しあわせのコロッケ
コロッケが食べたい。
歩道に転がったからからの落ち葉を踏み砕き、ぼんやり考えた。
夏かと思っていた風はいつの間にか少し冷たくなっており、袖口からひんやりと入り込んでくる。
もう日もすっかり落ちてしまって、空は暗く沈んでいた。
就職してから10ヶ月、スーツをビシッと着こなすことにはもう慣れたはずが、退勤にはどうにも慣れないままだ。
暗くなるとスーツが似合わなくなるのは何故だろう。
しょんぼりとぼとぼ歩きながら、また落ち葉を蹴った。私には向いていない。
居酒屋にでも行こうか。あるいはバーにでも行ってしまおうか。同棲している相方は、今日も夜勤である。幸いにも金曜日だ。お酒はいくらでも呑める。
そんなことを検討しながらも、ふと頭に浮かんだのがコロッケだった。
気にも留めないまま忘れていたが、私は幼い頃からそれが大好きだったのだ。
揚げたて熱々の特別感。ほんわり広がったあぶらの香りが鼻腔をくすぐる。
お肉屋さんのおばちゃんにもらえるコロッケは、注意しなければならない。薄い紙袋1枚しか隔てていないため、熱さがそのまま指に伝わるのだ。火傷をしないように一生懸命持ちかえながら、そっとかじる。
かりかりでぴんと立った衣をさくりと噛めば、ほくほくの中身が堪らずにこぼれおちる。ほかほかで柔らかいじゃがいもの中には、合挽き肉もこっそりと顔をのぞかせている。舌に広がる旨味。お肉の静かな存在感が、また心地よい。もちろん、熱い。熱々だ。熱くて熱くて、口の中に空気を送り、気持ちだけ冷ましてなんとか飲み込む。おなかに落ちる温かさ。またもう一口。なんという幸せだろうか!だんだんと紙にしみていく油と湿気すらいとおしい。コロッケは私の幸せの象徴だった。
あの駅前のお肉屋さんはまだあるだろうか。高校生の頃まではしっかり食べていたのだけど。大学に行くために上京して、それからはさっぱり忘れてしまっていた。
今ならまだ間に合う。足取り軽く、いつもと違う電車の切符を買った。
◆
考えてみれば、約半年ぶりの地元だ。
田んぼを走る電車に揺られながら、見慣れた景色に気持ちが緩む。微睡みながら音楽を聴いた。
隣に座ったニキビ面の男子高校生は、一瞬で眠りに落ちていた。
膝の上に開かれた英単語帳が、心細げにページを揺らしている。
そういえば、幼なじみと早食い競争をしたことがあったっけ。
たぶん、小学校3年生くらいの頃。僅かなおこづかいを握りしめ、2人並んでコロッケを買った。美味しいことは知っていたから、早く自分のものにしてしまいたかった。必死で口に押し込み、相手よりも1秒でも早く飲み込んでしまおうとした。私はそのとき、間違えて一緒に髪を食べていた。長い髪だったのだ。必死で食べればそんなものには気がつかない。
結局勝敗は引き分け。2人とも口の中を火傷。親からは大目玉。おまけに私は食べ終わった瞬間大泣きしたそうだ。早く手に入れようとしたはずが、実際には早く無くなってしまっただけだったから。
そういうことは、やってみないとわからない。
地元の駅に着いた。時刻は0時を回ったところだ。
さすがにもうお肉屋さんはやっていないだろう。
まあ仕方がない、明日買えばいい。
とりあえず実家へ行こう、と足を踏み出した、
瞬間、
明かりがついていた。
私は呆然と足を止めた。
サラリーマンと思しきくたびれた人たちが、一定のスピードで私を追い越していく。
私は、歩けなかった。
煌々と明かりがついていた。
お肉屋さんだった場所は、コンビニエンスストアとなって、闇を照らしていた。どうして。
ふと気がつくと中に入っていた。何の変哲もないチェーン店。ごく普通にお菓子やお弁当が陳列されている。
レジの横には、赤いランプに照らされて揚げ物が並んでいた。唐揚げ、ポテト、アメリカンドック。コロッケ。コロッケがある。
コロッケが食べたかった。受け取ったらほのかに温かかった。ぺちょりとして、たよりげのない薄さだった。衣はもうコロッケに一体化していた。
外に出て、ベンチに座る。真夜中なのに、不良の1人もいない。
かじったのはコロッケの形をした違うものだった。
◆
結局実家には帰らなかった。海に行きたくなったのだ。
