一二五話
事件が起きたのは八月の終わり頃だった。マンションの近くでうろうろしていると蓮の背中が見えた。慌てて走っていく。
「れ……蓮くんっ」
声をかけたが無視だ。イヤホンはしていないので、耳に入らなかったということはない。さらに大声で繰り返す。
「蓮くん、待ってっ。もう一回聞いて。ちょっとでいいからっ」
「どこかに行け」
ぼそっと低い呟きが返ってきた。逃げたいのを必死に抑え、震えながら話す。
「お願い。すぐに終わるから」
腕を掴むと、勢いよく蓮は振り向いた。まるで鬼のような形相で怒鳴り散らした。
「馴れ馴れしく触るなっ。どこかに行けっつってんだよっ」
「お願いだよ。お願いだから、怒らないで」
どんっと強く胸をどつかれた。かなり力を込めていたらしく、後ろ向きに倒れた。コンクリートにもろに頭をぶつけ、鈍い痛みと同時に意識が朦朧とし始める。
「……ま……って……」
掠れた小声で呟き、すずめは深い闇にゆっくりと落ちて行った。
パソコンのキーボードを叩く音で目が覚めた。しかしすずめはパソコンを持っていない。
「ここ……。どこだろう……」
独り言を漏らし、きょろきょろと周りを見回す。やがて蓮の部屋だと気が付いた。ぎくりとして冷や汗が流れる。
「……や、やばい……」
蓮にどんな酷い目に遭わせられるか怖くなった。大好きな人を怖がるなど悲しいが、とりあえず今の蓮のそばにいるのは危険だ。慌ててベッドから這い出ると、ドアが開いた。はっと顔を向けると、腕を組んだ蓮が立っていた。
「いつまで寝てるんだよ。ただの脳震盪くらいで」
「脳震盪? そ、そうなの?」
「覚えてねえのかよ。起きたなら帰ってくれ」
だが、ぶつけたところがじんじんと痛んでいる。危険だが、できれば横になっていたい。
「も……もうちょっと休んでちゃだめかな……」
「はあ? 何言ってんだよっ」
ガンッと壁を蹴りつけた。相当イラついているのがわかった。恐怖で血の気が引いていく。
「い、いや……。じょ、冗談……」
「そうか。じゃあ帰るんだな。さっさと出て行けよ」
ふん、と息を吐いて、蓮はドアを閉めた。
ここまで頭にきているのは初めてだ。アタックなどできるわけがない。もしまた好きだと伝えたら殺されそうだ。さすがに命を奪ったりはしないだろうが、猛獣と同じだと感じた。
黙ったまま固まっていると、またドアが開いた。目つきが鋭くなっている。
「帰るんじゃなかったのか」
「ご、ごめん。ぼうっとしちゃって」
ははは……と苦笑したが、睨みつけた状態で蓮が近づいてきた。ぐいっとすずめの腕を掴み、玄関に向かって歩いていく。
「れ、蓮くんっ。待って」
「お前がいると空気が汚染されるんだよ。無理矢理追い出すしかねえな」
「お……追い出すって……」
言い終わらないうちに、すずめは外に出ていた。地面に放り投げられ尻もちをついた。バンっと強くドアは閉まり、信じられないと驚愕した。本当に、思いやりの欠片さえない。女子が相手でも一切容赦しない。どんな言葉も蓮には雑音としか聞こえない……。それではあまりにも過酷すぎる難題だ。きっと一〇〇年かかったって、蓮の柔らかい笑顔は見れないだろう。好きだと告白しても無視されるだけ。ただ素直な気持ちを話しただけなのに怒鳴られる。
小さな公園に行きブランコに座って泣いていると、携帯が鳴った。柚希からだった。
「すずめちゃん? どうしたの?」
驚いている柚希に先ほどの出来事を教えると、間が空いてから答えが返ってきた。
「……そんな……。酷すぎる。好きになってもらった女の子に、馴れ馴れしく触るなとか空気が汚染するとか……。すずめちゃんが何をしたっていうんだ」
「まあ、蓮くんって他人に気を遣わないわがままなタイプだからね」
「傷つくくらいなら諦めちゃえばいいのにって、天内くんは言ってたけどね。俺は、すずめちゃんが決めることなんだから天内くんが口出しするのはやめるように注意しておいたよ。後悔させたら可哀想だよってね」
「そっか。どうもありがとう。柚希くんも圭麻くんも優しくって、感謝してもしきれないよ」
本当に、この二人と付き合えば絶対に幸せが掴みとれるのに、なぜ蓮なのか。自分でもわからない。手に入りづらいものばかり欲しくなるのだろうか。
「とりあえず、もう帰った方がいいよ。女の子が公園に一人でいたら危ないよ」
「わかった。心配してくれてありがとう」
柚希と会話をしたおかげで涙がなくなった。電話を切って、ふう……と息を吐いた。
次に蓮に会ったのは、翌週の水曜日だった。買い物帰りに散歩をしていると蓮の背中が視界に入った。
「ちょ、ちょっと……。待ってっ」
叫ぶと、蓮は勢いよく振り向きぎろりと鋭く睨みつけてきた。
「またお前かっ」
「うわあ……。かっこいい……」
蓮の姿にうっとりしてしまった。暑いので、蓮は肌が露出する服を着ていた。がっしりとした肩。ほどよく筋肉がついている腕。全てが陽の光に当たって輝いている。
「は? かっこいい?」
「だって蓮くん、めちゃくちゃ素敵なんだもん。男らしくて……かっこよすぎるよ」
ふわふわと宙を舞っているようなイメージがした。完全に心を奪われた状態になった。もっと好きという思いが強くなる。しかし蓮は少しも嬉しいという顔は見せず、すずめの口を塞いだ。じろりと低い声で話し始める。
「そうやって褒めれば、俺に好きになってもらえると企んでるのか? 言っておくけど、俺はそういう性格じゃねえよ。黙ってさっさと消えろ」
ふるふると首を横に振り、蓮の手を外して答えた。
「あたし、蓮くんに好かれようなんて企んでないよ。恋人同士になれるわけないってわかってるし、嫌われてるのも知ってる」
「わかってるなら、どうして俺に近寄ってくるんだよ。邪魔で仕方ねえんだけど。嫌がらせしたいのか?」
「嫌がらせ……なんか……」
ぽろぽろと涙が溢れる。すると面倒くさそうに蓮はため息を吐いた。すずめが泣いても何も感じないうえに、うんざりとした態度。そんな人が好きで好きでたまらない。
「……ごめん。邪魔して……。じゃあ帰る」
かろうじて絞り出すと、ぎゅっと目をつぶりその場から走り去った。




