一〇〇話
土曜日の朝は、恐ろしいほど空が暗かった。どんよりと厚い雲が覆いかぶさり、太陽を隠してしまっている。部屋から出て階段を降りると、人の気配がしなかった。知世が父の看病をしに行ったのだと伝わった。
「大人なのに転ぶなんて馬鹿みたい」
くすくすと笑いながらインスタントラーメンを食べ、買い集めた中から初デートにぴったりの服を探し出した。メイクをしていると携帯が鳴り「はい」と出るとエミの声が聞こえた。
「あっ。すずめ……。今日、どこかに行く?」
「行くけど? それがどうかしたの?」
「やめておいたら? こんな曇り空だし家にいた方がいいよ。それにあたし……。嫌な予感がするの……」
「嫌な予感? 何それ?」
固く抑揚のない口調で言い返す。エミは弱気な声で呟いた。
「いや……。ただ何となく、そういう予感がするってだけ」
「エミの妄想でしょ? 妄想なんかでいちいち電話しないでよ」
「だけど、不安で堪らなくって……」
「あたしのことなんか気にしないで。迷惑だよ」
「め、迷惑?」
「そりゃあそうでしょ? そういえばエミには話してなかったね。あたし柚希くんと恋人同士になったの。今日は初デートなの。天気は良くないけど誘われたんだから断れないでしょ? 今はメイク中なの。邪魔しないで」
「恋人同士になった? うわあ……。よかったね、すずめ。夢が叶ったんだね。おめでとうっ。よくがんば」
「これで話は終わり? じゃあ遅れたらまずいから」
一方的に切り、また電話がかかってこないように電源も切った。
「よし、これからは柚希くんと二人きりだーっ」
うきうきしながら外に飛び出て、真っ直ぐ前だけ向いて歩いて行った。
祝福してくれた人に「ありがとう」も言わず冷たくあしらったのは、さすがに良くなかったかなと考えたが、エミは親友だし別にいいやと特に気にしなかった。親しき仲にも礼儀ありとは言うが、エミに礼儀などしなくても罰は当たらない。それより今日は柚希と初デート。最高の思い出を作りたい。
待ち合わせの図書館の前で立っていると、さらに雲が多くなってきた。遠くから雷の音が響き雨が降り始める。傘など持っていないし、近くに店も建っていない。
「ああっ。せっかくのおしゃれ着が濡れちゃうっ」
慌ててバッグからハンカチを取り出したが何の役にも立たない。靴の中にまで雨水がしみこみ、決めてきた化粧も落ちてしまう。
「ゆ……柚希くんに、こんな姿見せられな……」
「柚希が、どうかしたのかしら?」
突然、背中から声をかけられた。ぎくりとして全身が固まり、ゆっくりと振り向く。睨みつける表情で蛇女がこちらを見ていた。
「まさか、こんなところで会うなんて。偶然ねえ」
「な……。ど、どうして……」
「で、柚希がどうしたの? もしかして柚希を待ってるの?」
答えられなかった。もしバラしたら酷い目に遭うのはわかっている。俯くと、蛇女は距離を縮めてきた。
「ねえ、黙ってないで、返事しなさいよっ」
じろりと覗き込んできた。掠れる声で、そっと答える。
「ゆ……柚希くんと……。会う約束してて……」
「会う約束? それってデートってことかしら?」
はっと顔を上げた。なぜデートだと気づいたのか。
「いえ……。そういうわけじゃ」
「こんなにおしゃれしてるのはデートだからでしょう? そういえば柚希もやけに高い服を着てたわね。……ふうん。デートねえ……」
すずめの頭のてっぺんから足のつま先まで舐めまわすように眺めて、歪んだ笑みで蛇女は言った。
「どんな企みがあるの? 柚希の持っているお金がほしいから? 真壁家の財産を全部いただこうって?」
「え?」
「え? じゃないわよ。柚希が金持ちだから近寄ってきたんでしょう? 私にはわかってるんだから。あなたがどうして柚希と恋人同士になったのか。それは金が目当てだったから。当たりでしょ」
「ち、違いますっ。あたしは柚希くんのお金なんか一つもほしくないですっ」
蛇女の笑みが消え、目を丸くした。すずめは繰り返し叫ぶ。
「あたしが柚希くんと恋人同士になったのは、柚希くんを愛しているからです。柚希くんのお金が好きだからじゃありません。そんなもの欲しいなんて思ってませんっ」
「下手な嘘ね。その顔にはっきりと書かれているわよ。柚希と付き合えば、自分は貧乏な世界から抜け出して大金持ちになれるんだってね」
