暗闇に振り返る
人生初ホラー
暗闇に振り返る。
それは、不安と恐怖の表れであると同時に、何もいない何も起こらないことを確認するための行為でもある。そう、確認。不安に思いながらも、人の意識の奥底には『どうせ何も起こらない』というある意味傲慢なまでの平和への安心感や信頼感がある。だから、ふと不安に襲われて振り返るとき、人は安心を得るために何もないことを確認するのだ。もし背後から忍び寄る気配があって、それが自分にとって良くないものであるという確信があった時、振り返るわずかな時間すら惜しんでその場から離れようとするだろう。振り返ればその瞬間から、今の不安を上回る恐怖の時間が始まることが分かりきっているからだ。
しかし、大抵の場合そんなことは起こらない。暗闇や静かな地に響くかすかな音への言葉にできない不安が膨らんだ結果の、単なる気のせいに過ぎない。余程のこと、それこそ法を犯すようなことでもしでかさない限り、現代を生きる日本人が真の恐怖を味わうことは稀であると言える。だからこそ人は振り返る。平和な時代にある今の自分を確認するために。
速水咲里はそこらにごろごろ転がっていそうな女子高生だ。流行りもの好きで噂好き。ついでにサッカー部の顔の整った先輩も好きだったが、友人と騒ぎ合う楽しみのための好意のようなもので、そこまで叶えたい想いでもなかった。そんなどこにでもいそうな彼女の唯一変わっている点と言えば、大のホラー好きでホラー特番が組まれれば真っ先に録画をしてほくほくしているところだが、これも平和すぎる現代に飽き飽きしている人間にはありがちな趣味であるだろう。
その日、咲里は焦っていた。年に数回放送されるホラー番組の録画を忘れていたことに気付いたからだ。
「ああもう。どうしてお母さん今日仕事なの」
仕事のほうがホラー番組よりよほど大事なのだが、それがわかっていても今の咲里の優先順位ではホラー番組が勝ってしまう。ぶつぶつと文句を呟きながら家路をひた走る。
家まであと数メートルのところにある角を曲がったとき、ふと気配を感じて振り返った。
振り返った咲里を迎えたのは静かな家々と赤から黒に近付いた空のみ。
―――気のせいか。
知らず詰めていた息を吐き、再び走り出す。先程までより少し、速く。
ぎりぎりで放送に間に合った咲里は録画をせずそのまま見ることにした。母が帰って来れば勉強をしろと怒鳴られるが、仕事から帰る前に見終えて、すぐに部屋に入ってしまおうと算段を立てる。
思う存分ハラハラし、エンドロールを眺めていたとき、咲里は背後に立つ気配にどきりとした。
「こら、あんたはまた……こんなもの見ていないで勉強なさい」
後ろからかかった声の持ち主はわかりきっていたので、怒鳴り声に肩をすくませながらテレビを消す。真黒な画面を名残惜しげに見ながらすねた口調で言葉を吐く。
「うるさいなあ。ちょっと休憩してたんだってば」
見え透いた嘘を吐いて、振り返りもせず一目散に部屋に戻る。後ろから母の溜息が聞こえた。母が殊更怒るのは、ホラーが苦手だからだということは咲里も知っていた。だからこそ、まるで咲里のためであるかのように勉強を引き合いにだして叱られることに理不尽さを感じる。
部屋に入って、電気をつける前に、何か気配を感じる。気配のする方へ視線を向けたまま電気のスイッチを入れると、窓際にかけられていた上着が明かりの下に現れる。上着の肩や袖に、人が立っているように思わせられていたのだ。咲里はふうと息を吐く。
しばらく勉強机に向かって、やがて飽きて鉛筆を転がし始めたとき、母がお風呂よと呼ぶ声が聞こえる。いつもならば微かにお風呂が沸きましたという機械音が耳に届くのだが、と不思議に思ったが、振り返って扉を見て笑った。いつもは少し開けていた扉が、今はぴったりと閉じられている。余程先程の上着の幽霊に怯えていたらしい。
下着や寝間着、そしてバスタオルを用意して階段を下る。台所からはことことかちゃかちゃと料理音が聞こえる。
「私肉じゃがねー」
「何言ってるの、みんな同じよ。もう作っちゃったわよ」
呼びかけが返ってくることに少しホッとする。先程の番組は特別怖かった。先程から些細な不安が重なっていたこともあって、何かが気にかかっていたのだ。
―――例えば、お化けが潜んでいたり?
