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三十二話

 その夜は、なぜかやけに空しい気分だった。夕食も食べず風呂に入って、さっさと寝てしまった。といっても、うつらうつらしかできず、いつの間にか空が明るくなっていた。頭の中が痛み、お腹が変な感じがする。トイレに行くと、顔が青くなった。女の子の日になっていた。

「え……。まだなのに……」

 おかしい。狂っている。仕方なくトイレから出ると、痛み止めの薬を飲んだ。

「どうして昨日、夜ご飯食べなかったの?」

 知世が心配そうに聞いてきた。

「いらなかったの」

「ちゃんと食べないと病気になっちゃうよ。気をつけなさいよ」

「わかってる」

 返事をして洗面所に行く。いつも通りメイクをし、唇にリップを塗っていると、頬が赤くなった。

「う……うわわわわ……」

 完全に感覚がマヒしていたが、昨日の帰り道に蓮にキスをされたのを思い出した。あれは事故でも間接でもなく、本人の意思で口づけをしたのだ。リップが舐め取られ、家に帰った時は消えてしまっていた。乱暴で荒々しく少し冷たいキスは、蓮の性格そのものだった。

「わ……忘れろ……。忘れるんだ……」

 独り言を漏らしながら、ぐりぐりとリップを塗りたくった。あまり学校には行きたくなかった。結局、柚希には謝っていないし、蓮とはあんなことをしてしまったし、二人に見せる顔がない。かといって仮病を使って休むのも気が引ける。諦めて「行ってきます」と外に出た。

 柚希とは違うクラスのため、話しかけたり声をかけたりする必要はないが、蓮とは嫌でも会わなければいけない。席はとなりだし、弁当も一緒に食べているし、無視ができないのだ。緊張しながら座っていると、蓮がやって来た。黙ったまま着席する。耳にはめていたイヤホンを外すと、鞄にしまった。とてつもなく気まずい空気が漂い始めた。キスをされて恥ずかしいというよりも、まだ怒っているのではないかという不安が多かった。これ以上、間接キスをした事実を他人にバラすのは間違ってもしないと決めていたが、もし万が一約束を破ったら次はどんな目に遭うのだろう。ちらちらと蓮を盗み見ていると、蓮もこちらに視線を向けた。

「お、おはよう……」

 ぎこちなく笑ったが、すぐに蓮は窓の外を眺めた。お前と付き合うつもりはさらさらないという感じだ。さらに緊張し、それから昼休みまではお互いに一回も言葉を交わさなかった。やはり学校に来なければよかったという後悔が、じわじわと襲ってきた。おまけに廊下で柚希と目が合った。ぎくりとして、すずめはその場から逃げた。追いかけられなかったが、ものすごく不快な思いをさせてしまった。せっかく二人きりで歩けるくらい親しくなれたのに。すずめちゃんと下の名前で呼んでもらえるほど、距離が縮んだのに。どんどん柚希が遠ざかっていく。登録した電話番号やメールアドレスも削除されているかもしれない。

 ついに昼休みになり、空き教室に向かうと蓮が音楽を聴きながら座っていた。弁当だけ渡して自分はエミたちと食べようかと思ったが、それでは気まずい関係のままになってしまう。別に相手は狼ではないし同い年の男子なのだから。

「ご、ごめん……。遅くなっちゃって……。クラシック聴いてたの?」

「やることねえしな。ところでお前は使ってるのか」

 そういえば、机の奥に眠っているだけだった。わざわざすずめのために買ってくれたのに、もったいない。

「忙しくて、聴いてる暇ないの。あ、これ。お弁当」

 差し出すと蓮は素直に受け取って蓋を開けた。まず、から揚げから食べる。

「蓮くんって、から揚げが大好物なんだね。あんまりお肉好きそうじゃないのに」

「大好物ってわけじゃねえけど。うまいからな」

「そう。お母さんに伝えておくよ」

 震える手ですずめも弁当をいただく。箸が動かせず、緊張しているのを隠すのが大変だった。早く昼休みが終われば、蓮と話をしないで済む。凍り付きそうなこの二人きりの時間が過ぎれば安心できる。今は、ただひたすら視線を逸らし、不機嫌になりそうな言葉を漏らさないことだけ考えていればいい。すずめの態度が伝わったのか、蓮は箸を止めてじろりと見つめてきた。びくっと全身が反応したが、必死に手と口だけ動かす。

