一二三話
そんな日々がしばらく経ち、いつの間にか夏休みに入っていた。周りは海やプールなどで盛り上がっているのに、すずめだけ暗くふさぎ込んでいる。だんだんマンションに戻すのではなく本当にゴミ箱に捨ててしまおうかと思い始めてきた。辛くて苦しい時間が続くのなら、さっさと終わらせてしまう方がいいのではないか。蓮はすずめを忘れて新しい生活を送っているのに、こちらだけ悲しみに暮れているのも嫌になってきた。
「全く、高篠くんも酷い奴だよ」
はあ、とため息を吐きながらエミは愚痴っていた。
「すずめが今、どんな状態なのか高篠くんに見せてやりたい。勝手に日本から出て行くなっ」
「悪いのはあたしなんだから、酷い奴なんて呼ばないで」
「その前からすずめを傷つけてたじゃない。あたし許せない。やっぱり男ってロクな人間がいないねっ」
イライラしているエミの姿は見たくなかった。すずめを愛してくれているのは嬉しかったが、がっくりと項垂れた。
「でも優しい性格の男だっているでしょ。柚希くんや圭麻くんは、とっても穏やかで暖かいよ」
「まあ、あの二人は人間ができてるしね。……すずめは、どうして高篠くんが好きなの? あんなに冷たくて意地悪でニコリともしない人に」
「よくわからないよ。あたしもまさか蓮くんに惚れてるなんて信じられなかったもん。ただ……。蓮くんには、柚希くんや圭麻くんとは発してるオーラみたいなものが違ってるの。汚いところもバラせるんだよね」
「汚いところ?」
「悩みや不安も包み隠さず晒せるって感じ。柚希くんと圭麻くんは仮面を被っちゃうけど、蓮くんには聞かせられるの。不思議だよね。仲良しの友だちでもないのに」
「そっか……。で、いつの間にか惚れてたってわけ」
「そう。縁を切ってから好きだったなんて遅すぎだよね。そのせいで告白のチャンスも逃しちゃってね」
軽く笑って答えると、エミに力強く抱きしめられた。無理をしている表情が胸に突き刺さったらしく、すすり泣く声が耳に飛び込んだ。数えきれないほど、すずめはたくさんの人たちに愛され大切にしてもらっている。ただ蓮だけが愛してくれない。優しく接してくれない。それなら諦めてしまえばいいのに。蓮ではなくても幸せは掴み取れるのだから。
「あたし、大丈夫だよ。平気だから泣かないで」
そっと囁くと、エミは小さく頷き目をこすった。
この毎日をいつまでも長引かせるのも終わらせるのも、すずめの意思にかかっている。マンションに持っていくのか、いかないのか。ずっと悩んでいたが、帰ってこない蓮を待って無駄に疲れているのが馬鹿らしくなってきた。
「もういいや。……捨てちゃおう。捨てれば、いつかは忘れられる……」
ゆっくりと音楽プレーヤーとCDを袋から出した。ゴミ箱に放り込もうとすると、急に体が固まってしまった。焦って汗が額に滲む。さらに音楽プレーヤーとCDは鉄球並みの重さになった。ありえない現象に、緊張の糸でがんじがらめになる。
「な……。何これ……」
後ずさろうとしても、まだ体は固まった状態だ。
「捨てちゃだめなの……?」
呟くと、音楽プレーヤーとCDは床に落ちた。同じく体も解き放たれ、ほっと安心し息を吐く。
まさか、動くはずのないものに止められるとは夢にも思っていなかった。諦めたら絶対に後悔すると警告したのかもしれない。涙がぽろぽろと零れる。
「……あたしだって、本当は捨てたくないよ。残していたいよ。蓮くん以外の男の子を好きになったりもしない。死ぬまで付き合ったりしない。……ねえ、神様。蓮くんはどこにいるんですか? 一度でいいから蓮くんに会わせてください。お願いします……」
震える声で訴えた。すずめの祈りを聞いて叶えてもらえるかはわからない。両手で顔を覆い、夜遅くまで忍び泣いた。
