一〇一話
ゆっくりと目を開けると、部屋の天井がぼんやりと見えた。
「あれ……? あたし、外にいたはずじゃ……」
一瞬わけがわからなくなる。確か柚希との初デートに行き図書館の前で待っていると蛇女が現れた。そして柚希と恋人同士になったのがバレてしまい、別れようと言われた……。
「どうして部屋にいるの? あっ、もしかして、あれってただの夢だったのかな?」
淡い期待が胸に浮かび起き上がったが自分の体や服がびっしょりと濡れていて、がっくりと項垂れた。夢でも幻でもない。本当に別れてしまったのだ。ぼろっと涙がこぼれる。こんなに短すぎる恋なんてあんまりじゃないか。しかも初デートで離れ離れになるとは……。
「だけど、あたしどうやって帰ってきたんだろう?」
ショックが強すぎて、真っ直ぐ歩ける状態ではなかった。柚希が運んだとしても鍵がなければ中には入れない。どこの誰が、ここまで連れて行ってくれたのか。またぼんやりとしていると玄関から音がした。ゆっくりと立ち上がり階段を降りると、疲れた顔の知世が振り向いた。
「ただいま。って、ちょ……ちょっと。どうしたのよ? その格好?」
「え?」
「え? じゃないでしょ? 傘持っていくの忘れたの? 雨でびしょぬれじゃない」
「だって、途中で降り始めたんだもん……」
「とにかく、お風呂入ってきなさい。風邪ひきたくないでしょ? しっかりあったまってね」
背中を押され、すずめも風呂場に移動した。シャワーで雨も涙も全て洗い流しリビングに戻る。
「すっきりした?」
「う、うん。あの、服は?」
「今、洗濯機回してるよ。それにしても、ずいぶんと暗い顔してるね。何かあったの?」
じっと見つめられたが正直に答えられなかった。話したら柚希の存在や初恋、そして失恋したこともバレてしまう。かといって、うまい言い訳も浮かばない。俯いて首を横に振ると、知世は優しく頭を撫でて呟いた。
「言いたくないなら、無理して言わなくていいよ。ただ、すずめが悩んで苦しんでるのは嫌だから、遠慮しないで相談しなさいね。いつでもお母さんは、すずめの味方だよ」
はっと目を丸くし、飛び込むように知世に抱きついた。
「うわあああんっ。お母さん……。ごめんね……。あたし、自分勝手でわがままで酷い態度とって……。本当にごめんなさい……」
声を上げて涙を流した。すずめを抱きしめて、知世も話す。
「よかったあ……。すずめが、ちゃんと元に戻ってきてくれた。とっても思いやりがあって優しくて素直な性格だもんね。お父さんとお母さんの自慢の娘だから」
うん、と大きく頷き、涙を手で拭った。
「あ……。お、お父さんの怪我、どうだった?」
「びっくりするくらいピンピンしてたよ。看病なんか必要ないって、すぐに帰されちゃった」
「そうなんだ。まあ、お父さんって昔から風邪もひかないし怪我もすぐに治るし、けっこう頑丈な人だしね」
「お母さんも安心したよ。で、病院に用がなくなったから、いろいろと買い物してたの。すずめ、アクセサリーがほしいって言ってたでしょ?」
鞄から小さな箱を出した。渡されて蓋を開けると、白く輝くネックレスが入っていた。
「これ……」
「安物だけどね。今はこれくらいしか買ってあげられないけど、もう少し経ったら本物の」
「ごめん。いらない」
遮って箱を返す。
「え? いらないの?」
「いらないの。これからは、おしゃれな服もバッグも使わなくてよくなったんだ。このネックレスは、お母さんが付けて」
「お母さんはおばちゃんだから、ネックレスなんてつけてたら笑われちゃうよ。すずめのために買ったんだから、すずめが使いなさい」
ね、と笑っている知世に申し訳なくなったが、ありがたく受け取ることにした。もし次に恋人ができたらその時に身に着けようと、しばらくはクローゼットの奥にでもしまっておく。
「ありがとう。だけど、もう買ってこないでね。やっぱりあたしは可愛くないし、おしゃれしても似合わないから」
「この後、どんどん変わっていくかもしれないでしょ。お母さんだって全くモテない地味な子だったけど、結婚してすずめも産まれたんだよ。未来がどうなるかなんて誰にもわからないじゃない」
