第三章 イシュタル 4
イシュミールを死に追いやったメイドは直ぐに殺したが、愛しい姉を失ったイシュタルの心は穴が空いたようだった。
その後、イシュタルは抜け殻の様になり、領地から呼び出したメイドに世話されてぼんやりと過ごしていた。
そんな中、領地の両親と使用人たちが惨殺される事件が起こったのだ。
イシュタルは、その原因が自分にあるなど露程も知らなかったが、そんな事はどうでも良かった。
今は、いなくなってしまったイシュミールのことのほうが重要だった。
しかし、そんなイシュタルにも危機が迫っていた。
イシュタルの世話をしていたメイドには、カインの部屋からイシュミールの思い出となるものを奪うように命じたり、イシュミールの腕を加工するために色々と働いてもらったため油断していたのだ。
その日イシュタルは、イシュミールとして結婚が白紙になったことから領地に帰ることになっていた。
両親の死もあり、家のことで戻る必要があったのだ。
メイドと、同じく領地から連れてきていた兵士たちと共に領地に向かっていた。
領地の屋敷に着いた途端に、今までイシュタルの世話を焼いていたメイドが襲ってきたのだ。
困惑するイシュタルに覆いかぶさったメイドは、興奮したように荒い息を吐きながら、目は焦点が合わず、口から溢れた涎で口元は汚れていた。
メイドは、興奮した様子で地面に縫い付けられたイシュタルに譫言のように言った。
「はぁ、はぁ。もう、我慢できない……。おじょうさまを……、はぁはぁ、タベタイ。ヒトリジメシタイ。ハァハァハァハァ!!!」
そう言って、イシュタルの驚く顔をねっとりと舐めた。
イシュタルが、ざらつく舌の感触に嫌悪感で顔を歪めるが、それを見たメイドはさらに興奮したように鼻息を荒くした。
しかし、イシュタルを組み敷き荒い息を吹きかけていたメイドは、突然血を吐いた。
それに驚いていると、目の前のメイドが消えた。
いや、消えたのではなく近くにいた兵士によって投げ飛ばされていたのだ。
体の上からメイドが居なくなったイシュタルは、上半身を起こしてから吹き飛ばされたメイドを見た。
メイドは、剣で貫かれていたようで胸から血を流して息絶えていた。
イシュタルを助けた兵士は、その場に突っ立ったままボンヤリとした表情をしていた。
イシュタルは、領地に来るまでのぼんやりしていた思考が急にはっきりするのが分かった。
メイドを殺した兵士は、ボンヤリとした表情で虚空を見つめたまま譫言のように言ったのだ。
「イシュタルさま、だいじ。めいれいきく。たりない。たりない。ほしいほしいほしい」
その言葉を聞いたイシュタルは、背筋が凍りつくのが分かった。
その兵士は、ゆっくりと身動きができないでいるイシュタルに手を伸ばした。しかし、その手がイシュタルに届く前に、他の兵士によってその兵士も斬り殺されたのだった。
それからは、とても見ていられないような地獄が広がった。
兵士たちは、イシュタルを求めた。そして、それを邪魔する他の兵士を斬り始めた。
その場にいた、イシュタルに魅了されていた人間は全て狂ったように、イシュタルを求めて死んでいった。
その地獄絵図を見たイシュタルは、自分の魅了の力の危険性に遅まきながらに気が付いたのだ。
魅了の力は強大で、丸で麻薬のようなものなのだと。
長年、掛け続けられていた所に、王都では力の掛け直しは出来ないということから、領地を離れる前に強力に魅了の力を使われた者たちは次第に禁断症状に陥ったのだ。
効果が続いているのにも関わらず、また魅了されたいと、イシュタルが欲しいと強く思ったのだ。
だからなのか、メイドはイシュタルの命令に背き大切にするように命令されたイシュミールを憎いと思いぞんざいに扱い死に追いやった。
両親と使用人たちは、互いにイシュタルを求めて、探し、渇きが収まらずに、飢えを紛らわすかのようにイシュタルを独り占めするため邪魔な存在を殺し合った。
お互いに殺し合い死んでいった兵士たちを冷めた目で見ていたイシュタルは、どうでも良くなっていた。
だからではないが、その場に現れたカインを見ても何も考えなかった。
カインの目は、魅了の力に抗った影響なのか、あの日からその金目は濁った色をしていた。
そんなどうでもいいことを考えながら、イシュタルは自分を、そしてカインを鼻で笑った。
カインは、一緒にその場に現れた者たちに命令してその場の死体を始末させた。
それから、イシュタルを忌々しそうに、しかし悲しげに見つめて言った。
