一三八話
ゆっくりと目を覚ました。一瞬そこがどこなのかわからなったが、そういえば蓮の部屋に泊まったのだと記憶が蘇った。英語を教えてもらいながら、すずめは無意識に眠ってしまったのだ。眠るというより、疲れ果てて意識を失ったという感じかもしれない。そこからは何も覚えていない。ベッドから起き上がろうとしたが、背中から蓮に抱きしめられていて身動きできなかった。
「ちょ、ちょっと。放してよー」
声をかけたが反応しない。蓮もかなり疲れ果てていて、深い眠りに落ちているのだろうか。さらに、あることに気が付いた。蓮が上半身だけ裸になっていた。むき出しの肌に血液が沸騰し始める。
「あわわわ……。どうして服脱いでるの……」
ぽっと頬が赤くなってしまう。興奮し鼓動がどんどん速くなっていく。けれど、すぐに熱かった胸が冷めていった。
「……すぐそばに……いるのに……」
こんなにすぐそばにいるのに、手を伸ばさなくても触れられるくらいの距離なのに、この恋は叶わないのだ。あまりの切なさに涙がこぼれる。柚希や圭麻と別れた時より、ずっと辛い。しばらくして、やっと蓮の目が開いた。
「うーん……。あれ? 俺いつの間に寝たんだ?」
そしてすずめが泣いているのに気づき、そっと指で拭った。
「まーた泣いてるのかよ」
「ごめん。頭おかしくなっちゃってて……」
「俺が大好きだから?」
「そう。怒鳴られても睨まれても大好きなの。愛してるの」
弱々しく囁くと、蓮は視線を逸らした。落ち着かない様子で、返す言葉が見つからないようだ。
「ところで、早く服着てよ。裸だと緊張しちゃう。というか、どうして裸なの?」
「ああ。暑かったからな。寝ながら脱いでたんだよ」
しかしそれが言い訳なのはすぐにわかった。ベッドの下に服は落ちていなかった。つまり始めから裸ですずめと抱き合おうとしていたのだ。過去にも部屋に泊まったことがあるが、無防備に寝ている間何かされていたのではないかと不安になった。もちろん蓮は女子の体に興味はないし、いやらしい行為はしないはずだ。けれど年頃の男子なのだから異性について考えたりはする。これは生き物なら当然で、愛の結晶を抱きしめるために大切な感情だ。
黙ったまま蓮は部屋から出て、服を着て戻ってきた。ふう、とすずめもため息を吐いた。
「さて、そろそろ帰ろうかな。お母さんも心配してるだろうし」
いつまでもここにいたら迷惑だし、自分の勉強をしたいと蓮も思っているはずだ。リビングに移動し鞄を掴むと、蓮がぼそっと呟いた。
「ずいぶんとあっさりしてるな」
「あっさりって?」
「前は、いつまでも居座ろうと頑張ってたじゃないか。離れ離れになりたくないって」
「そりゃあ、できればそばにいたいよ。でも我慢するのも大事でしょ。あたしも十八歳なんだもん。わがままな子供じゃないの」
少しドヤ顔をしたが、蓮は視線を逸らし返事をしなかった。「じゃあ」とドアを閉めて、ゆっくりと家に向かう。
「やっと……から揚げごちそう……できた……」
やったあっと叫び、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。おいしいと喜んでもらえたし、何と言っても優しい微笑みが見られた。たまにしか現れない穏やかな蓮。改めて好きだという気持ちが胸に溢れて止まらない。しかしどれだけすずめが愛していても失恋になるのは確実だ。相変わらず無視されるし心の扉を開けてもくれない。悲しいが諦めるしかない。最初から実らないとわかっていたのだから。落ち込んでも仕方ないので、泣かないようにと自分に強く言い聞かせた。
嬉しかったのは、その後も蓮が家庭教師になってくれたことだった。放課後、一人で勉強していると、たまにやってきてくれる。毎回マンションに上がり込むのはさすがに悪いので場所は図書館だが、横に座っているだけでもどきどきした。そしてモチベーションがアップする。蓮の教え方もゆるくなり、そのおかげで次のテストは何と九十点だった。
「ヒナコ、すごいっ。〇点から九十点って……。どんなテスト勉強したんだ?」
圭麻に驚かれ、えへへ……と照れてしまう。
「実は、蓮くんに家庭教師になってもらったの」
「蓮が? あいつが誰かのために行動するなんてびっくりだよ」
「根は優しいんだよ。無口で無表情だけど、たまに笑ったりするし」