土曜日に、また蓮のマンションに向かった。手放すにはここに持っていくしか方法がない。やはりドアの奥に人気は感じられず、誰の目にもつかない場所に袋ごと置いた。もしバレたとしても、ただのゴミだと見られるだけだ。
「……さよなら、蓮くん。アメリカで素敵な女の子と幸せになってね。遠くから……応援してる……」
届くわけないが、別れの挨拶をした。大好きな人。大好きな蓮。二度と会えない。悲しい初恋……。
もう用はなくなったのでそのまま帰ろうと振り返る直前に、突然ドアがガチャっと開いた。どきりとして音のした方に視線を移動すると、蓮が立っていた。驚いた表情で、何も考えられない様子だ。もちろん、すずめにも衝撃の雷が落ちてきた。三十分ほどその状態で、やっと蓮が言葉を発した。
「……どうしてお前がここにいるんだ?」
「……そ……それはあたしのセリフだよ。れ、蓮くん……アメリカに引っ越したんじゃないの?」
「アメリカに引っ越す? 誰に聞いたんだよ。俺はアメリカに行く気なんてさらさらないぞ」
「え? そ……そうなの? でもこの間インターフォン押しても出てきてくれなかったじゃない」
「たまたま留守だったってだけだろ。というか、何しに来たんだ?」
冷たい態度の蓮に告白などできない。完全に蛇に睨まれた蛙になり、慌ててその場から逃げた。
「おいっ。待てよっ」
「うわあああっ。ついてこないでっ」
大声で叫び真っすぐ走る。だが、簡単に追いつかれてしまった。背中から、ぐいっと羽交い絞めにされる。
「やだやだっ。放してよっ」
「暴れんなっ。きちんと答えるまで放さねえよ」
そして、無理矢理マンションの中に引きずり込まれた。目の前がぐるぐると回り始める。
「早く答えろよ。俺も暇じゃねえんだ」
急かされ、めまいで床に倒れそうになった。
「い、いや……。あの……」
「答えないなら、このまま出て行ってくれ」
せっかくの告白チャンスを逃すわけにはいかない。やっと、やっと蓮に再会できたのだ。
「あたし……。好きなの……」
消えそうな小声で、そっと呟く。すぐにじろりと低い返事が飛んできた。
「好き? 何が?」
ばくんばくんと緊張の糸が絡みつく。拳を作り、もう一度繰り返した。
「蓮くんだよ。あたし、蓮くんのことが好きなの。好きになっちゃった……」
ついに話してしまった。はっきりと伝えてしまった。しかし蓮は眉一つ動かさず、仁王立ちをして即答した。
「またそれかよ。彼氏がいるのに他の男とイチャつくのやめろ」
「け……圭麻くんとは別れたよ。柚希くんも知ってる。みんなに頑張ってって応援されたの。蓮くんに必ず告白するんだよって」
「へえ……。そうやっていろんな男に愛嬌振りまいて嘘ついて金使わせて、いらなくなったらポイ捨てか。真壁と天内が哀れで泣けてくるな」
「そんなつもりないよ。お金だって使わせてないし、愛嬌も振りまいてない……」
「どうかな。俺のこと害虫男って呼んでるけど、お前もゴミと一緒じゃねえの」
痛いところを突かれた。ぎゅっと目をつぶって俯く。
「そ……うかもしれない……けど……」
「出てけよ。そして二度と俺に会いに来るな」
凍り付いた矢が胸に突き刺さる。崩れてしまいそうな自分を支え、掠れた口調で呟いた。
「……蓮くんに嫌われてるのはわかってるよ。謝っても許してくれないのも。それでも、蓮くんが忘れられないの。そばにいたい。離れたくない。本当に好きなんだよ……」
がくがくと全身が震えてしまう。ふう、とため息を吐き、蓮はキッチンに入った。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し戻ってくる。
「あっ。どうもありがとう」
