されるのは嬉しいけど、あまりにも強いと苦しみになるよね。……昨日はどうもありがとう。楽しいクリスマスになったよ」
「こちらこそありがとう」
満足そうに言い、柚希は電話を切った。
「あたしがお母さんか……」
いつだったか、蓮の怪我の手当てをしている時、お母さんみたいだと柚希が話していた。すずめ自身はそう感じないが、彼にはそう映っているらしい。
「あ、そうだ」
携帯を開き、蓮に電話をかけた。しばらく間をおいてから、蓮の低い声が耳に飛び込んだ。
「何か用か」
「あの、今から会えない?」
「今? ちょっと眠いんだけど」
「なら暇なのっていつ? クリスマスパーティーについて教えたいのよ」
「じゃあ、明日の五時くらいに」
「待ち合わせ場所は?」
「ブランコがある公園は?」
「あそこね。わかった。明日の五時ね」
すずめが答えると、そのまま蓮は一方的に切った。なぜか蓮の声を聞いて、ぽろりと涙が零れた。悲しくないのに泣いてしまった理由がわからない。母親に睨まれて怖かった思いが、今になって蘇ったのか。自分のことなのにわからないなんて。
「もう二度と会わないんだし、忘れちゃおう……」
それよりも、明日の五時までに一人で歩けるようにしておかなくては。待ち合わせ場所に行ったのにすずめがいなかったら蓮に申し訳ない。知世に包帯を巻いてもらって一日中ベッドの上で過ごし、痛みは次第に消えていった。