「へえ……。まるで想像できないけどな」
普段の蓮しか見ていなかったら信じられないだろう。そこで会話は終わり、放課後になった。家にまっすぐ帰らず、蓮のマンションに向かって走った。インターフォンを押すと、すぐにドアが開いた。
「おう。どうした?」
「英語のテスト、九十点だったよっ。九十点っ。びっくりだよっ」
「九十点? 前回は〇点だったのに」
「蓮くんに教えてもらったからだね。めちゃくちゃ厳しかったけど、あたしにはあれくらいがちょうどいいのかも」
「とりあえず中に入れよ。立ち話だと辛いだろ」
優しい態度の蓮に胸が熱くなる。あまり長居はしないと決めて靴を脱いだ。
リビングにはクラシック音楽が流れており、勉強の休憩をしていたとわかった。ソファーに腰かけ鞄から答案用紙を取り出す。
「ほら、これ」
「ああ。確かに九十点だな」
そっと微笑み、蓮は柔らかく頭を撫でた。
「よく頑張ったな。偉いぞ」
大好きな蓮に褒められ、どきどきしてしまう。甘くてロマンチックな雰囲気が、クラシックでさらに深まる。
「蓮くんの教え方が上手なんだよね。あたしだけだったら、また〇点だったよ」
「努力すれば何だってできるんだって、お前が証明したな。少し勇気もらえたぞ」
「勇気? どういう意味?」
蓮は暗い表情で俯いた。震える口調で呟く。
「いや……。だんだん自信がなくなってきたんだよ。どれだけ勉強しても、とても大学に合格できそうになくてさ。俺って情けねえなって……」
いつも偉そうで全く動揺しない蓮がここまで弱々しくなるのは衝撃だ。ぐっと両手を握りしめ、すずめは大声をあげた。
「情けなくないよっ。そんなふうに悪く思っちゃだめ。ネガティブな考えは不幸になるけど、ポジティブに考えると幸せがやってくるんだよ。だから絶対に合格するって堂々としてなきゃ。あたしも応援してるし。お腹がすいたらいつでも料理作りに飛んでいくよ。大好きな蓮くんのためなら、どんなこともする。それくらい……愛してるんだよ」
いくらすずめが想いを伝えても届かない。切なくて叶わない恋に涙が流れた。蓮はゆっくりとキッチンに入った。コップを持って戻ってくる。
「紅茶。お前が好きそうなものがあったから買っておいたんだよ」
「え? い、いいの?」
「泣くと体から水分が抜けるしな。これ飲んで落ち着け」
すずめが好きそうなものというのは偶然見つけたのか。それともわざわざ探したのか。どちらにしても、蓮の思いやりが暖かくて涙はすぐに消えた。
「どうもありがとう。いただきます」
感謝を告げて一気飲みし、空になったコップを渡した。
とりあえず用は全て終わったので帰ろうと立ち上がった。しかし素早く腕を掴まれた。
「どこに行くんだ」
「どこって、自分の家だよ」
「そばにいてくれないのかよ」
どこか焦っているような表情だった。一人になりたくない。寂しい。先ほどの自信がなくなってきたという姿と重なる。
「……迷惑じゃ……」
「迷惑じゃねえよ。俺のそばにいてくれ」
がっくりと項垂れる蓮が可哀想になり、大きく頷いた。愛する人が困っていたら放っておけない。支えるつもりで抱きつき、今夜も夕食を作ってあげようと決めた。元気を取り戻せるよう、メニューはカレーにした。辛くて熱いものは、力がみなぎるイメージがする。蓮もそれでいいと即答した。材料を買いに並んでスーパーに行く。金は蓮が払い袋も持ってくれた。すずめは台所で黙々とカレーを作って向かい合わせに座って食べた。
「そういえば、蓮くんの夢を見たことがあるよ」
突然、口から言葉が漏れた。
「夢を見た?」
「まだ好きだってわかってなかった時。虐待されて泣いてる子供の頃の蓮くんが出てきたの。一人じゃないよ。あたしが助けてあげるよって言っても声しか聞こえなくて」
「へえ……。まだ会ってもない子供の俺が夢に出るなんてな」
「結局、助けられなかったけどね。夢だから仕方ないよね……」
ははは……と苦笑する。蓮は俯いて考え事を始めた。何かすずめに言いたいことがあるのかと、緊張の糸が絡みつく。愛しすぎて夢まで見てしまうと馬鹿にしているのかもしれないと恥ずかしさも頭に浮かぶ。
「そうか。夢の中でも護ろうと……」
呟きが聞こえたが、すずめは黙っていた。視線を逸らして、急いでカレーを完食した。