公園のベンチで時間をつぶし、始発の電車に乗った。携帯電話の充電はまだ残っている。
閑散とした車内で、ぼんやり目を閉じると、あっという間に目的地だった。
時刻は5時15分。もう20分もすれば日が昇る。
ホームを抜ける潮風の味がすがすがしい。空気はまだ冷たい。頬を叩かれたように目が覚めた。
歩こう。
砂が黒いパンプスに絡みつく。
うすぼこりに汚れるので、さっさと脱いだほうがいいのだろうけれど……。履いているのはストッキングなのだ。砂浜を直に歩けばただでは帰れないだろう。
かと言って、さすがに公共の場でストッキングを脱ぐのは憚られる。公衆トイレもここまで来てしまえば近くにないのだ。駅のお手洗いに寄らなかったことをひどく後悔した。
ヒールが砂にのめり込む。無理。よろけながら、靴を脱いだ。ストッキングは使い捨てだ。どうにでもなる。
ストッキング越しに感じる砂は、こちらの思い通りにはならないようだった。
いきなり尖った貝を踏んだ。最悪だ。
とにかく足を動かす。ロボットのように。
波打ち際に寄れば、湿った砂にたどり着く。このいまいましいさらさらの砂ともおさらばだ。
足をとられる。砂浜でのランニングはどれほど厳しいものなのだろうか。
あんなに近くだと思ったのに、歩いてみれば進まない。むしろ遠ざかっていくようだ。
ふいに鞄が振動した。携帯電話の表示を見ると、同居人だった。
連絡をしていなかった。
「はい、」
「もしもし、こんちゃん、どこ?!大丈夫?!何かあったの?!」
凄まじい勢いで言葉が飛んでくる。
「大丈夫なの?!バイト帰ってきたらいないし……。僕心配したんだよ。こんちゃん最近毎日疲れた顔してたし。ちょうど花金だから呑んだくれてどっか行っちゃったかと思った。どう?図星?」
徹夜の頭にはビシバシ突き刺さるようなやや高い声。少し面倒くさい。
「こんちゃん?!?」
「ああ、ごめん。残念ながら呑んでないよ。」
ちぇー、外したかーと能天気な声が聞こえる。
「色々あったんだよ、だけど今はとりあえず海にいるの」
くすりと笑いながら告げる。
「は?!?!」
「まあ詳しいことは後で話すよ。今日暇?こっちこない?」
「あのねえ、」
ため息混じりに返答された。
「そういう時はちゃんと迎えに来てって言うもんだよ」
息をのむ。
「わかったよ行ってやるから。待ってな?」
一方的に電話を切られる。
別にそういう訳ではなかったのだけど。暖かさがぽっと胸に落ちた。
砂浜がさっと色を得た。長い長い水平線から、日が昇る。
もう1回電話が鳴った。
「ところでこんちゃん今どこにいるんだっけえ?!?」
こいつのこういうところは割と好きだ。
◆
「こんちゃん!!!」
私は湿った砂の少し手前、さらさらの砂に腰を下ろしていた。よ、と右手を上げる。
「ケイ。来てくれてありがとうね」
「全く心配させてさあ」
ふにゃりとした笑み。小綺麗な短髪が少しあぶらっぼい。は、と気がついた。
こいつも夜勤あけだった。目の下にうっすらとクマが見える。
「別にいいけどね!それよりそんなところ座ってるとスーツダメになるよ、着替え持ってきたからこれ着て?」
驚いた。
「え、あ、ありがと。よくわかったね?」
「だって帰ってきてないんだよ?そんくらい僕でもわかる。まあ何もなくて良かったよ本当……本当に呑んでないの?」
「本当に呑んでない……」
ふてくされながら立ち上がった。砂を払い落とし、差し出された手を握る。
2人で歩く砂浜はそんなに歩きづらくはなかった。
◆
「で、コロッケが食べたいと」
帰り道の電車で一部始終を話した。
一部始終と言っても大したことはなかったことが、少し悲しい。
「ねーこんちゃん無視しないで。コロッケ食べたいんでしょ?」
「まあね。でも私が食べたかったのはお肉屋さんのおばちゃんのコロッケなんだ。もう遅かったのよ。いいの、あきらめたから。代わりに他の美味しいもの食べに行こう?」
「……それでいいわけ」
気にくわないらしい。
「だってあれが食べたかっただけだけだから」
「そんなの僕がつくってやるよ」
得意料理はカップラーメンと自慢気に言う奴が何を言うか。
◆
やっと帰ってきた1日ぶりの我が家。私のベッド。最高だー!
