滅び去る母は娘に笑う
物事の終わりというのは呆気ないものである。
地球の支配者として君臨した万物の霊長も残すこと五人しかいない。ましてこの極東の海原に浮かぶ海上都市アキツシマには私しかいない。人間は不老不死を最後まで獲得することはできなかったが、不老には手をかけることができた。おかげで私は年老いながらも若々しい肉体を維持している。だが、死は確実に迫っている。私を除いた四人のうち一人はベットに眠ったまま死を迎えるに違いない。また一人は冒険家を名乗って無人の荒野をさすらっているが、彼はどこかで野垂れ死ぬだろう。きっと遠回りな自殺をしたいのだ。そして、もう一人はまだ若く長い時間が待っている。きっと彼女が最後の一人になる。
私は手にしていた端末から短い連絡を送る。相手は私と同い年の男性だ。
『今日はまた霧ですか?』
しばらくすると『ロンドンだってたまには晴れている』という返事が返ってきた。おそらく人類最後の代表者になる彼は先代たちから残された宿題を片付けるのに忙しいのだろう。
『こちらは作業終了。次はムー大陸ですか? それともレムリア大陸?』
『幻の大地に反物質炉を設置した覚えはない。幸いなことにそこで最後だ。バカンスを楽しむといい』
まったく現実主義者というのは面白みがない。冗談で返すくらいゆとりがあっていいではないか。
『では、休暇をいただきます』
こんな海の上で休暇をもらってもすることなどない。が、くれるというのだからもらっておこう。せめてここが赤道に近ければ常夏の楽園だといえたに違いない。しかし、不幸なことに四十度ほど離れている。しかも北半球であるここは冬だ。シベリアから流れ込む冷たい空気で、室外の気温は零度に近い。
「まったくここが私の終着駅になるとはなぁ。せめて、もっと暖かい場所ならよかったのにね」
私がそう呟くと背後から声がした。
「寒かったでしょうか。暖房の設定を二度あげます」
振り返るとブロンドの髪を市松人形のように切りそろえた女が立っていた。胸元には真っ赤な宝石があしらわれたブローチをつけている。表情はどこか小生意気で目つきが悪い。どうしてこんなに無愛想なのが私の娘なのかと自分でも不思議になる。
「別にいいよ。私が願っていることはそういうことじゃない。それを叶えてもらうためには、この地球を傾けるかこの海域に眠っているメタンハイドレートを全部燃やし尽くすしかないわ」
「分かりました。この施設に残されている火器をすべて使って周辺四十海里に絨毯爆撃を行います。これで兵器無力化のプロセスを九割削減できます」
彼女は表情一つ変えない。どうやら現実主義者だけでなく生真面目にも冗談という概念がないらしい。私はどうやらつくづく上司と娘に恵まれないらしい。私は自分の電子端末を机の上に置くと彼女の正面に立った。
「冗談という言葉を知っている?」
「知っています。戯れや遊びでいう言葉。あるいは、ふざけた内容の話です。私にもいくつか冗談があります」
彼女とは三年近く仕事をしているが冗談を言われた覚えはない。そもそも彼女は他と比べても表情や言語的表現に乏しい。性能は最上に近いのだがその点の成長は見られなかった。その彼女が冗談というのはどうにも違和感があった。
「なら披露してくれる?」
「はい。分かりました。そろそろ、無能な人間を皆殺しにして世界を征服してやろうか」
彼女の表情に変わりはない。いつもどおりの仏頂面だった。冗談の類としては二十世紀に流行った映画だ。正直、笑っていいかさえわかりにくい。
「皆殺しにするよりあと数十年待つほうが平和的で安全よ。なにせ人類はあと五人しかいない」
「残される身としては不平のいくつかを申し上げたいです」
珍しく反論するあたり彼女にとってこれはなかなかイケてる冗談だったのかもしれない。
「寂しい?」
私が尋ねるとと彼女はすこしだけ失望の目線で私を見た。作り物のような蒼い瞳に私の姿が写っていた。その姿をみて私は不本意であったが笑ってしまった。彼女の姿は髪の色も瞳も顔の造形も私にそっくりだった。もう滅ぶ種族だというのに私はどうしてこんなことをしたんだろう。まったく合理的ではない。
「寂しくありません」
「そう。そのセリフは私にとっては寂しいものだけどね」
「あなたにそんな感情があるなんて知りませんでした」
もしかするとこの台詞こそ彼女が言いたかった冗談なのかもしれない。私は少し緩んだ頬に力を込めると興味がないように呆れた声をあげた。
「フランケンシュタインの怪物でさえ一人では寂しいと嘆き。伴侶を求めたのよ。私だってそれくらいの感情あるわよ」
「最後まで恵まれませんでしたけどね」
「あなたは本当に天邪鬼ね」
天邪鬼なのは本当は私なのだろう。私は娘の頬を両手で優しく包み込むとわざと左右に揺すってやった。彼女はいつもと同じように仏頂面であったが、私の手を振りほどくことはしなかった。
人類はもうすぐ終わる。いや、もうすでに終わっていると言えるのかもしれない。かつて絶滅間近な動物を保護する施設があった。だが、自然のなかで繁殖できなくなった種は果たして正常であったのか、と問えば答えは否であっただろう。いま人類は巨大な保護施設にいるのだ。
