十六話
翌日から、高篠は学校に現れなかった。クラスの雰囲気は和やかになり、教師も安心して授業をしていた。ただ一人、すずめだけが空しい思いで過ごしていた。となりに誰も座っていないと寂しくなると伝えたから、もしかしたらまた来てくれるのではないかと期待していたのに。すずめがそばにいるのが不快で堪らないのかもしれない。俺につきまとうのは非常識と話していたし、これ以上彼と距離を縮めるのは諦めるしかないのか。かといって、すずめは高篠を一人にさせたくなかった。すずめが高篠を救えるわけないのはわかっていたが、放っておけない。
ようやく土曜日になると、朝早く起きて薬局に行った。顔半分が隠れるマスクを買い、店を後にする。風邪を引いたわけではない。ある重大な作戦を実行するのに必要だったのだ。エミや知世から電話をかけられたらまずいので、携帯は家に置いてきた。マスクをつけ、そっと前を進む。重大な作戦とは、高篠を尾行するという内容だった。好きなことをしろ。高篠はそう言ってきた。だから言われた通り、すずめも高篠を追いかけるという意味だ。ストーカーではない。犯罪なんかしたくない。だが、こっそりでしか高篠に会えないのなら、こうしてバレないように変装するしかない。サングラスもすればよかったかな、と考えながら歩いていると、ある場所に辿り着いた。以前「女が一人でいたら危ない」と教えられた、物騒な奴らがたむろしているところだ。緊張しながら、勇気を振り絞って足を動かす。たぶん、ここに高篠はいるはず。しばらくすると喧嘩をしている音が耳に入った。ぎくりとして冷や汗が流れる。逃げたいが、恐怖で体が硬直してしまった。
「金……。返してくれ……」
掠れた声がし、その後に下品な笑い声が響く。
「最近、遊ぶ金が切れててさ。どうもありがとなー」
「頼む……から……」
がくがくと全身が震える。これを恐喝と呼ぶのだろう。
「じゃあねー。またよろしく」
そして男たちがこちらに来る気配がした。大急ぎで、すずめは近くの建物に隠れた。明らかにヤクザと思われる連中が笑い合っていた。男たちの姿が消えてから、音を立てないように建物から出た。まだ震えは止まらない。
「あ……あんな人たちと、喧嘩してるなんて……」
よほど度胸が据わっていないと、とても一人で戦えないだろう。高篠は、ある意味ものすごく勇敢な人間なのでは。遠くから、また殴る音がした。本当に頭の狂った奴らがうようよしている。確認したいが、すずめはもう一度隠れた。やがて、ひょろりとした男が逃げるように走って行き、間もなく高篠がやって来た。
高篠くん、と言いかけて、口を閉じた。なぜここにすずめがいるのかと、絶対に不快になる。尾行したとバレてはいけない。勝手なことをしたと、それこそ殴られるかもしれない。高篠はすずめに気づかず、そのまま歩いて行った。完全に姿が消えるまで待ち、息を吐いて呟いた。
「やっぱり、喧嘩ばっかりしてるんだ……」
悲しみで項垂れた。本当は高篠だって、平和な毎日を送りたいだろう。せっかくアメリカから日本にやって来たのに、クラスメイトからは白い目を向けられ不登校になる上、争いで神経を尖らせてばかり。だが、すずめには彼を護る術も力もない。こうして隠れて逃げてしまうし、弱虫すぎて恥ずかしくなってくる。
「……あたしにできることは、少しでも高篠くんのそばにいることだ……」
もう一度呟き、強く自分を奮い立たせた。たぶん高篠は、すずめが近寄って来たら嫌がるだろうが、放っておけなかった。高篠を喧嘩三昧の日々から、普通の高校生の日々に戻してあげたい。ただそれだけ。柚希も、高篠が学校に来るのを願っている。仲良しにはとてもなれそうにはないが、一緒に弁当を食べたりしていれば、お互いの心が通じ合うかもしれない。
「頑張れ。あたしにはきっとできる……」
ぱんぱんと頬を叩き、ぎゅっと目をつぶった。
その日は仕方なくそのまま帰った。すずめが買ってきたものを見て、母は驚いた。
「具合悪いの?」
