二十五話
目を開けると、暗い天井が視界に映った。明らかにそこは自室ではなかった。ゆっくりと起き上がり、ようやくベッドに横たわっている事実を知る。
「……ここ……。どこ……」
呟いたが人の気配がしないため、答えは返ってこなかった。ぼんやりとした頭で、つい先ほどの記憶を辿る。確か散歩に出かけて、途中で柚希に会い、UFOキャッチャーでぬいぐるみを取ってもらったりクレープを食べたりした。すずめちゃんと呼ばれ電話番号とメールアドレスを交換して、まさに天国のようなひとときを過ごしていた。嬉しさがピークに達し、そして……。
「そうだ。倒れたんだ。あたし……」
柚希があまりにもかっこよすぎて耐えきれなくなって気絶した。ということは、この部屋は柚希の自室。柚希のベッドだ。
「う……うわわっ。王子様が毎日寝てる場所に、村人のあたしが寝たらまずいじゃんっ。や……やばいっ」
慌てると、ガタンとドアが閉まる音がした。だんだんと近づいてくる。どきどきして全身が固まった。狭い空間に二人きり。また柚希の笑顔が独り占めできる。誰にも邪魔されず、幸せなひとときが……。完全に頭の中がお花畑のすずめは、両手を広げて待っていた。だが現れたのは柚希ではなく蓮だった。
「あれ? お前、起きたのか」
抑揚のない口調。期待していた柚希の姿が崩れ去り、思わず大声を出していた。
「ど、どうして柚希くんの部屋に蓮くんがいるの?」
「は? ここ、俺の部屋なんだけど」
目が点になる。きょろきょろと周りを見渡すと、確かに柚希らしさは感じられなかった。全体的に黒っぽいし、柚希は白や明るい色が好きそうだ。
「な、何で、あたし……。蓮くんの部屋で寝てるのよ?」
「真壁に頼まれたんだよ。看病してやってくれって」
わけがわからない。別にすずめは病気ではないのに。付け足すように蓮は続けた。
「お前、風邪ひいてたんだよ」
「か……ぜ……?」
無意識に額に手を当てる。恐ろしいほど熱くなっている。
「要するに、お前は真壁と歩いている時に、酷い熱でぶっ倒れたわけだ。真壁がおろおろしてたら俺が偶然通りかかって、看病してほしいってお願いされた。俺は真壁がすればいいだろって答えたけど、うちは家族がいるから一人暮らしの俺にしか看病できないってさ。そこらへんに捨てておくわけにもいかねえし。で、お前はここにいる」
衝撃が襲いかかってきた。寝ている間に、そんな出来事が……。まさか蓮の部屋に連れて行かれるとは。
「あ、あたし、家に帰る」
ベッドから立ち上がろうとしたが、素早く蓮に押し倒された。
「寝てろ。もう九時だし、まともに歩けないだろ」
「九時?」
時計に視線を移動し、ガーンとタライが落ちてきた。
「今日は俺ん家に泊まって行け。家族はいないから安心だろ」
だが、逆に狭い空間で蓮と二人きりなのは緊張してしまう。すぐに不機嫌になるし怒るし、心配なのだ。
「迷惑かけちゃうでしょ。帰るよ」
もう一度立ち上がると、くらりとめまいがして床に倒れそうになったが、すんでで蓮が抱きかかえた。
「危ねえなあ。気を付けろよ」
文句をこぼしつつも、蓮はベッドに戻してくれた。
「ねえ、本当にあたし、風邪ひいてるの?」
弱々しく質問すると、蓮は頷いた。
「酷い風邪だぞ。自分でだるいとか熱があるとか気付かないのかよ」
呆れる表情で話し、顔を近づけてくる。
「うわあっ。二人きりだからって、いきなりそれは」
すずめが動揺すると、蓮はこつんと額を当ててきた。
「さっきよりも熱くなってるし」
「へ?」
「冷たいタオル持ってくる。大人しく寝てろよ」
蓮が大股で部屋を出ると、ふう……と息を吐いた。
「……キ……キスされるかと思った……」
ばくんばくんと心臓がおかしな跳ね方をしている。柚希もイケメンだが、蓮も超が付くイケメンだ。街を歩けば若い女の子は全員振り返るくらいだ。頭もいいし喧嘩も強いし英語もペラペラ……。少し性格が残念だが、黙っていればいい男なのだ。妄想していると蓮が戻ってきた。氷水を入れた洗面器をそばの机に置き、タオルに浸して首元や額に当ててくれた。冷たい水が、少しだけ辛さを取り除いてくれる。
「欲しいもんがあったら遠慮なく言えよ。我慢するな」
ベッドの脇に腰かけ、すずめの頬を撫でた。彼にしては珍しく優しい仕草だ。
「今はいらない。とりあえずタオルさえ当ててくれれば」
「腹は減ってないか? 飲み物は?」
「いらないよ。……ちょっと寝るね……」
掠れた声で伝えると、すずめはふっと意識を失った。
しばらくして、また目を覚ました。熱は治まっているどころか、もっと酷くなっていた。頭が割れそうで、体の節々が痛む。
「大丈夫か? どんどん高くなってるぞ」
蓮の言葉が飛んできた。頷くのも辛い。
「夏風邪って、なかなか治らないらしいけど」
「……え……。いつになったら治るの……?」
「さあな。でも時間はかかると思うぞ」
「そ……そんな……」
ひいてしまったのだから仕方ない。黙ったまま蓮はタオルを絞って、すずめの首と額に当てる。呼吸も苦しく、ハアハアと荒くなってきた。
「明日になっても酷かったら、病院に連れて行くぞ」
「病院……? あ、あたし、お金持ってない……」
「金なんか、俺が払うから考えるな。お前は風邪を治すことだけに集中しろよ」
「わかってる。けど……」
声が掠れていく。情けなくて恥ずかしくて、ぽろぽろと涙が溢れた。
「ごめん……」
ふと、ある重大な出来事が蘇った。温くなったタオルを氷水に浸し、蓮は答えた。
「風邪はしょうがないだろ。いちいちそんなことで」
「違う。あたし、蓮くんのこと、すぐ殴る人だなんて思ってないよ。すぐ暴力を振るうって白い目で見てないから。ショックなんか受けないで……」
本人に直接伝えなくてはいけない。蓮の不安を晴らすには、しっかりと気持ちを届けなければ。柚希が話していた。息絶え絶えに謝ると、蓮はツリ目の瞳を大きくした。
「俺、別にショックなんて受けてねえけど」
「え? で、でも、びっくりしてたじゃない」
「いつどこで俺がびっくりしてたんだよ」
「夏祭りの帰り道だよ。あたしが殴らないでって怖がった時……」
蓮は視線を逸らしていたが、にっと小さく笑った。
「よく覚えてないけど、まあいいや。謝るなんて、ずいぶんと素直だな。いつもはうるせえし、しつこいのに」
「あたしだって素直になる時はあるもん」
「前は害虫男なんて叫んでたくらいなのにな」
そういえば、そんなことを言った。すっかり忘れていた。あの日から柚希とも関わるようになった。あれは、すずめにとって大事な出来事だったのかもしれない。
「もっとしっかり寝てろ。俺には一切気にしなくていいからな」
うん、と頷くと、蓮が頬を撫でた。ショックを受けていなかったと安心し、ゆっくりと目を閉じた。