ぽんぽんと軽く肩をたたかれ、自然に微笑んだ。柔らかく娘想いな母の愛に、ほっと息を吐いた。
部屋に戻ると携帯が鳴った。はっと目が丸くなり、すぐに耳に当てる。もしかしたら柚希かもしれないと期待していたが、聞こえてきたのは圭麻の声だった。
「ヒナコ、大丈夫?」
「大丈夫って?」
「柚希から電話がかかってきてさ。別れちゃったんだろ」
「う、うん……。お母さんにバレちゃったの」
「そうか。柚希も泣きながらしゃべってて可哀想になったよ。ヒナコも号泣して意識なくしたって話してたし」
「え? そ、そうなの?」
「そうなのって……。覚えてないの?」
「うん。今も、どうやって帰ってきたのか不思議な気持ちでいたの」
「へえ……。確かに不思議だな。で、どうするんだ?」
「どうするって?」
「だって、柚希が大好きなんだろ。このまま別れちゃっていいのか? 悔しくないのか?」
「いいの、いいの。悔しいけど、仕方なく諦めるよ。圭麻くんは心配しないで」
「心配っていうか……。ヒナコって、それほど柚希に惚れてなかったんじゃないの?」
驚いて、どくんどくんと心臓が速くなった。
「柚希くんに惚れてなかった?」
「別れようって言われて、すぐにわかったって答えるってことは、要するにかっこよくて優しい性格の男なら誰でもいいって意味じゃないか? もし俺ならヒナコの母さんに別れろって怒られても、ヒナコが大好きなんだ。絶対に別れたくないって言い返すけどな。もし無理矢理離れ離れにされても、ヒナコが一人暮らしをしたら、また告白しようって簡単に諦めたりしないよ。つまり、柚希の方もあんまりヒナコに特別な思いはなかったって気がする」
圭麻の言葉に全身が凍り付いた。確かに電話をかけてもすぐに切られるし、デートだって全然誘ってもらえなかった。柚希は毎日忙しい。蛇女にバレないように我慢していると自分に言い聞かせてきたが、明らかにおかしい。すずめと会話するのが面倒で、はっきりいって迷惑がられていると感じた。必死に告白をしたすずめを傷つけたくないので俺も好きだとは答えたが、実は愛情などほとんどなかったのかもしれない。
「……圭麻くんの言う通りだよ。あたしも柚希くんも、実は惚れてなかったんだね。あたしが柚希くんの彼女になっても圭麻くんと仲良くしたかったのも、本当は惚れてないのが理由だね」
蓮に、どちらかにしろと怒られた話を打ち明けると、圭麻は即答した。
「やっぱり。憧れの柚希と両想いになれて幸せでいっぱいのはずなのに、なぜか寂しそうな辛そうな顔もするから、何かあると思ってたんだけど。……落ち込んでる時に、さらに落ち込ませるようなこと言ってごめんな」
「ううん。むしろ圭麻くんに教えてもらって逆にすっきりしてる。ずっともやもやして悩んでたの。圭麻くんのおかげで、心が晴れ晴れしてるよ」
「そうか。それならよかった」
「ねえ、じゃあ、あたしってまた彼氏なしで生きていくのかな? あたしを本気で愛してくれる人は、どこにいるのかな?」
すると圭麻は真剣な口調で答えた。
「俺じゃだめ?」
「えっ」
「さっきも話したけど、俺はヒナコを愛してるんだ。ヒナコが彼女になったら何もいらない。それくらいヒナコが大好きなんだよ。もし恋人同士になったら絶対に別れたりしない」
圭麻には、これまでもたくさん告白され可愛がってもらっている。抱きしめたりキスもしている。新しい男子を探すより、圭麻と付き合った方がずっと安心する。
「でも、あたしなんかでいいの?」
「ヒナコしか恋人にできないよ。他の子なんか興味ないし。だめかな? 俺が彼氏なんかお断り?」
「お、お断りなんて偉そうな態度とれないよ。じゃあ、あたし……。圭麻くんと恋人同士になってもいい?」
「もちろん。ああ……。ようやくヒナコが俺だけのものになって、すっごく嬉しい。感動だよ。俺には蛇女はいないし、邪魔されるっていう不安もないよ」
「そうだね。デートも堂々とできるね」
こそこそ隠れる必要もない。普通の恋愛生活が送れる。柚希の場合は、それができなかった。ロマンチックな交際が無理というのも嫌気がさして、柚希への愛情も薄れていったのだろう。