「あたしじゃなくて、エミが」
「エミちゃん? 大丈夫?」
「うん。風邪気味だったけど、治ったよ」
嘘や言い訳はしたくなかったが、正直に伝えるのは無理だった。とりあえずエミの名前を使えば、怪しまれる心配はなさそうだ。
翌日も、ヤクザのたまり場に行った。こそこそ隠れながら、野蛮な男たちの姿を眺める。同じ人間なのに、この男たちと柚希はなぜこうも違うのかと不思議だった。不良とでしか生きられない男たちが哀れにも感じた。育った環境が原因で、人は全く変わってしまう。
「……高篠くんは、どんなお家で、どんな家族と暮らしてきたんだろ……」
子供がああだから、親はもっと性悪なのではないか。黙っていれば女の子にモテモテのイケメンなのに。
「あーあ。もったいない。柚希くんみたいに優しければ、きっと幸せになれたのに」
くるりと振り返ると、目の前に誰かが立っていた。どきりとして見上げると、高篠が鋭く睨んでいた。
「た……たたた……高……し……の」
「何がもったいないんだ?」
「いやいや。高篠くんには一切関係ないことだよ」
「それならいいけど。さっさとここから出てけ」
高篠は視線を逸らし、歩き出した。その腕を掴み、無理矢理引っ張った。
「待って。こっちに来て」
「放せよ。俺には関わるなって……」
「ちょっと話したいの」
「話したい?」
「うん。時間はかからないから」
ぐいぐいと力を込める。高篠もゆっくりとついて来た。
小さな公園に辿り着いた。汚れたベンチに座ると、高篠の方から切り出した。
「どうして、お前がここにいるんだ」
まさか尾行していたとは答えられない。俯いて消えそうな声で囁いた。
「たまたまだよ。偶然、ここに来てて」
「俺を探してたんじゃないのか? できるわけないのに、俺を助けようと妄想して」
図星だったため、返す言葉がなかった。がっくりと項垂れる。
「……確かに、あたしには高篠くんを護ったり助けたりは無理だよ。でも」
「俺に構うなって言ったのに、本当に馬鹿だな」
目をつぶった。きつい口調に、罪悪感が浮かぶ。
「あ、あたしは……」
「マンガの読み過ぎなんだよ。まるで自分を魔法使いとかヒーローとかと勘違いしてんだろ。きっと自分にはできるって。高校生なのに、いつまで子供なんだよ」
「勘違いしてないよ。ただ、高篠くんを一人ぼっちにさせたくなくて。みんなが怖がっても、あたしだけは近くにいてあげようって……」
「俺は一人でも寂しくねえよ。自分と同じように考えないでほしいね。お前がそばにいてもいなくてもどうでもいいし、むしろ迷惑なんだよ。わかったか、妄想女。つきまとうのはやめろ。その馬鹿な面見るだけでうんざりする」
呆れた声でそれだけ言うと、すずめの返事を待たずに高篠は歩き出した。一気に怒りが沸き、すずめは渾身の力で背中に体当たりした。もろに食らった高篠は前のめりに倒れた。
「痛えな。いきなり何すんだっ」
「あーあ。もったいない。もったいなさ過ぎて仕方ない。柚希くんみたいに優しくなれば、きっと幸せになれたのに」
先ほどの言葉を無意識に怒鳴っていた。高篠は目を大きくした。
「幸せ?」
「高篠くんは、自分から不幸に向かって行ってるみたいなんだよ。本当は、もっと楽しくて心が躍るような毎日が送れるのに。そうやって意地張ってひねくれて偉そうな態度とって。あたし、そんなの全然幸せだと思えない。友だちもいないし一人ぼっちなんて、全然楽しくないよ……」
いらいらしているのに、なぜか涙が溢れた。ごしごしと手で拭い、もう一度繰り返す。
「高篠くんには、高篠くんの良さがあるのに。もっとにっこり笑って、友だちも作って普通の高校生になってよ……。喧嘩ばっかりしてて、可哀想で堪らないんだよ……」
高篠は何も答えない。きっと呆れているのかもしれない。
「馬鹿で妄想するあたしが嫌いなんだね。わかった。もうしつこくするのはやめる……。その代わり、もっと幸せになろうって考えてよ……」
そこまで言うと、すずめも走って帰ろうとした。
