三十話
土曜日。待ち合わせ場所の図書館の前に立っていると、柚希が手を挙げて駆け寄ってきた。清潔な白のシャツと灰色のGパン。私服の王子様だ。
「ごめん。待った?」
「あたしも今来たところ」
「そっか。さて、じゃあさっそく行こうか」
微笑む柚希に大きく頷いたが、少し空しい気持ちが生まれた。実を言うと、柚希と出かけるために一番お気に入りの服を着てきたのだ。メイクも頑張ったし、髪型やバッグだって普段よりおしゃれにしている。しかし柚希は褒めてはくれなかった。すずめ自身が可愛さも女の子らしさもないので、いくら服を変えて綺麗な格好をしても魅力が感じられないのだろう。むしろ滑稽に映る恐れだってある。それでも一言、洋服似合ってるねとお世辞でも嘘でもいいから聞かせてほしかった。期待していた自分が馬鹿みたいで恥ずかしくなる。
電車に乗りデパートに行った。かなり規模の大きい店で、ここに来れば何もかもが手に入るとエミが話していた。水着と浴衣を買ったのも、このデパートだ。
「高篠くんの好きなものってわかる?」
質問され、どきりと緊張した。
「それが、クラシック音楽しかわからなくて」
「クラシック音楽? へえ、意外だね。なら人気のクラシックCDにしようか?」
「でも、もし持ってたら被っちゃう。プレゼントがいらないものになるのはもったいないよ」
蓮のマンションには、たくさんのCDが置いてあった。その上、どの作曲家が好きなのかも謎だ。
「うーん。じゃあ無難にハンカチは?」
「嫌いな模様や色だったらどうしよう……」
「シャツは?」
「サイズ知らないもん」
「財布は?」
「あたしのお小遣いで買えるかな?」
柚希は腕を組んで、首を傾げた。
「他にプレゼントってないんじゃないかな? 俺は、これくらいしか思いつかないよ」
「そ、そっか。ごめんね。せっかく付き合ってもらったのに、ああ言えばこう言うって感じで」
申し訳なくなって謝った。ふっと笑い、柚希は答えた。
「いいんだよ。というか、俺、昨日の夜から家出したくて堪らなかったんだ」
「家出? どうして?」
「母さんが口うるさくて。お前は将来世界で有名になるんだから、あれもしろこれもしろって厳しくてね。期待されるのは嬉しいけど、あまりにも圧が強すぎるせいでストレスとプレッシャーでぱんぱん。ついに怒鳴っちゃったよ。婚約者も親が選ぶなんて決められたら……」
「ええ? それって……お見合い?」
「たぶん。クラスメイトは好きな子と交際してるのに、俺はお見合いなんて嫌じゃないか。恋人くらいは自由にさせてくれよって頭に来ない?」
「そりゃあ頭に来るよ。子供は親のおもちゃじゃないのに。柚希くんには柚希くんの人生があるのに」
「俺の母さんは、他人の目が気になる性格でね。高校生になったらアルバイトしてみたいっていうのも却下。もしするなら、この家から出て行けまで言ったよ」
「出て行け? 酷すぎるよ。自分の命令に従えって意味じゃない。あたし絶対に許せない。柚希くんはお母さんを尊敬してるって話してたけど、しなくていいよ。そんな女王様みたいな人……」
熱がこもり、いらいらが増した。柚希の母親に会ったことはないが、あまりにも勝手で驚いた。柚希は父親の性格に似たのだろう。お金持ちの家の母は厳しいイメージがした。愛情よりも金。子供より自分の思い。柚希がそんな男子にならなくてよかった。
「だよね。俺の母さん、狂ってるよね」
「無視すれば? 俺にはやりたいことがあるんだって、アルバイトも始めちゃって」
「そうしたいけど、もし無視したら家に入れてくれない。もうお前は家族じゃないって」
「その場合は、あたしの家に来ればいいよ」
にっと笑い、柚希の手を握る。
「柚希くんのお家よりずっと狭いけど。困ったらうちにおいでよ。子供がもう一人できたって、お父さんもお母さんも喜ぶし」
柚希はイケメンで礼儀もきちんとしているし大歓迎だ。すずめにとっては憧れの王子様と同じ家で暮らせるのだから、もっと嬉しい。目を丸くしていたが、柚希は首を横に振った。
「ありがとう。でも俺は、父さんの会社を継がないといけないし、すずめちゃんに迷惑かけちゃうだろう。気持ちだけもらっておくよ」
