眠らない遊園地
12話構成の、4話目の中の短編の一つです。
四月に負わされた骨折のギプスが外れたのは、七月半ばに入ってからだった。
校舎三階の窓から転落したにしては、軽い怪我で済んだということだろう。
医者から診察の際に聞かされた説明によると、あと一ヶ月ほどはリハビリを兼ねて通院しなければならないが、それを加味してもありあまる幸運であったらしい。普通は死んでいてもおかしくないぐらいの事故だったのだと。
自殺未遂に巻き込まれたのだから、当たり前と言えば当たり前のことである。それにしたってこの僕が幸運などと称される日が来ようとは、人生は本当に予測のつかないことで成り立っているようだ。四月からの不幸を運んできた少女、河名彼岸曰く、『死人を出すレベルの不幸体質』であるこの僕が、幸運であるはずがないのに。
「三上くん、君はちゃんと私の話を聞いているのかね?」
河名の不満げな囁き声が耳元で聞こえて、僕は我に返った。
ギプスが取れてから二週間後、僕は河名に快復祝いということで遊園地に連れてこられていた。目の前には未だに長いアトラクション待ちの列が続いている。観覧車で三時間待ちの列。どうやら待ち時間が長すぎて意識を飛ばしていたようだった。
「えーっと、次に乗りたいのはメリーゴーランドなんだっけ?」
「馬鹿者、それは三十分前にした話だ。まさかそこから聞いていなかったとは」
誤魔化そうとして、余計に墓穴を掘ったようだった。
冷え冷えとした視線と、呆れ調子に吐かれたため息がチクチクと胸を刺激する。
言い訳も出来ず、曖昧な笑顔を浮かべていると、河名はもう知らないとでも言いたげに首を振った。拍子に長い黒髪が左右へと膨らむ。
「昼食にハヤシライスを食べただろう。あれについての小話をしてやっていたのだ」
「はぁ、河名のハヤシライスについての小話、ねぇ」
ついつい胡乱な声が出てしまう。
河名が小話と称した蘊蓄を語り出すとき、それがろくな話であった試しがないからだ。
前半の入り出しはたしかに面白い。けれどもオチは必ずグロ話であって、聞いた僕がげっそりするというところまでが、もはやテンプレート化している。
この前された、カルツォニッキとかいうパスタの話は、中身に炒めた脳と卵が入っているというところまでは我慢が出来た。しかし、そのあと続けられた臓物の話がダメだったのだ。おかげで数日間はパスタを見るたびにその話を思い出して、吐きそうになる羽目に陥った。僕はその記憶を忘れるつもりはない。
流石の河名も、遊園地という公の場でグロ話を開陳するような人間ではないと信じたいのだが……万が一ということもあるので身構えてしまう。
「三上くん、その目はなんだ。そんなにも私の小話を聞きたくないのか?」
「小話というより、僕は河名のグロ話を聞きたくないだけなんだよ」
「ぐ、グロ話とは失礼な。れっきとした人体についての考察だぞ」
頬を膨らませて抗議する姿に、一瞬気が殺がれた。残念な性格さえしていなければ、河名は文句なしの美少女なのだ。その美少女に頬を膨らませられれば誰だって文句を言うことを躊躇するだろう。けれども、台詞に混じった人体についての考察という不穏な言葉を見過ごすことは出来なかった。
「それがつまり、グロ話だって言ってるだろ」
反射的に声を潜めて、あたりに視線を配る。前に並んでいるのは友達と来た風な中学生ぐらいの女の子四人組、後ろには若い男の二人組、いずれにしても一般人といった感じの人たちが並んでいる。こんなところでグロ話をさせるのはまずい。というよりは、万一聞かれたときの引かれた視線に自分が耐えられそうになかった。
むっと河名は眦を釣り上げている。
「本当に三上くんときたら、意気地なしで、しなびたきゅうりで、おたんこなすで」
「いやね、どうして君のグロ話を止めただけで悪口を言われたきゃいけないんだよ」
「きっと、頭の中はかぼちゃとしらすの煮つけでいっぱいに違いないのだ。だからいつもいつも、飽きもせずに不幸に見舞われるのだろう」
「嫌いな食べ物に頭を占拠されてれば、誰だって不幸になるだろ……」