くれるのかと手を伸ばしたが、蓮は黙ったままキャップを外し、すずめの頭にかけた。髪も服もオレンジジュースで濡れていく。全てかけ終えると、空になったペットボトルを投げつけた。
「しつけえんだよ。その雑音みたいな声聞いてるとイライラする。馬鹿でアホで魅力の欠片もない上に、しつこくてうるさくてゴミなんて最低だな。周りに迷惑かけるから、外に出かけるのやめれば?」
ここまで怒鳴られて何も感じない人間などいない。うわあああっと号泣し、その場から立ち去った。心は粉々に砕け散り、修復は不可能になってしまった。
「ヒナコ、大丈夫か?」
嫌な予感がしたのか、圭麻から電話がかかってきた。泣き顔で家に帰れないため、小さな公園のブランコに座っていた。
「う、うん。大丈夫だよ。心配しなくても」
「大丈夫そうに聞こえないよ。今どこにいるんだ?」
「ブランコのある公園。……えへへ。あたし、蓮くんにフラれちゃった」
「え? 蓮、アメリカに引っ越したんじゃ……」
「ううん。たまたまあたしが行った時、留守にしてたみたい」
「フラれたって……。告白したのか?」
かなり衝撃を受けているようだ。なるべく明るい口調で、すずめは続ける。
「まあ、仕方ないね。最初から嫌われてたんだし。全部あたしが悪いの。蓮くんに怒鳴られて当然」
「ヒナコ、そこで待ってて。これから迎えに行く。家で詳しく話してほしい」
素早く言い、圭麻は一方的に切った。三十分ほどして圭麻が駆け寄ってきた。後ろから柚希の姿もある。
「すずめちゃん。高篠くんにフラれたって……。本当?」
「本当。あたしが怒らせるようなことしたから、悪いのはこっちなの。蓮くんを責めたりしないで」
「怒らせるようなことって?」
先ほど蓮にぶつけられた言葉やジュースをかけられたことを教えた。柚希は驚愕した表情になり、圭麻はわなわなと震えていた。
「ヒナコのどこがゴミなんだよ。あいつ、頭がいかれてるんじゃないのか」
「気にしちゃだめだよ。高篠くんってひねくれ屋だから、そうやって意地悪しちゃうんだ。女の子に慣れてないし、優しくできないんだよ」
「全然気にしてないよ。圭麻くんも落ち着いて。蓮くんに冷たい態度とられるのは数えきれないほど経験してるんだ。泣いちゃったけど、今はすっきりしてるよ」
笑いながら悲しみを誤魔化した。ぼろぼろに砕け散った心を必死に隠した。
「ヒナコ。今日は俺の家に泊まって。柚希もそばにいてくれないかな。あまりにも可哀想すぎて」
「もちろん。俺も放っておけない」
申し訳なかったが、断っても無駄だろうとすずめも頷いた。ブランコから立ち上がり歩こうとしたが、足から力が抜けていて前のめりに倒れてしまった。
「すずめちゃんっ」
「ヒナコっ」
二人ですずめを起き上がらせる。いたた……とぶつけた部分をさすった。
「……自分がドジで情けなくて嫌になるよ……。こんな奴に好かれても嬉しくないもんね」
馬鹿でアホで魅力の欠片もない上に、しつこくてうるさくてゴミ……。しかし確かにそんな気がする。最低と罵られても、文句が言えないような気持ちが生まれてくる。
ぎゅっと後ろから圭麻に支えられた。そしてそのまま歩き始める。柚希はすずめのバッグを持ち、まっすぐ前を向いて足を動かした。
家に入っても、誰も口を開かなかった。どんよりと暗い空気の中で、お互いの視線を合わせないように俯く。やっと言葉を話したのは圭麻だった。
「お腹すいてないか? 何か作るよ」
「あたしは特に……。柚希くんは?」
「俺もすいてないよ。食欲も、ほとんどないし」
「そうか。食べたくなったら遠慮しないで言って」
そしてまた沈黙がやってくる。時間がたつのがやけに遅く、早く朝になってくれと胸の奥で祈った。




