一四二話
はっと夢から覚めた。ゆっくりと起き上がりリビングに移動する。ソファーで蓮が安らかに眠っていた。音を立てずに近寄り、まじまじと寝顔を見つめる。
「……あたしの彼氏なんだ……」
未だに信じられなかった。邪魔者扱い。迷惑で大嫌いと怒鳴られ続けていたのに。そっと過去の出来事を胸に浮かべながら距離を縮める。こっそりキスをしようと思いついたのだ。もう恋人同士なのだから、キスをしてもいいじゃないかと考えた。だが、あと少しというところで蓮が勢いよく目を開けた。
「うわわっ。起きてた?」
「やっぱりな。キスするんじゃないかって予想してたんだよ。大当たりだな」
「そ、そうだったの? は……恥ずかしい……」
全身が燃え上がる。にっと笑いながら蓮は続けた。
「もっとしつけのできてる子犬になったな。俺が可愛がってやるぞ」
「また馬鹿にしてー」
「素直な性格でいいって褒めてるんだよ。馬鹿にしてるわけじゃない」
よしよしと撫でてもらい、鼓動が速くなった。確かに今の自分は、お手やおかわりが上手にできて飼い主からごほうびをもらおうと待っている子犬と同じかもしれない。
「むうう……。悔しいなあ。でも蓮に愛されるなら子犬って呼ばれても別にいっか」
呟くと突然あごを掴まれて蓮に唇を奪われた。慌てて後ずさる。
「ど、どうしたの? いきなり」
「キスしたいなら、別に隠れなくていいんだぞ。やってほしいってお願いされれば毎日でもやってやるよ」
「だけど、キスしてってはっきり言うの恥ずかしいんだもん。嫌だって怒鳴られたら悲しいじゃない」
「冷たいことは言わねえよ。今までたくさん泣かせて悪かったな。めちゃくちゃ傷つけて……ごめんな」
「ごめん」という言葉を初めて聞いた。あまりにも意外で目が丸くなった。
「れ、蓮がごめんなんて。び、びっくり」
恋人には、こんなに柔らかな態度をとるのかと衝撃が強かった。蓮はすずめの髪に触れながら、そっと囁いた。
「体の中に磁石が埋まってるだろ」
「磁石? 何で?」
「ものすごく吸い寄せられるんだよ。ぐいぐい引っ張られる。たぶん俺は砂鉄なんだろうな。だから離れられない」
「磁石と砂鉄って……。もっとロマンチックな例え方ないの? 理科の実験みたいじゃない」
「残念だけど、俺はロマンチックな性格じゃないから。でも、すごくわかりやすいだろ」
「そりゃあ、砂鉄は磁石にくっつくからね。ロマンチックさはないけど、わかりやすいよ」
ぎゅっと抱きしめられた。頼りがいのある腕と広い胸にうっとりし、今度はすずめの方からキスをした。自分の名前を忘れそうになるほど心奪われる。蓮と愛し愛される日が来ると思っていなかった。まるで夢を見ているみたいだが、これは現実だ。本当に蓮と恋人同士になったのだ。
「あ、ねえ。柚希くんと圭麻くんに電話してもいい?」
「電話?」
「蓮の彼女になったよって報告したいの。だめかな。それもイチャイチャの中に入る?」
「いや。電話なら構わない。家に上がって話すのは禁止だけど」
「わかった。じゃあ、さっそくかけるね」
携帯を取り出し、まずは柚希にかけた。教えると暖かな声が返ってきた。
「うわあ……。よかったね。まさか高篠くんと両想いになれるなんて。すずめちゃんが一生懸命努力してたのを神様は見てたんだ。本当に嬉しい。結婚は?」
「するけど、まだ時間がかかるらしいの。外科医になるのって死ぬほど難しいんだって。あの蓮が自信失くすほどだし、相当辛い道のりだよ」
「そっか。早く結婚して幸せ掴みとりたいね」
「仕方ないよ。蓮の夢も叶えてあげないと。あたしも立派な外科医になってほしいからね」