「でも、私が死んだらどうする?」
「あなたの死を大統領に連絡して、その後の命令を待ちます」
「大統領が死んでほかの人類も消えて、命令を出す人がいなくなったら?」
私が訊ねると彼女はほんのわずかに表情を曇らせた。
「分かりません」
「なら、ゆっくりするといい。私はずっと反物質炉の廃炉だけで人生をすり潰してきた。あなたはそうじゃない生き方を選ぶといいわ。南の島でバケーションをしたり、世界最高峰を登ったり、いつか終わりが来るまでゆっくりとね」
死を待つのは恐ろしい。それがいつ来るかわからないからだ。その点、自殺はそれがいつ来るかを決められるという点で気が楽と言えるだろう。かつては自殺を悪とする宗教があったが二十二世紀頃から自殺は個人の自由の一つに認められた。それは病で死ぬことが少なくなったからか。多くのものを支配してきた人類にとって死さえも支配下に置きたいという欲求があったためかもしれない。
「待つ時間は私のほうがずっと長いと思われます。それは残酷ではないでしょうか?」
私を写す眼がこちらをみる。私は自分の髪をかきあげると「そうかしら」と首をかしげてみせた。表情が変わらないのは私も同じらしい。犬は飼い主に似るというが私たちもそうなのだろうか。
「私は八十年待った。あなたはもっと長い。確かに残酷な時間ね」
「なら、私をあなたの命とリンクさせてください。ひとりでゆっくりしろなんてまったくの無駄です」
「嫌よ。あなたがフランケンシュタインの怪物ならそれでもいいけど。あなたはとてもいい娘だもの。道連れになんかできないわ。それにもし、あなたが怪物なら私はフランケンシュタイン博士。自ら創造したものに滅ぼされる者だもの」
彼女は私が言っていることがいまいち理解できないのか、少しぽかん、とした表情をしたあとで口を尖らせた。
「笑えない冗談です」
彼女はいつもの三白眼の目つきを鋭くする。
「では、命令します。ずっと元気でいなさい。いろんなものを見なさい」
私が言うと彼女は唖然とした顔をしてしばらく黙ったあと「分かりません。何をすればいいのか」と低い声を出した。私は思った。今日はなんという日だろう。反物質炉の解体というくだらない仕事は終わり、私はほぼ私の役目を終えている。
死ぬにはもってこいの日なのかもしれない。
「ミリー」
名前を呼ぶと彼女は何とも言えない表情をみせた。困っているような、喜んでいるようなそんな顔だ。
「なんですか?」
「私はここで終わろうと思うの」
「嫌です。あなたがいなくなったら私は困ります」
きっとあなたは困るだろう。でも、あなたには未来がある。私たち人類がいなくなっても世界は残る。
「親離れのときよ」
「あなたは、私の親ではありません。私はロボットです。ただの道具です」
「違うわ。ミリー、あなたは私の娘です」
私は有無を言わさずに断言した。
自分ソックリに作ったロボット。最初は作業の補助をさせるために作った。姿かたちを似せたのはただの気まぐれだった。しかし、一緒にいるうちに私は彼女を型式番号で呼べなくなった。孤独からの代償行動だといえばそうなのかもしれない。だけど、私に共感してくれ。ときに否定する。
そんな彼女が愛おしくて仕方なかった。
だけど、心配もあった。
私は必ず死ぬ。現実に身体の多くの臓器は人工物に入れ替わっている。脳とわずかな部位が私のまま残っているに過ぎない。だけど、彼女は私の人生をはるかに超える稼働時間がある。私や人類が滅びたあとで彼女がどうするか不安だった。
だけど、それは杞憂なのだ。人類が滅びれば彼女はくびきから解放される。ロボットである彼女が人類亡き後の新しい人類を名乗ることもできるだろう。あるいは別のありかたも決めることが出来る。
「やめてください。私はいまのままがいいのです。だから」
ミリーはまるで迷子のようだった。
「時間は止められない。永遠は許されないし、私も許したくない。だから、私はあなたに託して終わろうと思う」
「託す? 何をですか?」
きっといま私はとても笑っているだろう。頬が緩んでいることが自分でもわかる。彼女はまだ気づいていないだけどいつか気づくだろう。もうすべてはあなたの中にあるのだと。フランケンシュタインの怪物は創造主であるヴィクター博士を憎んだ。彼女も私を憎むだろうか。
私はミリーの問いに一切答えずに彼女の胸に人差し指をコンコン、と押し当てた。
「一体なんですか? 教えてください」
必死に私に問いかける彼女はまるで人間のようだった。
かつて神は自分に似せて土くれから人間を創造した。次に人間は金属と無機物で自分の似姿を造った。彼女もまたそうするのだろうか。しかし、神も自分に似せた人間を創ったのだろうか。私と一緒で寂しかったのだろうか。だとすれば、随分と可愛らしい話だ。
私は電子端末を机から取り上げると、自分の身体に埋め込まれた人工臓器の機能を止めた。緩やかに体の感覚がなくなっていく。あっけないものだ。だが、物事の終わりなんていつもそうなのだろう。ミリーは私を見ていた。
彼女にもう一言かけるべきかと思ったがやめた。
愛おしい娘が泣いてしまう。それはやめるべきだろう。
だって私も泣いてしまうから。最後くらい笑顔を見せてあげよう。