「違います。お金がほしいのはあなたの方でしょ? たくさん物を買って無駄遣いして」
そこで口を閉じた。たくさん物を買い無駄遣いし、足りなくなったら親の財布から盗む。最近、自分が毎日のようにやってきたことだ。母親を泣かせても平気で、エミにも失礼極まりない態度。金好きな蛇女は自分ではないか。ショックと自己嫌悪で足の力が抜けよろけた。地面に倒れ込む直前に後ろから支えられた。
「母さん……。すずめちゃんに何をしたんだ」
柚希の唸り声が耳に入る。蛇女は首を横に振って即答した。
「何もしてないわよ。その子が勝手に倒れただけ」
「酷いことを言ったんだろ? すずめちゃんを傷つけたり怪我をさせたら絶対に許さないっ」
「私は本当のことを話したのよ。この子が柚希のお小遣いを食いつぶすために恋人になったって」
「お小遣いを食いつぶす? すずめちゃんは愛情に満ちた素晴らしい子なんだぞっ。すずめちゃんに謝れっ」
「謝れだなんて。柚希も女に騙されやすい性格でだめね。それに否定してないのは間違いないって意味じゃない。ねえ柚希。世の中にはもっと素敵で礼儀のなった女性が数えきれないほどいるのよ? どうしてこんな田舎臭い娘と付き合おうとするの? こんな貧乏人とはさっさと別れなさい。そしてもっと周りを見て恋人を探しなさい。このままこの娘のそばにいたら、いつの間にか小遣いがなくなってしまうわ」
「すずめちゃんは金が好きな性格じゃない。本当の母親じゃないくせに、ああしろこうしろ……。もうやめてくれっ」
柚希が怒鳴り散らすのは初めて見た。穏やかな柚希をここまで不快にさせるのは、ある意味すごい。ちっと舌打ちし、蛇女は大股で立ち去った。姿が完全に消えてから、柚希はすずめに話しかけた。
「すずめちゃん、大丈夫? また母さんが傷つけたみたいで。ごめんね」
「柚希くんは謝らないで。柚希くんは何も悪くないんだから。……でもね、あたしちょっと金好きになってたの」
「え?」
「もちろん柚希くんのお小遣いを取ろうなんて考えてないよ。だけど、お金がほしい。お金ちょうだいってわがままばっかり。困っている人は無視して心配してくれる人には迷惑だって睨んで、最低な人間になってた……」
ぽろぽろと涙を流しているすずめの頬に、優しく柚希の手が触れる。
「そうなんだ。でも、どうしてそんなことしたの?」
「柚希くんに嫌われたくなかったの。とにかくおしゃれして可愛くなりたかったの。柚希くんの顔に泥を塗らないようにって。服も化粧品もバッグも必要ないのにどんどん買い集めて、足りなくなったらお母さんの財布から盗んだりもした。嘘ついてもあたしは間違えてないって思い込んでたよ。自分は正しいって」
「そっか。俺のために努力してくれてたんだ。ありがとう。だけど今日からその努力はしなくて済むよ」
「しなくて済む?」
ゆっくりと顔を上げると、柚希は真面目な顔で話した。
「別れよう。すずめちゃん」
ぎくりとして冷や汗が流れた。代わりに涙が止まった。
「わ……別れ……る……?」
「すずめちゃんのことは愛してるよ。大好きだし結婚も考えてた。だけど母さんにバレちゃった。もう恋人として付き合えないよ」
「そ、そんなっ。まだ一カ月も経ってないよ? デートだって今日が初めて」
「母さんが、すずめちゃんを傷つけるのは確実だよ。どんなふうに傷つけるのかはわからないけど、怪我でもしたら大変だ。すずめちゃんが傷ついて泣くなんて俺は死んでも嫌だ。もちろん別れても友人として仲良くはできるよ。おしゃべりしたりお茶飲んだり」
「や……やだっ」
ぐっと柚希の腕を掴み首を横に振った。震えながらも、はっきりと叫ぶ。
「あたし、やっと願いが叶ったのにっ。大好きな柚希くんの彼女になって幸せでいっぱいで……。それなのに別れちゃうのっ?」
「俺だってすずめちゃんと恋人同士でいたいし、こんなこと言いたくない。でも母さんに見られたんだから別れるしかないんだ。きっとまた、すずめちゃんを愛してくれる人が現れるよ」
「やだっ。やだようっ。柚希くん……」
「すずめちゃん、諦めて。どうかわかって……」
柚希に頭を撫でられ、うわあああっと号泣した。雨音が強くなったおかげで、すずめの声はかき消され周りには聞かれなくて済んだ。生まれて初めての恋が、こんなに短く終わってしまったのが信じられなかった。