まるで一回りも年下の、小さな子供をあやしているようだ。
諦め半分で河名の暴言を聞き流していると、不意に隣から声がかけられた。
「あのぉ、そちらのお客様がた」
「はい?」
首を巡らせると、すぐ近くに遊園地のキャストの制服をきた女性が立っていた。年頃は同じぐらいか、それとも少しだけ上かといってように見えるので、もしかしたらバイトなのかもしれない。
大きな瞳に、そのまま手を添えたらころりと零れ落ちそうだなと感想を抱くあたり、僕の思考もだいぶん河名に毒されているようだった。
「すみません、うるさく騒いでしまって」
「どうして何も言われていないうちから、三上くんは謝っているのだ?」
頭を下げる僕に、心底不思議そうに聞いてくる河名。その精神構造こそ不思議だった。
列の半ばにいるのに、わざわざ来たキャストに声をかけられたのだ。迷惑行為をしてしまったと考えるほうが自然というものじゃないだろうか。
「いえ、お客様、そういうわけではなくてですね」
女性が両手を振って否定する。そんなに否定されるような行為だったろうか。
首を傾げると、慌てた様子で待ち列の奥の方を指された。
「あちらの方にカップル専用の列がございますが、そちらにお並びになられますか?」
どうしてこんなことになったのだろう、と考える。
カップル専用シートに僕と河名の二人きり。下降していく景色をお互い無言で眺めている。
四月下旬の僕がもしタイムスリップしてきて、この光景を見たとするなら、今の僕を問答無用で殴りつけることだけは確定事項だった。何がどう捻じ曲がれば、自殺未遂者と、それを止めて怪我をしたやつがカップルになるというのだ。今の僕だって声を荒げて誰かに問いただしたい。
「なあなあ、三上くん」
「なんだよ」
「世の中はかっぷるに優しく出来ているのだな!」
「そりゃ、カップルがいなきゃ人類は滅亡するからな」
つまらなそうに言葉を吐いて、横目で河名を盗み見る。
ガラス窓に張り付いて、眼下の景色に感嘆の声を上げている横顔からは、無邪気さしか感じられなかった。今さっき、僕らの関係をカップルと偽った真意は汲み取れない。
五月半ばに起きた事件、そのとき河名が笑いながら言っていた言葉を思い出す。河名は河名を好きだと言ってくれる人が吐き気がするほど嫌いだと言っていた。だから、カップル扱いされることは嫌がるのだとてっきり思い込んでいたのだが……どうにもわけがわからない。もしかしたら、ただ単にカップルを便利な道具か何かと勘違いしている可能性もあるけれど。
「面白いなぁ、人がまるでゴミか塵のように見えるぞ」
「流石に塵は言い過ぎだろ」
河名の声に促されるように視線を移動する。眼下に広がっていたのは、冗談みたいな箱庭世界だった。ミニチュアポップコーンスタンドに、フィギュアのような着ぐるみたち、それと、玩具みたいなアトラクション。蟻のように行列をなしているのは人間たちの群れだ。不規則に蠢いている。
「なぁ、三上くん」
「今度は何だよ、河名」
「君に一つ、聞きたいことがあるんだ」
いつになく、そしてお決まりの通り真剣な声色に、僕はしぶしぶ河名の方へ向き直った。
こういう改まった雰囲気というのは嫌いだった。それが河名とのものとなれば尚更に。……それなのに、河名彼岸という少女は、ときどきこうして唐突に雰囲気を変えるのだ。
無言で続きを促すと、河名は真っ黒な瞳を瞬かせて、それから口を開いた。
ばこん。
言葉の代わりに耳朶を打ったのは、現実味のない音だった。おそらく、爆発音だろう。
反射的に河名の頭を押さえて伏せさせていた。危険な状態に身を置くのが至福だと公言している彼女のことだ、それは余計なお世話に違いなかったが、それでも善意ある人間としてそうせざるにはいられない。
観覧車がユラユラと揺れる。どこからか悲鳴が聞こえる。
「三上くん、爆発かね?」
「多分そうだろうな。……どうしてそんなに嬉しそうなんだよ」
「当たり前ではないか! もしかしたらついに死ねる機会が巡ってきたのかもしれないぞ」
押さえつけている僕の手を振り払って、河名は立ち上がった。
