一三九話
ベッドに横たわったのは十一時だった。カレーの皿を洗った後、蓮がテストで間違えた問題について説明してくれたのだ。厳しくも甘くもなく、とてもわかりやすい教え方で英語が苦手なすずめでもすんなりと理解できた。
「やっぱり蓮くんって家庭教師の才能あるよ。人と関わるのが得意だったら、学校の先生にもなれたのに。もったいないー」
「いや。もし俺がそういう性格だったとしても教師にはなんねえよ」
「どうして? めっちゃ人気な先生になってモテモテだよ」
すると頭を撫でられた。とても柔らかな感触に、どきどきしてしまう。
「お前だから、教えたくなるんだよ。そこら辺の奴らには教える気はさらさらない。俺にとって、お前は特別な存在なんだよな。家族にも愛されなかったんだぞ。それなのに……まさか、気が狂うほど好かれるとは……」
生まれて初めて好きになってもらったのがすずめだった。幼い蓮を世話した女性は亡くなり会うのは不可能になってしまった。
「なあ、お前って欲しいものはあるか?」
質問され、目が丸くなった。少し驚いたが答えは見つかった。
「蓮くんだよ。蓮くんが欲しい」
「真壁と天内は? 欲しくないのか?」
「柚希くんと圭麻くんは、仲良しの友だちだもん。恋人同士になることはないよ。圭麻くんに二回目の告白をされたけど、蓮くんが忘れられないからって断った。もう蓮くんしか視界に映ってない状態なの。身も心も捧げられるし、命だってあげちゃう」
「命って……。ずいぶんと大げさだな。なら、あいつらの部屋に泊まったりイチャイチャしないってことか」
「もちろん。蓮くんは? 欲しいものないの?」
聞くと蓮は俯いた。考え事をしている表情だ。笑っている方が好きだが、この真剣な眼差しも胸を熱くさせる。
「……ないなら答えなくてもいいよ」
フォローを入れてあげた。愛する人を困らせたくない。蓮は、こちらに視線を向け呟いた。
「今は曖昧で俺もよくわかってねえんだよ。本当に欲しいものなのか」
「ということは、一応あることはあるんだね」
「まあ……。他人に奪われたら悔しくなるだろうなとは思ってるけど」
圭麻の言葉が蘇ってきた。すずめが誰かと結ばれた時、蓮はどう感じるか。二度とマンションにはあげられないしケーキのごちそうもできない。ずっとそばにいた子がいなくなったら頭が狂いそうと圭麻は話していた。だが、それはすずめを愛しているからだ。蓮はすずめを愛していないし、たまに穏やかな態度をとるだけで別にどうでもいいと考えている。
では、妊娠したら許さないと睨んだ理由は、という疑問も浮かぶ。子孫を残すには女性に産んでもらうしかない。恋人を探さないといけないのに、その必要はないと動かない。
「蓮くん。やっぱり彼女作った方がいいよ。こんなにかっこよくて素敵なんだよ?」
そういえば、流那が蓮をとても気に入っていた。性格を知らないからかもしれないが、また会いたいと言っていた。幼い子に慕われるのは、それだけ優しい人という意味。血の繋がった我が子を溺愛するのは確実だろう。子煩悩な姿を見てみたい。だが蓮は首を横に振り黙った。この話題に飽きたらしく、無言のままテレビをつけた。結局すずめも口を閉じて、それ以上は何も言えなかった。時計の針が十時半になって「寝るね」と伝えて部屋にやってきたのだ。布団の中で、そっと呟く。
「あたしは、特別な存在なんだ……」
どくんどくんと心臓が跳ね上がる。それが好きだととっていいのかどうかはわからないが、どうやらすでに嫌いな人物ではなくなっているようだ。かといって、しつこくしたり馴れ馴れしくしたら怒鳴るだろう。まだ心の扉は閉まっていて、自分の気持ちを打ち明けるまでの仲ではない。
「あーあ。どうしてだんまりなんだろ……」
深くため息を吐いた。生まれつきなため悶々と悩んでも仕方ないが、もう少し素直になってくれてもいいじゃないか。もう一度息を吐き、ゆっくりと眠りについた。
しばらくして、何かが唇に触れている感覚がした。目を開けると、蓮が横に座って口元を指でさすっていた。驚いて勢いよく起き上がった。
「うっ。うわあっ。どうしたの?」