そんなことを考え、咲里は一人笑った。馬鹿らしい。ホラー番組の見過ぎだ。
がちゃりとドアを開け、脱衣所に入る。自らの考えを笑い飛ばした咲里であったが、不安な気持ちはぬぐえず、なんとなく鏡の方を見られない。視界の端に映った鏡の中に、自分のもの以外の暗い影が見える気がして、余計に確かめるのが怖くなった。
手早く服を脱ぎ、蛇腹の扉をがらりと開ける。浴室用の小さな椅子を引っ張り寄せて、軽くシャワーを浴びる。シャワーを浴びているときに後ろが気になるのはよくあることだ。咲里はひたすらにシャワーを浴びる。きゅ、と蛇口をひねり、手探りでシャンプーを手に取る。容器のふたや側面に凹凸がある方がシャンプーだ。テレビ番組で知った豆知識を、咲里はいまだに活用していた。頭皮を洗って、流す。毛先にリンスをつけて、流す。淡々とこなしていくうちに、咲里は得体のしれない不安を忘れていた。
最後に体を洗い終え、一呼吸つく。―――と。
ふっ、と明かりが消えた。
驚き、一瞬焦るが、すぐにブレーカーが落ちたのだろうとあたりをつける。母はよく、電気ケトルにお湯をかけたまま電子レンジを使ってしまうのだが、その二つは同時に使った時点で強制的にブレーカーが落ちてしまう。母も咲里も電気に詳しくはないので配線か何かがおかしいのかそれとも普通なのか判断がつかず、取り敢えず同時に使わないことにしている。とは言っても、結局忘れてときたまこうしてプチ停電が起こるのだが。
少し待つが、ブレーカーを上げるのに手間取っているのか、電気が戻る気配もない。このままではシャワーも冷たくなってしまう。
「おかあさーん、早くブレーカーやってよー」
声をかけるが、集中しているのか返事はない。
咲里はため息をついて、浴槽のふたに手をかける。ちょうど洗い終わったところだし、とりあえず湯船につかってしまおう、として。
咲里は固まる。
何か、いる。
この浴槽の中に。
ゆっくりと息を吐き、手探りに中を探る。
手が何かに触れた。はっとするほど冷たく、硬い芯があるようで、表面は柔らかい。しっとりしているのは水滴でもついているのだろうか。そのまま、それをたどる。目を凝らす。まだ見えない。
知らず息が上がっていた。早く、早く、電気、つけて。そうしたら、この何かはなくなる。何かなんてなくて、そこには、なんだ、と安心するようなものが。電気。電気さえつけば。
徐々に、目が慣れてくる。
単なる暗闇に影の濃淡が現れ、それはその輪郭を浮かび上がらせた。
―――息が、出来ない。
それは、―――それは、紛れもなく、母だった。
なんで、どうして。声は出ず、口だけがから回る。
確かめるように撫でさすっていたそれは母の手首。その先には、小さなころに何度もつないだ柔らかな手と、父が亡くなった後も外さなかった結婚指輪の冷たい光。
仰向けで、何かに驚くような表情のまま浴室に丸まっている母は、精巧な人形のようであるのに、それを人形だと断ずることのできない凄みがあった。
母はずっとここで転がっていた。
―――じゃあ、じゃあ、あの、母の声をしたアレは?
アレが現れてから、咲里は一度も振り返っていない。テレビを消したとき真黒な液晶に映ったのは、単なる部屋と不満そうな自分。母はいない。お風呂が沸いた音はしなかった。母の声は聞こえた。母は死んでいた。みんな同じ、みんな?みんなってだれだ。この家には自分と母しかいないのに。いや違う、だってもう母は―――。
がちゃり。
脱衣所の扉が、ぎいい、と音を立てる。
ずる、ずるると何かを引きずるような音が、近づいてくる。
咲里は振り返らなかった。
振り返れば、その瞬間からこれから起こりうることが始まると、
その時咲里が得られるものが、純粋な恐怖だけだと、わかりきっていたからだ。
後ろにも目が欲しいです。