二十六話
はっと眠りから覚めた。蓮の部屋にいることや風邪を引いたことは記憶に残っていたため、驚きはしなかった。窓からは朝の光が注がれ、壁の時計の針は八時を過ぎていた。起き上がり、額に乗せていたタオルを枕の横に置く。酷い熱は、すっかり消えていた。
「治った……」
独り言を漏らす。いつまで続くかわからなかったので不安でいっぱいになっていた。蓮にも迷惑をかけて申し訳ないし、家族も帰ってこないと慌てているだろう。さらに、心に浮かんでいた黒い鉛もなくなっているのに気が付いた。夏祭りに見せた蓮の表情は、ただのすずめの勘違いでどうということでもなかったのか。以前、害虫男と呼んだけれど蓮はショックなど受けていなかったし、気にするほどでもなかったのかもしれない。ずっともやもやしていた胸が軽くなっていく。深呼吸をしてから立ち上がり、部屋から出た。廊下を進みながら、かなり高級マンションに住んでいるなと不思議になった。父は外科医と聞いたし、蓮はお金持ちの息子なのかもしれない。それにしても、外科医とは人の命を救う仕事だ。普通の人間では到底できない素晴らしい職業だ。そんな立派な父を尊敬しないとは親不孝すぎるだろう。なぜそう考えるのか。あんな人間にだけはなりたくないという意味が理解できない。リビングのドアを静かに開ける。家具は少なく、とても殺風景だ。蓮は右の隅に置いてあるソファーに横になっていた。顔に雑誌を乗せているので、すずめにはどういう表情なのかわからない。忍び足で中に入りソファーに向かうが、その前にミニコンポが目に入った。詳しくないので値段は知らなかったが、かなり高そうだった。周りにはクラシック音楽のCDがバラバラに並んでいた。きちんと片付けないのは男子だからだろうか。コンポのとなりには本棚が置かれ、音を立てないように気をつけながら、試しに一冊開いてみた。全て英語で書かれ、すずめにはチンプンカンプンだ。やはり蓮はアメリカで生まれ育ったのだと明らかに伝わった。
「……そうだ……」
すずめの頭の中に、光の筋が走る。高校生の男子なら、みんな持っていそうな雑誌がこの本棚にもあるのではないかと気になったのだ。緊張で指が震える。
「年頃の男の子だから、もしかしてあるんじゃ……」
どきどきしながら探していると、後ろから肩を叩かれた。びくっと全身に雷が落ちる。振り向くと、腕を組んだ蓮が立っていた。
「勝手に人ん家のもん触るな」
「ご、ごめん。でも蓮くんも持ってるのかなあって知りたくって。我慢できなかったの」
「持ってる? 何を?」
正直に答えてもいいか考える。というか女の子が口にしていいものかという気もしてきた。
「黙ってねえで、さっさと」
「いや、あの……。エ……エッチな本とか……」
その瞬間、部屋中が凍り付いた。蓮は衝撃を受けた様子で立ち尽くしていたが、しばらくして聞いてきた。
「お前は、俺をどういうイメージで捉えてるんだよ」
「だってもう高校生だし、男の子なら一冊くらいあってもおかしくないじゃない。気になっちゃったのよ」
「気になるの、お前だけだと思うぞ。もし俺が持ってたらどうするんだよ」
「別にどうもしないよ。やっぱり男の子なんだなって、そっとしておくよ。それって当たり前だし、変じゃないもん」
恥ずかしさで頬が炎のように燃え上がる。やはり素直に答えるべきではなかった。すると蓮は間をおいてから答えた。
「そうだな。変じゃねえよな」
意外とあっさりとした口調に目が丸くなる。きっと呆れられ馬鹿にされると予想していた。
「うん。実際にはなかったけどね。蓮くんは、女の子について興味はないの?」
ふう……と息を吐き、蓮はしっかりと話した。
「そりゃあ、好きな女ができたら興味も沸くだろ。欲しくなったら、そういう本も買うし」
「えっ? 買うの?」
驚いて後ずさった。抑揚のない口調で蓮は続ける。
「そんなこと言ったら、お前が憧れてる真壁だって同じだぞ。いやらしい意味じゃなく、自分の子孫を残してもらうために勉強するんだよ」
「べ、勉強か。まあ男の子は子供産めないしね。じゃあ、あたしは好きな男の子のために子供を作る役目があるんだ」
出産の痛みは死ぬほど辛いだろう。別に妊娠しているわけではないのに怖くなった。まだ相手すらいないのに。ふっと笑い、蓮はすずめを見つめた。からかう表情だ。
「お前ってけっこうエロいんだな。女がいやらしい本探すとか初めて知ったぞ」
「違うよっ。さっきも言ったけど、これは当たり前なのっ。変じゃないのっ」
「そうかそうか。次は買っておいてやるよ」
悔しさで、頬がカッと熱くなる。穴があったら入りたい。
「もう探さないもん。蓮くんがエッチな本持ってても、どうでもいいもんっ」
「へえ。じゃあ、真壁の部屋では探すのか?」
「探さないってばっ」
勢いよく横を向くと、病み上がりだったからか床に倒れそうになった。素早く蓮が抱きかかえる。
「危ないだろ。頭打ったら死ぬぞ」
「わ、わかってるよ。ありがとう……」
蓮に視線を移す。あまりにも近い位置に顔があって、どきんどきんと胸が速くなる。
「どうしたんだ? また熱か?」
ツリ目っぽい瞳に、すずめは石のように固まった。いつも遠くにいるので気付かないが、目が青っぽく輝いている。例えるとサファイアだ。強気で男らしさがあって大人っぽいこの瞳は、彼の最もかっこいい部分だ。至近距離で見つめられたら指一本動かせなくなる。
「しょうがねえな。もうちょい寝てこい」
抱き締められたまま、すずめはベッドに連れていかれた。ドサッと押し倒され、蓮が馬乗りになる。額で熱を測るつもりだ。
「あの……。体温計ないの?」
「あるかもしれないけど、探すのが面倒くせえんだよ」
「面倒くさいって……」
その時、ずるっと蓮の腕が滑った。二人の唇が触れ合う。ほんの数秒だがキスしてしまった。慌てて蓮は起き上がり、口をごしごしと拭いて呟いた。
「体温計、探してくる」
「う、うん。その方がいいよ」
すずめも大きく頷くと、蓮は走って部屋から出た。取り残されたすずめは、痛いほど跳ねまくる心臓を必死に落ち着かせた。
「……キスしちゃったよ……。蓮くんに……キスされちゃった……」
ごろごろと左右に転がる。本当に唇が重なるとは夢にも思っていなかった。できれば柚希に奪われてほしかったファーストキスを、蓮に奪われてしまうとは。うぎゃあああっと暴れていると、蓮が戻ってきた。
「人ん家でじたばたすんな」
「え? あ、うん。ごめん」
まともに目が合わせられない。だが蓮はお構いなしにこちらを見つめてくる。しかもあの女の子をイチコロにさせる魅力に詰まった瞳で……。
「体温計ねえから、とりあえず寝てろ。大人しくしてればよくなるだろ」
すずめは死にそうなほど興奮しているのに、蓮は何事もなかったかのように冷静な口調だった。こくりと頷き目を閉じる。今はキスは忘れて熱を下げることだけに集中した。




