三十一話
柚希に会いたくないため、しばらく仮病を使って学校を休んだ。一日中ごろごろとベッドに寝っ転がり、天井を眺める。男の子の気持ちがわからない。女だから仕方ないが、柚希に嫌われたのだとショックが隠せなかった。落ち込んでいるすずめを心配したのか、知世はあるものをプレゼントしてくれた。
「すずめ、ちょっといい?」
「……なに?」
ぶっきらぼうに答えると、知世が小さな箱を差し出した。
「これ、ずっとすずめに買ってあげたかったのよ」
「え?」
受け取って蓋を開けると、中にはリップクリームが入っていた。
「リップクリーム?」
「そう。チューリップっていう名前なの。大人気で、どこも売り切れ……。やっと買えたのよ。すずめって、いつも薬用のリップクリームばっかりでしょ? これからは、女の子らしくおしゃれなリップにしたら?」
「チューリップ……。聞いたことないよ」
可愛いハートのケースを見つめながら呟くと、知世が穏やかに微笑んだ。
「すずめって、まだ好きな男の子がいないんでしょ? このチューリップは乙女のお守りなの。好きな人がいなかったら出会うチャンスを与えてくれるし、いる子は恋愛成就できるようお祈りしてくれる。すずめが素敵な彼氏と幸せになってほしくて、ずっとプレゼントしたかったの」
おお……とチューリップをまじまじと見た。先ほどの後ろ向きな心は消え、胸の中はきらきらと輝いている。
「すごいね。チューリップ。ただのリップではないんだね」
「さっそく付けてみて」
知世に言われ、机の引き出しから手鏡を出した。どきどきしながら塗ってみる。唇がほんのりと薄ピンクに染められ、甘い味がした。
「わあ……。可愛いね」
「きっとすずめもかっこいい男の子と出会って仲良くなれるよ」
嬉しそうに話し、知世は部屋から出て行った。
すでに、すずめには柚希という片想いの男子がいる。もちろん恋人同士になるにはかなり難しいし不可能だ。それでもこのチューリップで、こじれた柚希との関係を元に戻したい。そっとリップを指で触れてみる。これだけで問題解決は無理だが、とりあえず学校に登校する勇気は生まれた。
翌日、洗面所でリップを一塗りし、にっこりと笑った。さらにポーチに入れてどきどきしながら学校に向かう。誰かに気づかれたりしないかなと淡い期待が浮かんでいた。教室のドアを開けると、クラスメイトがすずめの周りに集まってきた。
「大丈夫? 具合悪かったんでしょ?」
「風邪だったの?」
あはは、と軽い口調ですずめも答える。
「平気。もう治ったから。ごめんね」
「そっか。よかったあ」
「安心したよー」
優しいクラスメイトの言葉に感動したが、どこか冷たい思いも漂っていた。一人もチューリップに気づいてくれない。薄ピンクだから、よく観察しないと塗られていることにすら気づかないかもしれないが、だからと言って……。そのままクラスメイトは散り、すずめは取り残された。
「すずめ、学校に来れたの」
背中からエミに声をかけられた。振り返り、質問してみた。
「ねえ、エミ。今日のあたし、どこか違ってない?」
きっと親友のエミならわかるはず。しかしエミはきょとんとして首を傾げた。
「え? どこか変わってるの?」
「わ、わからない?」
「いつもと同じじゃん。どこか変えてるの? ……あ、少し前髪切った?」
ガーンとタライが落ちてきた。かなりショックを受けた。
「い、いや……。ずっと寝たきりだったから、おかしくないかなって」
「おかしくないよ。いつもと一緒だよ」
また空しい波が襲いかかってくる。無意識に項垂れると、エミは歩いて行ってしまった。しょんぼりしながら椅子に座っていると、となりに蓮がやって来た。耳にはめていたイヤホンを外す。