ははは……と寂しげな表情に、切なさが溢れた。好きでもない人と結婚させられるなんて可哀想すぎる。大体、今時お見合い結婚する人などほとんどいない。考え方が古く頑固な母だと想像した。
「じゃあ、家出したくなったらあたしの家に来て。ずっと柚希くんのこと待ってるから」
「わかった。すずめちゃんは優しいね。母さんに爪の垢を煎じて飲ませたいな」
褒められてどきどきし、ふいに視線を逸らした。この柚希スマイルは、若い女の子が直視するとあの世に行ってしまう魔力がある。魔力といっても苦しいのではなく、至福のひとときを味わえる魔力だ。
「ところで、柚希くんに聞きたいんだけど」
「なあに?」
甘くてまったりとした口調だ。動揺しているのを気づかれないようにしながら、はっきりと伝えた。
「好きでもない子と間接キスしたら、柚希くんはどう思う?」
突然こんな質問をしていいか迷ったが、蓮……というか、男子はどう考えるのか知りたかった。
「間接キス? もしかしてすずめちゃん、したの?」
「う、うん。蓮くんと。別にただの偶然で、たまたまキスしちゃったってだけで」
「ふうん……。高篠くんと」
急に柚希の声が低くなった。冷たく固くなっている。
「まあね。あたしが口付けたペットボトルを、蓮くんが飲んだんだ。どうやら蓮くんは、まだ開けてない新しいペットボトルだって勘違いしたらしくて」
苦笑しながら続けると、ますます柚希は不機嫌そうな顔になった。横を向き、すずめと視線を合わせたくないと痛いほどわかった。
「へえ。で、それがどうしたの?」
「だから、好きでもない子と間接キスしたら、柚希くんはどう思うのかなって。どうするのかって教えてほしいの」
無意識に冷汗が額に滲む。柚希の態度が怖くなった。
「どうもしないよ。しちゃったなら元に戻せないし。今まで通り付き合っていくだけ」
「恥ずかしいなとか気まずいなとか、緊張しないの?」
「直接触れてないんだろう? それなら緊張もしないよ。さっさと忘れる。記憶から消すだけ。だって好きな相手じゃないんだから」
柚希の明らかに不快な様子に、動揺が隠せなかった。そんなに不機嫌になる内容だったのか。
「だ、だよね。あたしって馬鹿だなあ。変なこと聞いてごめんね」
「すずめちゃん、もう帰ろう」
抑揚のない声にぎくりとした。
「え? 蓮くんのプレゼント、まだ買ってないよ」
「どうせあげても、いらないとかこんなもの欲しくないとか文句つけて終わりだよ。高篠くんにプレゼント渡すなんて、お金の無駄遣いでしかない。お祝いなんかしなくていいよ。ほら帰るよ。早く」
柚希に腕を掴まれ、慌ててすずめもついて行った。
先ほどは暖かくて明るかったのに、一体何があったのだろう。すずめが蓮と間接キスをしたと知ってから、急に機嫌が悪くなった。すずめが誰とキスしようが、柚希には関係ないのに。その後はお互いに会話をせず、駅前で別れた。さようなら、すらなかった。結局、蓮へのプレゼントも買えず、柚希を怒らせ、せっかくの休日が悲しい一日になった。とぼとぼと家に帰り部屋に入ると、柚希が取ってくれた猫のぬいぐるみを抱き締める。
「わけわかんない……」
ぽろぽろと涙が落ちた。猫の上に雫が当たる。
「わかんないよ……。男の子の気持ちなんて……」
女だから、理解できないのは当然だが、まさか柚希と関係がぎくしゃくしてしまうとは。学校に行きたくない。柚希に会いたくない。ベッドにうつ伏せになり、泣き続けた。
日曜日は一歩も外から出なかった。目が赤くて、知世は驚いていた。
「すずめ? 泣いてたの?」
「ううん。ちゃんと寝てないの。疲れてるから、ほっといて」
きつい声になってしまった。心の中で「ごめん」と謝り、朝から晩まで寝たきりで過ごした。
「……しばらく学校休もうかな……」
呟いたが、勉強が遅れるのは避けたい。特に英語はついていけなくなったら大変だ。柚希の冷たい視線が蘇る。睨んではいなかったが、あんな目つきをするなんて。蓮と間接キスをしたのが気に障ったのか。だからといって、怒らなくたっていいじゃないか。女には理解できない男の態度。何をしたら怒るのか、何をしたら喜ぶのか、予想すらできない……。
「ごめんね……。柚希くん……」
ぐすんぐすんと涙が零れる。猫のぬいぐるみは落ち込むすずめをよそに、ずっと嬉しそうに笑っていた。