そこで一旦切り、次は圭麻に電話をする。同じように伝えると、少し悔し気な口調で答えた。
「ついに彼女になったんだ。これからはずっと二人で暮らすのかな?」
「まだだよ。蓮が外科医になって、それなりにお金も貯めてからじゃなきゃ。子供も作れないし」
「外科医って何年経てばなれるのかな?」
「あたしは詳しく知らないけど、かなり後になるみたい」
「高齢出産はいろいろと問題があるらしいから、なるべく早く外科医になってもらいたいね」
こればかりは蓮の努力次第なので、とにかく頑張ってと励ますことしかできない。圭麻との会話も終わらせ、にっこりと笑った。
「二人ともお祝いしてくれたよ。優しいよねえ……。やっぱり王子様だなー」
「それって、好きって意味じゃねえよな」
じろりと低い声で聞かれ、慌てて首を横に振った。
「違うよ。確かに好きだけど、友だちとして。恋人になりたいってわけじゃないよ」
「ならいいけど。ちゃんと約束守れよ」
「イチャイチャなんかしないってば。信じてよー」
それに卒業したら柚希はイギリスへ行き、圭麻は有那のマンションへ引っ越す。イチャイチャしたくてもできないのだから疑う必要などない。ふう、と蓮は息を吐き、こくりと頷いた。
とりあえず用はなくなったので帰ることに決めた。蓮はまだそばにいてほしそうだったが、「お母さんが心配してるかも」という言葉で諦めたようだ。
「いつでも来れるから。家もすぐ近くに建ってるんだもん。徒歩で二十分くらいだよ」
「そうだな。俺の足だと五分で着くぞ」
「お腹がすいたら連絡してね。料理作りに飛んでいくよ」
「俺のためなら何でもしてくれるんだな。……すずに愛されて幸せだ」
頬が赤くなってしまう。「じゃあね」と微笑んで、そのままドアを閉めた。
蓮を両親にどうやって紹介しようか、歩きながら考えた。傷つけられたり泣かされたことは全て隠し、ただかっこよくて素敵なんだと長所だけ褒める。もし以前の性格を聞いたら、別れた方がいいと止められてしまうかもしれない。さらに柚希と圭麻の存在もバラさないことにした。これも蓮より柚希や圭麻と付き合いなさいと言われないようにするためだ。親だったら、柚希や圭麻が安心だと感じるのではないか。
「でも、あたしは蓮を愛してるんだもんね。蓮以外の男の子に興味ないもん」
独り言を漏らしながら、家のドアを開けた。とても久しぶりに帰宅した気がした。「ただいま」と言うと、知世が返事をした。
「おかえり。エミちゃんの部屋に泊まったの?」
ううん、と首を横に振ろうとしたが、無意識に頷いていた。
「うん。二人でやる方が勉強って捗るじゃない」
「あんまり頼りすぎちゃだめだよ。ところで、志望校は決まってるの?」
まだぼんやりとしていたが、すぐに答えた。
「一応はね。でも、落ちたら大学には行かない」
勝手に言葉が口から漏れてしまった。
「え? 行かないの?」
「やりたいことというか、あたしには他にするべきことが見つかったから」
蓮と二人暮らしをして、すぐそばにいてあげたい。自信を失くす蓮を励まして応援しながら、家事をしたい。大学に行かないとなると就活をしなくてはいけないが、何とか見つけられるのではないか。知世は少し戸惑っていたが、すずめが真剣な表情をしていて大きく頷いた。
「そっか。すずめの人生はすずめが作るんだもんね。お母さんたちは何も言わない。ただし、よく考えて行動するんだよ。他人に迷惑かけたり、後悔しないようにね」
「ありがとう。お母さん、大好きっ」
ぎゅっと抱きつくと、優しく頭を撫でてくれた。