「お前には……、形代になってもらう」
その言葉を聞いた後に、イシュタルの意識は真っ暗となった。
次に気が付いたときには、何処かの地下室に閉じ込められていた。
灯もなく、ひたすらの闇の中に時折現れるメイドに世話をされるという日々だった。
メイドは何も言わずに、食事や身の回りの世話をしていった。
そして、時間の感覚も無くなった頃にカインは現れた。
現れたカインは、どうやって自分や周囲の人間を操ったのかといつも聞いてきた。
しかし、イシュタルにはそんなことに答える義理もないので、いつもそれを聞き流した。
蝋燭の灯に照らされたカインの表情はまったく読めなかったが、考えていることはイシュタルには予想はついた。
カインは、イシュタルに形代になれと言ったのだ。
つまり、イシュミールと同じ顔を持つイシュタルを見ることでイシュミールを見ているのだと。
イシュミールへの愛なのか、贖罪なのか。
そんな事はどうでも良かった。
もう、この世には愛するイシュミールがいないのだ。
いっそ命を断ってしまおうとも思ったが、イシュタルにはそれが出来なかった。
とても軽くて小さくなったイシュミールの存在があったからだ。
領地に戻る間もその腕に大切に抱いていたのに、カインによってここに閉じ込められたときには、大切な縫い包みは何処にもなかったのだ。
イシュタルは、世話をするために現れるメイドに毎回言ったのだ。
「お願いよ、わたくしが大切にしていた縫い包みを返してほしいの」
「ねえ、わたくしの縫い包みはどこにあるの?」
「わたくしの縫い包みを探してほしいの」
そう言い続けた。時折現れるカインにも同じ様に訴え続けた。
そんなある日、とうとうあの兎の縫い包みが戻ってきたのだ。
いつも世話をするメイドが、言葉少なに言ったのだ。
「これで満足?」
「ああああ!!戻ってきたわ。ありがとう、ありがとう!!」
「ふん。でも、あんたがうるさくしたらそれを取り上げるからね」
メイドにそう言われたが、イシュタルの腕の中に戻ってきたイシュミールの存在が只々嬉しくその縫い包みを抱きしめたのだった。
それからは、兎の縫い包みを大切に抱きしめるだけの生活が続いた。
愛おしいイシュミールが腕の中にあるだけで、十分だった。
イシュミールを残して死ぬことなんて出来ないと、イシュタルはもう自害する気もなかった。
そんなある日だった。
ここ数ヶ月現れなかったカインがやって来たのだ。
そして、イシュタルに掴みかかり捲し立てたのだ。
「お前は、魅了眼を使って俺や両親、領地の使用人を操っていたんだな。お前のその目が!!!」
そう言って、掴みかかった勢いに任せてイシュタルを乱暴に扱った。
決して殴られるような事はなかったが、襟首を掴まれ息が苦しくなったイシュタルは、面倒くさそうに一言だけ言った。
「そう、あの力は魅了眼というのね。知らなかったわ」
イシュタルのその言葉を聞いたカインは、乱暴にイシュタルを離した。
硬い床に投げ出されたイシュタルは、咳き込みながら嘲笑った。
カインは、嘲笑うイシュタルに向かって吐き捨てるように言った。
「お前には、もう必要ない力だ」
そう言ってから、イシュタルの襟首をもう一度掴んで俯いていた顔を上げさせた。
上を向かされたと思った瞬間、両目に強烈な痛みが襲ってきた。
余りの痛みに、我を忘れてイシュタルは叫び声を上げて暴れた。
「いやーーーーー!!!痛い、痛い!!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!いや。いや。やめて!!!い、痛い痛い痛い痛い!!!あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーー!!!!やめてやめて!!!」
自分を掴むカインの手に爪を立てて力の限り暴れたが、カインはびくともしなかった。
猛烈な痛みに意識を失ってしまいたかったが、最悪なことに意識を失うことはなくその痛みは永遠に続くかのようにイシュタルには思えた。
痛みに苦しむイシュタルに構うこともなく、カインは唐突にイシュタルを突き放した。
冷たく硬い石の床に倒れ伏したイシュタルは、未だに続く痛みに転げ回った。
そんなイシュタルにカインは冷たく言った。
「お前の両目を潰した。本当は剣で抉ってやりたかったが、薬品を使った。剣で抉られなかったことに感謝するんだな」
そう言って、未だに痛みで転げ回るイシュタルに一瞥もくれずに去っていったのだ。




