二十七話
クラシック音楽が耳に入り、眠りから覚めた。ゆっくりと起き上がると熱はなくなっていた。とりあえず元気になったため、部屋から出て廊下に移動する。
「蓮くーん。あたし、熱下がったよー」
ドアを開けると、ソファーには上半身裸の蓮が座っていた。
「ちょ、ちょっとっ。服っ」
あわわわ……と震えながら叫ぶと、蓮は億劫な口調で答えた。
「風呂からあがってすぐだから、暑いんだよ」
「暑くても、服は着るのっ」
「うるせえなあ。全く」
文句を言いながらも服を着る。キスをしたからか、やけに意識してしまう。とても平常ではいられない。その上、狭い空間で二人きり。彼氏いない歴十六年のすずめにはレベルが高すぎる。
「あたし、そろそろ帰るね」
「六時半だけど。帰れるのか」
「平気。学校から家に帰る時間も大体六時半だし」
早口で伝え、リビングに置いてあった荷物を手に取る。すると蓮は立ち上がり、コンポの横にあった小さな箱を持ってきた。
「これ、やるよ」
「え?」
受け取って箱を開ける。中には音楽プレーヤーが入っていた。
「……これって」
「安もんだけどな。お前、ほしがってただろ」
感動で音楽プレーヤーがきらきらと輝いた。蓮を上目遣いに見て聞く。
「い、いいの?」
「勉強が捗るならな。遊びに使うなら返してもらう」
「う……嬉しすぎる……。もちろん勉強に使うよ。蓮くん、ありがとう……」
ぴょんぴょんと跳ねると、蓮に腕を掴まれた。
「おい。マンションなんだから飛ぶなよ。近所迷惑になるだろ」
「そ、そうか。ごめん。でも、まさか蓮くんにプレゼントもらえるなんて」
「壊れたら次は自分で買えよ。俺はそれほどお人好しじゃないんで」
「わかってるよ。大事にするっ」
大喜びで笑うと、蓮も満足そうに頷いた。
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
「うん。どうもありがとう。お世話になりました」
もう一度感謝を告げて、暗くなった夜の世界に飛び出した。
すずめの姿に、知世は息を吐いた。
「大丈夫? 風邪で倒れたって……。エミちゃんの部屋に泊まったんでしょ?」
一体、誰がそう誤魔化したのか不明だが、素直に答えた。
「エミのおかげで、すっかり治ったけどね」
「もう……。自分で熱があるって気が付かなかったの? 心配で眠れなかったよ」
「えへへ。ごめんなさい」
苦笑すると、知世はさらに深いため息を吐いた。
二階にあがり、バッグの中身をベッドに並べる。蓮からもらった音楽プレーヤーは七色に輝き、その奥には猫のぬいぐるみが入っていた。
「そういえば、あたし……」
熱で倒れる前は、柚希と一緒にいたのだ。穏やかで柔らかな柚希の笑顔。憧れの王子様だ。ずっとずっと恋をして、少しでもいいから距離を縮めたいと願っている。柚希の方も下の名前で呼んできたり、ただの妄想でしかないが特別扱いされている感じがする。猫を見つめていると、柚希の声が耳のどこかから響いた。
「……柚希くん。大好きだよ……」
本人には、とても言えないが、燃え上がった恋心は簡単には静まらない。ごろりと寝っ転がり、そのまま目をつぶった。しかしすぐに勢いよく起き上がった。蓮の顔が浮かびあがったのだ。風邪の看病をしてもらったり、どんな家で暮らしているのかを知った。そして、そして……。
「キスしちゃった……」
あわわわと暴れまくる。キスと言っても微かに触れ合うだけで、偶然当たってしまったのだ。好きだからしたのではない。
「そ、そうだよ。たまたまだよ。あれはキスじゃないんだ」
自分に言い聞かせるために呟く。キスとは好きな人とする行為なのだ。すずめも蓮も、お互いに愛し合っているわけではないのだから。キスではない。ファーストキスは柚希と決まっている。
「あたしって馬鹿だなあ。唇が重なっただけで、キスだなんて焦って」
考え直し、また柚希を頭に浮かべて眠りについた。
朝になると、階段を下りてリビングに向かった。おいしい匂いが鼻につく。
「おはよう。お母さん」
キッチンにいた知世が振り返った。
「おはよう。……あれ?」
「ん? なあに?」
聞くと知世は驚きの言葉を口にした。
「すずめ、ずいぶんと可愛くなったねえ。いきなりどうしたの?」
「可愛い?」
「うん。女の子って、男の子に可愛くしてもらうのよ。急に好きな子でもできた?」
どくんどくんと鼓動が速くなった。それってまさか……。
「油断してると、キスされちゃうかもしれないよ?」
「キス? あ、あたしがキスされるなんて、絶対に起こらないよっ」
頬が照れて、慌てて洗面所に行く。冷たい水で洗っても熱が引かない。
「せっかく忘れかけてたのに……。お母さんの馬鹿……」
呟いてもどうしようもなく、そのまま洗面所を後にした。
家族に秘密がバレないよう、用事もないが出かけた。蓮と唇が重なったが、ただ触れ合っただけ。偶然当たっただけ。好きだからではない。キスは愛している人と交わすもの。すずめと蓮は、愛し合っていないのだから……。
はっと足が止まると、目の前にはレンタルCDの店が建っていた。せっかく音楽プレーヤーをもらったし、二枚ほど借りていくか。クラシック音楽で脳を癒し、キスを忘れてしまおう。とにかく記憶から消してしまえばこっちのものだ。店にはクーラーが効いており、熱い頬が冷やされていった。
「これ、いいな。あ、これも知ってる。どうしようかなあ」
ぶつぶつと呟いていると、横にいた人にぶつかってしまった。
「す、すみません」
顔を上げると、最も会いたくない蓮が立っていた。今まさに距離を置きたい人物だ。
「れ……んくん……」
「何でここに来たんだよ」
ぶっきらぼうに答える。蓮も会いたくなかったのだろう。
「音楽プレーヤー使いたいから、探してみようって思ったの」
「あれでちゃんと勉強するんだぞ」
「もちろんだよ。言われなくたって」
すると、蓮は持っていたCDを棚に戻した。これ以上そばにいられないといった感じだ。
「蓮くん?」
腕を掴むと、その手を振り払って歩いて行ってしまった。不安と心配が頭をよぎる。怒ってるのか不機嫌になったのか、想像すらできない。
「ちゃんと自分の気持ち……伝えてよ……」
ふう、と息を吐き、結局すずめも借りずに店から出た。