「こんちゃんー?お風呂先入るねー!」
おっけーごゆっくりー、と返す。眠い。
少しだけ、とベッドによじのぼったら、そのまま眠気に溶けて行く。
妙なにおいがする。
はっと私は目を覚ました。何かが焦げるような…火事!
急いで立とうとすると、布団が足に絡まる。
もどかしく投げ捨て、慌てて台所に向かうと、人がいた。
「なにしてんのよ……」
元凶は満面の笑みでこちらを振り向く。
「ケイタオリジナルのコロッケでございまーす!」
火が出なくて良かった。そう私は自分に言い聞かせた。お皿に転がった黒い丸いものを見ないようにしながら。
「本気だとは思わなかったわ」
「僕が嘘ついたことがあった?」
手際よく冷凍ご飯をチンしながら、ケイが笑う。
「たしかに無いかも」
時計を見ると、 もう7時だった。
つけっぱなしのテレビでは、アナウンサーがニュースを読んでいる。
「ちょうどいいから、夜ご飯にしよ?熱いうちに食べたいし!ナイスタイミングお目覚めだよ、こんちゃん!」
◆
お皿に並んだ黒い塊。
私のためというのは非常にありがたいのだが。
「いただきまーす!」
「いただきます」
どうにも食欲がわかない。そんな私には目もくれず、ケイはためらいなくコロッケを口へと放り込んだ。
「これさ、さすがにちょっと焦げすぎちゃったかなああちちちち!うわあ!!まっず!!!これは不味い!!」
私は思わず吹き出した。
「ちょっと気がつかなかったの完全に焦げてること?私火事かと思って起きたんだよ、あはは!おっかしい」
笑い転げる私にケイは不満げに口をとがらせる。
「仕方ないじゃん料理とかしないし。というかそんなんなら言ってよう、僕ちょっと成功したかと思ってた」
「そりゃ最高だわ、あはは」
涙をぬぐいながら、私も箸をつけてみることにした。
◆
「いただきます」
端をそっと断ち切り、断面を確認する。
見事に真っ黒だ。
芋の面影はわずかに残る程度。
ここまで焦がすのはちょっと天才かもしれない。
「あのさー、こんちゃん、これ恐ろしく不味かったよ?たぶん体に悪いやつだから、大丈夫だって。ごめんよ」
ケイは珍しく少し小さくなっている。
「ううん、いいの。せっかく作ってくれたものだし、一口位は食べさせて?」
そんなことを言ったはいいが、つまんで口へと運ぶと、焦げのかおりが襲ってくる。
口に入れるとなぜか涙が溢れてきた。大粒の涙が頬をつたってゆく。
「こ、こんちゃん、ほんとごめんって……そんなつもりじゃあ……」
ケイはうろたえている。そういう意味の涙じゃない。
「ありがとう、ケイちゃん……」
とめどなくこぼれる涙。口に広がるひどい味。
普段は料理などからきししない人が私を思って作ってくれたコロッケ。
ケイタは呆然と私を見つめている。
大切なものは味ではなかった。
コンビニエンスストアのコロッケが100倍美味しく感じられるような、こんな焦げきったものでも、涙がこぼれてくるように。
つまった思いを、私は食べたかったらしい。
月曜日から、また頑張れる気がした。