「気持ちよさそうだなって思って。嫌だったか」
「嫌じゃないけど、びっくりするよー。どきどきしちゃう」
すると蓮の手が胸に移動した。力強く押さえつけられる。
「ああ。確かにばくばくしてるな」
「わ、わかるの?」
「わかる。足は遅いのに心臓は速いんだな」
馬鹿にされても言葉が返せない。さらに蓮は、すずめの手を自分の胸に当てた。
「俺の心臓の音は? 聞こえるか?」
「手を当てただけじゃ無理だよ」
「なら、耳に当ててみるか」
そう言って服を脱ぎ、直接胸を耳に押し付けた。興奮で全身が熱くなっていく。
「き……聞こえない……。聞こえないよ……」
「じゃあ、どうして俺にはわかるんだろうな。振動がものすごい強さって意味か」
話しながら蓮は脱いだ服を身に着けた。
「そりゃあそうでしょ。あたしがどんなに愛してるのか、教えてあげたいよ」
毎日マンションに通って料理を作ってあげたり掃除や洗濯もしてあげる。好きになってもらえない相手にそこまでするのは、かなりの異常だ。しかしこの恋は燃え上がり続ける。
「起こして悪かったな。しっかりと眠って疲れ取れよ」
「蓮くんもね。勉強ばっかりしてたら、この前みたいに倒れちゃうよ」
「そうだな。あれは二度と体験したくねえな」
抑揚のない口調で答え、蓮は部屋から出て行った。はあ……と深呼吸をする。
「あたしに心臓の音聞いてほしかったのかな? でも聞いてどうするんだろう? 普通の心臓の音なんて意味ないじゃない」
独り言を漏らす。なぜ聞かせたかったのか。それともまさか蓮も鼓動が速くなっていたのだろうか。柔らかい唇に触れ、どきどきしていた。自分の特別な存在のすずめに。
「……いやいや。蓮くんがあたしのこと好きになるわけないじゃん。両想いになれるわけないじゃん。おかしな妄想しちゃだめだ」
ぶんぶんと首を横に振ってベッドに寝っ転がった。奇跡でも起きない限り、その夢は叶わない。ぎゅっと目をつぶったが淡い期待が邪魔をして、ほとんどうつらうつらしかできなかった。
翌朝、リビングに行くと蓮がソファーで寝ていた。疲れていてもイケメンは容姿が整っていて崩れない。音を立てないよう近寄り、じっと見つめた。
「……愛してるよ……」
届かないが、小声で伝えた。そして顔の距離を縮める。こっそりとキスをしようと企んだのだ。けれど急に考え直した。こんなことをしたって切なさが増えるだけ。蓮のファーストキスを奪ってはいけない。
「諦めろ……。諦めるんだ……」
欲しくても手に入らないものがある。祈っても叶わない願いもある。柚希と圭麻がすずめと付き合うのを諦めたように、すずめも我慢しなくては。ぱんぱんっと頬を叩いてネガティブな思いを振り払うと、蓮の目が開いた。
「あれ。先に起きてたのか」
「うん。おはよう。よく眠れた?」
「まあまあだな。お前は?」
「あたしもそこそこ。えっと……そろそろ帰ろうかな」
「そうか。無理矢理泊まらせて悪かったな」
「気にしないで。蓮くんのそばにいられて、あたし幸せだよ」
にっこりと微笑む。すると蓮に腕を掴まれソファーに押し倒された。
「え? どうかしたの?」
慌てて叫んだが、素早く口を覆われてしまった。
「いつもいつも俺は誰かから、関わったら不幸になるって言われてきたんだよ」
低い囁きが耳元で聞こえる。
「とにかく、あいつとは視線も合わせるなって。死神の生まれ変わりなんて呼ばれたこともあるぞ。日本でもアメリカでも嫌われてばっかり。なのに、お前は幸せって感じるんだな」
ぽろぽろと涙がこぼれる。虐待する母。助けてくれない父。周りからは白い目を向けられ、あまりにも辛い過去が可哀想すぎる。地獄のような毎日を送り、そのせいでこんな性格になってしまった。
「酷い……。みんな冷たいよ。あたしは、そんなふうに思わないからね。世界中の人たちが蓮くんを悪者扱いしても、あたしは絶対に味方でいる。ずっとずっと愛して……そばにいる」
覆っていた手を外しはっきりと告げると、蓮は小さく頷いた。うっすらとだが、蓮の瞳が潤んで見えた。掴まれていた腕が放れ、すずめはマンションを後にした。




