第二章 彼女はそれにまだ気づいていない 2
顔を上げた先にいるカインに気がついたシーナは、とっさに走り出そうとした。
しかし、それはカインによって阻まれた。
カインは、大きな手でシーナの細い腕を掴み言った。
「このままでは風邪を引く。来い」
「領主さま……。どうして……」
戸惑うシーナを無視して、カインは近くに止まっていた馬車にシーナを乗せた。
全身ずぶ濡れのシーナは、「馬車が濡れちゃうから……。乗れません」と言って、馬車に乗るのを嫌がった。
しかし、カインはそれを気にすることもなく無理やりシーナを乗せたのだ。
そして、自分の上着を脱いでずぶ濡れのシーナに羽織らせた。
馬車の中は会話もなく、ただ雨音だけが聞こえていた。
シーナは、居心地悪く馬車の中で小さくなっていた。
馬車は少し走って直ぐに止まった。
そこは、カインの王都でのタウンハウスだった。
シーナは、目を白黒させている間に現れたメイドによって浴室に案内されていた。
「お嬢さん。着替えはここに置いておきますので、十分に体を温めてくださいね」
そう言って、メイドはシーナを案内した後に直ぐに浴室を出ていった。
シーナは、どうしたら良いのか迷ったが、寒さから小さくくしゃみをした。
このままでは、風邪を引いて迷惑を掛けることになると思い直し服を脱いで湯船に向かった。
風呂場は、貴族の物らしくとても豪華な作りだった。
猫脚の湯船にはたっぷりのお湯が張られていた。
冷えた体にかけ湯をした後に、備え付けられていたいい匂いのする石鹸で体を急いで洗ってから湯船に浸かった。
全身が湯船に浸かると、シーナは暖かさから心が解れていくのを感じた。
それと同時に、緊張が溶けたことから急に殴られた頬が痛くなってきた。
手足は擦りむけ、唇も切れていたようで、お湯がしみて泣きたい気分になったシーナは湯船の中で膝を抱えた。
(どうしよう。どうして領主さまが……。それに、にーにたち心配してるよね……。はぁ)
考えていても仕方がないと思いたち、シーナは十分に温まってから湯船を出た。
用意されていた服は、メイドのお着せだった。しかし、それはシーナには大きくワンピースの袖は2回折り返し、裾は床を引きずる程だった。
ブカブカのワンピースを着たシーナは浴室を出て、どうしたら良いのかと扉の前で立ち往生した。
しかし、シーナを浴室に案内したメイドがタイミングを見計らったかのように現れてシーナをリビングに案内した。
そして、ソファーにシーナを座らせると怪我の手当をしてから部屋を出ていった。
シーナは、ただされるが儘に手当を受けていた。
暖かい室内の、柔らかなソファーに腰掛けていると、思いの外疲れていたようで眠気が押し寄せてきた。
寝ては駄目だと思いながらも、ふかふかのソファーに抗うことは出来ずに自然と重たくなった瞼は閉じられた。
どのくらいうたた寝をしていたのか、シーナが微睡んでいるとリビングに人が入ってくる気配がした。
起きなくてはと思いつつも、体は重く起き上がることは出来なかった。
そんなシーナに、入ってきた人物はブランケットを掛けてから向かいのソファーに腰掛けたのだ。
掛けてもらったブランケットは温かく、シーナは安心した気持ちになるのを感じた。
シーナには、その人がカインだと分かったが今は何故か起きたくなかった。
散々避けていたにもかかわらず、今はただこのまま、優しい空気の中で微睡んでいたかったのだ。
しんと静まった部屋には、カサカサという紙をめくる音だけがしていた。
半覚醒状態のシーナは、カインが本を読んでいるのだろうと思うと読んでいる本がどんなものなのか気になった。
面白い本だったら読んでみたいななどと思っていると、自然とシーナの唇は弧を描いていた。
シーナが微かに微笑んだ事に気がついたのか、先程まで規則的に聞こえていた紙をめくる音が止んでいた。
どうしたのだろうと思ったシーナは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