興奮のためか頬がいつもより赤く、それは否応なしに四月の彼女の姿とリンクする。違いを探すとするなら、あの時は制服、今は私服ということぐらいだ。
「おぉ、どうやら二つ後ろの観覧車が爆発したみたいだな」
視線の先を追ってすぐに飛び込んできたのは、一つ後ろの観覧車で大騒ぎしている少女たちの姿だった。見覚えのある中学生ぐらいの四人組。スマホを取り出して、撮影しているあたり、誰も怪我は負っていないのだろう。
「けが人がいなさそうなら、っ!」
大きく目を見開いた。気が付いた一つの事実に血の気が引いていく。
河名はもうすでに気づいていたのだろう、つまらなそうにおくれ毛を弄っていた。
「なんだ、ようやく君も気づいたようだね」
「毎回毎回思うんだけどさ、どうして河名はそういうところに目ざといんだよ」
「愚問だな。死にたがりが死ねるチャンスに疎くてどうするんだ」
傾けた頭、肩口に黒髪がさらさらと流れていく。
華奢な白い指が気だるげに二つ後ろの観覧車、その残骸を指さした。
「君の言う通りに、カップル専用レーンではなく普通のレーンに並んでいたら、今頃爆発していたのは私たちだったかもしれないな」
普通の観覧車は四人乗り。一つ後ろの観覧車に僕らの前に並んでいた少女たちが乗っているならば、その可能性は大いにあり得ることだった。寒気がする。
「爆発物の所在にもよるがな」
河名は大あくびをしてから、対面の席へと腰を下ろした。
「あーあ、今回も私の幸運で死に損なったか」
観覧車が再び動き出したのは、空が紫のグラデーションに変わったころだった。
河名は散々愚痴っていたが、次にメリーゴーランドに乗りたいなどと言える時間ではない。
「待たせたな、三上くん」
「降りてから姿が見えないと思ってたら、どこ行ってたんだよ」
パトカーのサイレンの光を背に受けた河名は、まるで死神か何かのように見えた。
ふわり、とスカートが風を孕んで膨らむ。一瞬だけ黒タイツに包まれた太腿が覗く。
「すこぅし、情報収集をしていたのだ」
「情報収集ったって、要は盗み聞きだろ」
河名は否定も肯定もせずに、ただにやにやと口元を歪ませていた。
楽しそうな口元とは対照的に、剣呑な光を放っているのは、真っ黒な瞳だ。
「二人組の男のほうが手榴弾で自殺を図ったそうだ。巻き込まれた二名と合わせて計四名が死亡という悲惨な事故だな。……本当に残念だった、あのとき私がこっちを選択しなかったら、ねぇ?」
「やめろ、その計算だと僕まで死んでることになるだろ」
顰めた僕の顔を見て、河名はくつくつと喉を鳴らす。あたりにはパトカーのサイレンが鳴り響いているというのに、妙にその音は耳についた。心底嫌な音。
「人生諦めが肝心、君と不幸は切っても切り離せないんだからね」
「諦めたら、僕は自分の不幸で人生そのものが終わりになるんだぞ」
警察の事情聴取を受ける前に、精神を疲弊させることになりそうだ。
嫌な顔で笑っている河名を直視していられなくて視線を逸らす。すっかり藍色に染まった空は、よく見ると暗い雲をまとっている。一雨来そうな雲だった。
「君が不幸体質で死のうが、死神体質で殺されようが、そんなことは私にとってどうでもいいんだ」
「……最低なやつだな」
見なくても、河名の表情は手に取るようにわかる。
「じゃあ、何故君はその最低なやつとまだ一緒にいるんだろうね」
「……」
答えを知っていてなお、聞いてくる問答は悪趣味だ。
むっつりと口を噤んでいると、スカートが揺れる衣擦れの音がした。
「とりあえず、私にとっての大事なことは、君のその体質に巻き込まれて死ねるか否かであってね」
わざわざ覗き込んできた河名、その黒い瞳と視線がかち合う。
どくりと心臓がひときわ大きく鼓動を打って、僕は目を離せなくなる。
「だからね」
河名彼岸は死にたがりだった。河名彼岸は自分が死ぬためならば、どんなことでもしかねない少女だった。そして、僕は、僕を利用する彼女が、好きだった。
「期待してるよ、三上くん。君が私を殺してくれる日を」
ぽつり、と雨滴が空から降ってくる。
彼岸みたいな少女が好きですが、友達にはなりたくないですね。