「ちょっと」

 抑揚のない口調で言ってきた。冷や汗が噴き出し、目を丸くする。

「えっ?」

「じっとしてろ」

 長い腕を伸ばし、蓮は親指ですずめの唇に触れ、それをじっと眺めた。

「ふうん……」

 呟いてから、また弁当を食べる。何を考えているのかすずめには理解できないが、質問したくても勇気が出なかった。どきどきしていると、いつの間にか昼休みが終了した。




 深い穴に沈んでいくみたいに、すずめは身動きが取れなくなっていた。どこかに異性の頭の中が見透かせる機械など置いてないだろうか。男の子の気持ちがわかる装置だ。ため息を吐いても、答えはやって来なかった。

 放課後、一人で帰り道をとぼとぼと歩いた。やけに家までの距離が長く感じる。

「あーあ……。嫌なことばっかり」

 俯くと、後ろから肩を掴まれた。振り向くと蓮が立っていた。

「ど、どうしたの?」

「さっきから呼んでたのに、聞こえなかったのかよ」

「え?」

 全く耳に入っていなかった。驚いて全身が固まる。腕を組んで、蓮はすずめを睨んだ。

「ずっと落ち込んでたけど、昨日のことじゃないよな」

「昨日って……。キ、キス?」

 やはり、といった表情で、蓮は答えた。

「キスじゃねえよ。あれはお仕置きだ。勘違いするな」

「キスじゃなかったの?」

 衝撃を受けた。すっかり蓮とキスをしたと思い込んでいたが違うのか。

「で、でも、唇はくっ付いてたよ? くっ付いてたらキスじゃないの?」

「じゃあ聞くけど、お前は俺と唇が合わさって、どうだった? 嬉しかったか?」

 どきりとした。初めての経験だったし、少しはときめきもあったかもしれないが、ずっとずっと空しかった。むしろ涙が流れ、悲しさでいっぱいだった。

「……嬉しくなかった……」

「だろ。俺も嬉しくなかった。だからこれはキスじゃないんだよ。風邪ひいた時のも間接キスもそうだ。つまり、お前はファーストキスを奪われてないってこと。おかしな妄想して落ち込むな。嬉しいキスは真壁にしてもらえ」

 蓮の声は、低く暗かった。すずめの胸の中は厚い雲が消えて、太陽が覗き始めた。

「そっか。キスって愛している人とするものだもんね……」

「だから、そうやって大人しくなるのやめろよ。馬鹿みたいに堂々として、アホみたいに笑ってろ。そっちのが似合ってるから」

「なっ……。失礼すぎでしょ。馬鹿でアホって」

 むっとしたが、いつもの自分に戻っていると確かに感じた。蓮のおかげで立ち直れたのだ。

「あたし、勘違いしてた。蓮くんとキスしたって。じゃあ、蓮くんもファーストキス奪われてないって意味だよね」

「まあな。俺は女と恋愛する気はねえから、死ぬまでキスはしないだろうな」

 はっとして、勢いよく叫んだ。

「諦めちゃだめだよっ。蓮くん、めちゃくちゃイケメンなんだよっ。転入初日にファンクラブができたって知らないの?」

「は? ファンクラブ? 知らねえよ」

「残念ながら今はなくなっちゃったけどね。柚希くんから蓮くんに乗り換えたって子だっていたんだよ」

 意外だったのか、蓮のツリ目の瞳が大きくなった。

「ふうん……。でも俺には関係ないだろ。俺にするか真壁にするかなんて。どうでもいいし」

 自分の良さや魅力は他人しかわからない。いくらイケメンだ素敵だと伝えたって、信じられないだろう。柚希もあれだけファンがいるのに、全くモテないと言っていた。

「きっと蓮くんにも可愛い女の子が現れるって。まだまだ人生長いんだから。期待して待ってた方がいいよ」

 にっと笑うと、蓮は視線を逸らして呟いた。

「恋愛って面倒くせえな……」

 なぜか普段よりは柔らかい口調だった。

「面倒くさいなんて言っちゃだめ。……ありがとう。元気になれたよ」

 感謝を告げると、家に帰った。先ほどよりも足が軽かった。


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