「あ……。蓮くん、おはよう……」
囁くように言うと、なぜか蓮はツリ目の瞳を大きくした。間が空いてから、ぼそっと呟く。
「学校、来れたんだな」
「うん。ちょっと風邪っぽくて。割と早くに治ってよかった」
蓮はもう一度すずめの方を見つめて、曖昧に頷いた。その後、誰一人としてチューリップに気づく者はいなかった。そんなに自分には可愛げも女の子らしさもないのか。休み時間に、地獄に堕ちそうなほどの出来事が起きた。みんながエミの席で騒いでいた。耳を澄ますと、クラスメイトの声が聞こえた。
「あれ? エミちゃん、ファンデーション変えた?」
「わかる? 最近CMでやってるやつ」
「やっぱり。エミちゃんって肌綺麗で羨ましい。もしかしてリップも?」
「そう。ほら、チューリップっていう人気の。ようやく買えたの」
「マジで? あたしも欲しいな。この学校でチューリップ付けてるの、エミちゃんだけだよね」
「まあ、あたしは彼氏作りたくて塗ってるんじゃないけどね」
ぶるぶると手が震えた。どれほどメイクをしても、可愛くなろうと努力しても、すずめとエミは全く違う。自分も綺麗と褒められたいという悲しさで涙が溢れた。夏休みの海だってそうだ。すずめも新しい水着を着ていたのに、注目されていたのはエミだけだった。一人もすずめを可愛いと言ってはくれなかった。見てもくれなかったじゃないか。エミを嫉妬しているわけじゃないが、ぼろぼろと涙が止まらなかった。同じ人間なのに。同じ女なのに。となりで、蓮が覗き込んでいるのを感じた。はっと驚いて涙を拭き、情けない自分が嫌いになった。エミばかり目立って主人公で、すずめは脇役でしかない。惨めで仕方なく、結局リップなんか変えても意味などないとわかった。明日からは薬用のリップにしようと考えた。放課後、帰り道を歩いていると、蓮が声をかけてきた。
「おい、ちょっといいか」
「今は放っておいてくれない。あたし、一人になりたい」
即答したが、蓮に腕を掴まれた。
「お前、今日はいつもよりどこか違ってたな」
「へ?」
どきりとした。誰も気づかなかったのに、蓮だけ気付いたのか。
「な……。何で、蓮くんが」
「それより、言いたいことがあるんだけど」
「言いたいこと?」
ふん、と蓮は腕を組み、鋭く睨みつけた。
「バラしただろ。真壁に」
「バラす?」
わけがわからない。睨んだまま、ぐいぐいと距離を縮めてくる。
「そうだ。秘密にしろって聞いてなかったのか」
後ずさりながら、過去の記憶が蘇る。秘密に……。そういえば、確か……。
「間接キスしたって? 柚希くんに?」
「あいつから話してきたんだよ。日菜咲さんと、それくらい仲が良くなったんだなって」
蓮の口調は、低く固くなっていく。ついに塀にぶつかり、後ずさりできなくなった。
「べ、別にいいじゃん。柚希くんだけだし。しかも間接キスなんて」
しかし蓮はツリ目の瞳を冷たくする。
「口軽女め。お仕置きしてやる」
完全に蛇に睨まれた蛙となってしまった。指一本動かせない。だらだらと冷や汗が流れる。
「お……お仕置き……って……。な、なに」
素早く蓮に抱きすくめられた。逃げようとしたが向こうの方が上手で、勢いよく唇が重ねられた。その状態で、舌で舐められる。リップが完全に消えるまでキスをされ続け、一気に足の先から力が抜けていく。ようやく体が離れると、涙が溢れた。
「……ごめん……。もう……バラさない。絶対……」
掠れた声で謝り、頭を下げた。とりあえず満足したのか、蓮は言い放った。
「本当だな。次バラしたら、容赦しねえからな」
うん、うんと繰り返し頷くと、そのまま蓮は去って行った。