「ちょ、ちょっと待てよ」
慌てて高篠が追いかけてきた。手を掴み、すずめは前を向いたまま呟く。
「放してよ。あたしが嫌いなんでしょ。何不自由なく生きてきたあたしが」
「ここにいろ」
はっと驚いた。予想していなかった。くるりと振り向く。
「え?」
「泣いた顔で帰ったら、母親に心配させるだろ」
「でも、あたしが近くにいるのは」
「泣き止んで気持ちが落ち着くまでは、ここにいろよ。俺もとなりにいてやるから」
確かにそうだと思った。母に泣いたのをバラしたくない。なぜ泣いたのかの理由も言えない。
「……わかった……」
小さく頷き、高篠に手を引かれて公園に戻った。
並んでベンチに座った。学校で、すでに並んで座っているため緊張はしない。涙はすぐに消え、高篠は空を眺め黙っていた。
「あ、あの。高篠くん」
話しかけると、高篠はこちらに視線を移動した。
「どうした」
「高篠くんは、このままでいいの?」
「このままって?」
「さっきも言ったけど、こうやって喧嘩三昧のままで過ごしていたいの? 本当は、また学校に通いたいんじゃ……ないの……?」
だが彼は答えない。すずめは続けた。
「あたしは、高篠くんが来るのを待ってる。一緒に勉強したいし、暇つぶしでもいいから学校に来れない?」
目をつぶった。冷たい槍が飛んでくると思っていた。が、高篠は少し戸惑っている感じで聞き返した。
「お前は、俺が怖くないって言ってたよな。何で怖くないんだ?」
「同い年で普通の男の子が怖いわけないでしょ。そりゃあヤクザや暴走族のリーダーだったら怖いよ。だけど、そうじゃないんだし」
「へえ……。でも、もし俺が危ない人間で殺人鬼だったとしても、お前は学校に来いって呼んだだろ」
なぜ高篠は、すずめの心の声が届くのだろう。
「それは……」
「何でお前は真壁に会いに行かないんだ」
「えっ?」
「真壁のことが好きなんだろ。なら、あいつに会いに行けばいいのに、どうしてわざわざ俺に会いに来るんだ。時間の無駄だろ」
首を横に振って、すずめは言い返した。
「時間の無駄じゃないよ。柚希くんは好きだよ。憧れてるし、仲良くなりたい。でも、お近づきになるには、とても大変なの。ファンがいっぱいいるからね」
「ふうん……。で、しょうがないから周りに人がいない俺に会いに行ってるって? 俺の方が簡単だから」
「簡単じゃないよ。むしろ、高篠くんとお近づきになる方が難しいもん。女だから、男の子の気持ちも理解できないし。めっちゃ大変だけど、高篠くんを放っておけない。一人にできない」
「またそれかよ。いい加減、自分がどんな人間なのか」
「それに、意外に高篠くんの言葉は、蝶よ花よと育てられたあたしにとって刺激にもなってるよ。問題のない毎日を送っているより、ちょっと違う経験もした方がいいし」
勢いよく高篠は、すずめを見つめた。かなり衝撃を受けたみたいだ。
「変な奴だな……。女ってわけわかんねえ」
「あたしも、男の子の考えてること、わけわかんないよ」
しかし、わからないのがロマンチックだと柚希は話していた。その意味は未だに不明だが、もし高篠や柚希が「こう考えている」とわかってしまったら、とても付き合うのがつまらなくなるイメージがした。どうしたら喜んでくれるのか、どうしたら仲良くなれるのか。悩んで落ち込んで、そしていつか「こういう人だったのか」と明らかになった時に感動するのではないか。柚希はそれをロマンチックと呼んだのでは。
「高篠くんと友だちになりたいクラスメイトもいるんだから」
「俺と関わりたい奴なんか一人も」
「ここにいるじゃん。柚希くんも仲良くなりたいって考えてるし」
とりあえず現在は、すずめと柚希だけだが、高篠が心を開けばもっと繋がりたくなる人は増える。
「……やっぱり、お前はおかしな女だな」
「鳥だもん。仕方ないよ」
「ついに鳥って認めたのか。すげえな」
「認めたわけではないよ。……さて、もう泣き止んだし帰ろっか」
立ち上がると、高篠も小さく頷いた。