そして、目の前にいるカインがシーナのことを痛ましげな視線で見ているのが目に入った。
カインのそんな表情に驚いたシーナは、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
シーナが目が覚めたことに気がついたカインは、そっぽを向きながらシーナに思いの外優しげな声音で問いかけた。
「傷は痛むか?」
意外なことを聞かれたと思ったシーナは、再び瞬きを繰り返してから緩く首を振った。
「大丈夫です。これは、自業自得なので……」
「そうか……」
カインも、特に事情は聞かずにそれだけ返してきた。
室内は再び静寂で満たされた。
シーナは、久しぶりのカインとの時間に何故か心の中が陽だまりのような温かい何かを感じていた。
以前は、会うと逃げたくなったり、叫びだしたくなったりと何故かシーナの心を掻き乱すだけの存在だった。
しかし、会わなくなると今度はよく分からない乾きのようなもので心が埋め尽くされた。
それを見ないふりをしていたが、もう知らないフリは出来ないとシーナは感じていた。
今、この温かい何かで満たされる心をシーナは心地いいと思ってしまったのだ。
そして、目の下に隈を作った顔色の悪いカインのことが心配でしょうがないのだと気がついてしまったのだ。
もう見ないふりは出来ない。
自分は自由に、心のままに生きようと生まれる前から決めていたのだから。
心が決まったシーナは、この心を満たすものが一体何なのか確かめようとした。
そして、目の前に座るカインに視線を向けた。
そう、まずは話をしないことには何もわからない。
「あの……。領主さま。ありがとうございました」
シーナから話しかけられるとは思っていなかったカインは、驚いた表情をしながらも返事を返した。
「別に。たまたま通りかかっただけだ」
「そう、ですか……」
すぐに終わってしまった会話に、シーナはがっかりした。
そして、がっかりしている自分に気が付き、吃驚したのだ。
(あれ?どうして私今、会話が続かなくてがっかりしたんだろう?こんなの前からだったのに?)
一人首を傾げているシーナを他所に、リビングにノックの音が響いた。
カインが入室を許可すると、一人のメイドが入ってきてカインに何かを伝えてから直ぐに部屋を出ていった。
メイドが出ていった後に、カインは静かな声で言った。
「技術特区に使いを出した。兄と友人たちにはここに居ると伝えるように手配したから安心しろ。お前は、迎えが来るまで休んでいろ」
カインの思いも寄らない言葉にシーナは、何度も瞬いた。
そして、カインの気遣いに自然と嬉しさがこみ上げた。
「領主さま、色々とありがとうございます。でも、どうして?」
「お前の友人がレイゼイの家の者だと分かっていたから。ただそれだけだ」
カインは、それだけ言ってまた口を閉じてしまった。
部屋の中は再び静寂に包まれた。
シーナは、カインに何か話しかけなくてはと急に気持ちが焦りだした。
そして、一人もじもじとしていると再び部屋にノックの音が響いた。
今度は、先程のメイドとは別のメイドが急いだ様子で部屋に入ってきた。
カインは、眉を上げただけでそのメイドに何も言わなかった。
メイドも慣れた様子で、カインに頭を下げた後に言葉少なに何かを伝えた。
すると、カインは表情を一気に険しいものに変えた。
いや、どちらかと言うと苛立たしげなものだったようにシーナには感じた。
カインは、小さく舌打ちをした後に急いで部屋を出ていこうとした。
部屋を出る前に、シーナに向かって一言だけ言った。
「兄たちが来るまで、この部屋で大人しくしていろ」
シーナの返事を聞く前にカインは慌ただしく部屋を出ていった。
残されたシーナは、先ほど見せたカインの様子が気になってしまった。
駄目だとは思いつつも、カインのことを知りたいという気持ちが押されられなくなったシーナはそっとリビングを出てカインの後を追った。




