二十八話
音楽プレーヤーを一度も使わず、楽しい夏休みは終わった。また学校が始まるが、穏やかで問題も起きないクラスメイトたちと過ごすひとときは嫌ではない。黒く日焼けしている子もいるし、旅行をしたと話している子もいて盛り上がっている。
「すずめちゃんもおいでよ」
誘われて、すずめもおしゃべりに加わった。後からエミも参加した。
「相沢、めっちゃ水着似合ってたよなー」
「マジでモデルだったよ」
「やだあ。エロい。男子」
「エミちゃんを彼女にするなんて一〇〇年早いよ」
そのやりとりに、きゅっと胸が狭くなった。すずめだって新しい水着を着て行ったのだ。しかし誰も、すずめについては話題に出さない。やはり自分には可愛さも魅力もないのだと切なくなった。
「そうだ。そういえば」
クラスメイトの一人が口を開くと同時にドアも開いた。視線を向けると蓮がいた。こそこそと囁く声が広がる。
「二学期も来るの?」
「学校辞めればいいのに」
「アメリカに帰ってほしいよね」
冷たい白い目を浴びながら、蓮は自分の席に座った。耳にはめていたイヤホンを取り、鞄にしまう。すずめは蓮のそばに駆け寄りたいのに、黙ってその場に立ち尽くしていた。蓮には関わらないと約束したため、彼に近寄れるのは二人きりの時だけだ。やがて担任が現れ、学校生活がスタートした。
授業中でも、蓮は頬づえをついて窓の外を眺めていた。教師に名前を呼ばれないので困らないが、すずめは真剣に受けてほしかった。ほとんどうわの空のはずなのにテストではいい成績を残している。普段どんな勉強をしているか不思議だった。昼休みになり、ようやく自由な時間だ。蓮が出て行ったのを見て、弁当を持ってすずめも廊下に移動した。知世に二学期も弁当を二つ作ってほしいとお願いした。愛情深い母なので、もちろんと笑って頷いた。
「から揚げも入れてね」
「わかってるって。その女の子も、すずめと似てるんだね」
食べているのは男子だと言えず、ありがとうとだけ返しておいた。音楽プレーヤーについても、エミにプレゼントされたと嘘をつき、猫のぬいぐるみは自分でゲットしたと誤魔化して、蓮と柚希の存在がバレないように気をつけた。
いつも通り空き教室に行くと、蓮は隅の椅子に座っていた。そっとしておいてくれ、一人にしてくれとすずめの心には届いたが、弁当を食べないと腹が減ってしまう。勇気を振り絞ってドアを開けた。
「れ、蓮くん。お弁当」
呼んだが蓮は無視している。もしかしてイヤホンで音楽を聴いているのかと予想したが、そうでもないらしい。
「ねえ、これ。お弁当だよ。食べて」
繰り返すと、蓮は抑揚のない口調で呟いた。
「いらねえ。お前が食えば」
「いらないって……。食べないとお腹空いちゃうよ。それに、あたしお弁当二個も食べられないし」
「腹減ってねえんだよ。食えないなら残せばいいだろ」
「お母さんがせっかく蓮くんのために作ったんだよ? から揚げだって入ってるよ?」
すずめも蓮のとなりに座る。なぜ受け取ってくれないのか。夏休みの前には喜んでくれたのに。仕方なく蓋を開け、自分の弁当を食べ始めた。蓮の笑顔や優しい言葉は消えてしまったのだろうか。仲良くなろうとは考えていない。蓮と友人になるなんて絶対に不可能だからだ。男の子の気持ちは、英語や数学よりも遥かに難しい。いろいろと悩んでいると、長い腕が伸びてきた。目を丸くすると、その手にはペットボトルが握られていた。
「あの、それ……」
止めたが、蓮はごくごくと一気飲みしてしまった。
「うめえな。全部飲んじまった」
空になったペットボトルを机に置く。すずめは震えながら聞いた。
「ど、どうして飲んじゃうのよ」
「喉乾いてたんだよ。また買えばいいだろ」
そうではない。すずめが驚いているのは、間接キスのことだった。蓮はペットボトルが開封されていないと思ったのかもしれないが、すずめが口付けたものだったのだ。しかし恥ずかしすぎて伝えられない。もしかしてアメリカでは間接キスは存在しないのか。しかしここは日本だ。間接キスがある国なのだ。
「……蓮くん。それ、新しいやつじゃないんだけど……」
無意識に口から漏れていた。蓮はツリ目の瞳を大きくした。
「は?」
「あ、あたしがさっき飲んだんだけど」
一瞬、空気が止まった気がした。蓮も衝撃を受けたらしく、唇をごしごしと拭いた。
「ああ……。あれか」
「蓮くんって、間接キス知ってるんだっ」
叫んでしまい、頭をべしっと叩かれた。
「でけえ声出すな。周りに聞こえたらどうするんだよ」
「ごめん。叩かないでよ。痛いよう……」
ううっと泣いて謝ると、蓮は涙を指で拭って見つめてきた。サファイアのように青く輝き繊細で、それでいて男らしく強気な瞳に、すずめの鼓動はどんどん速くなっていく。
「お前、このことは誰にも言うんじゃねえぞ」
「へ? 間接キスしたって?」
「そうだ。もし言ったらお仕置きするからな」
「お、お仕置き? お仕置きって何?」
聞いたが、蓮は黙って視線を逸らした。その意味がわからず、冷や汗がだらだらと流れた。




