紙の上 塀の向こう 私の中
「百子のお友達の沙綾ちゃんだね。今日からよろしく」
百子に紹介してもらった新聞の配達所は一見普通の洋風住宅っぽかったが、中はテレビなどで見る正に事務所といった感じで、車庫には原付が並んでいた。
この倉田さんという人が事業主さんで、白髪交じりの優しそうな中年の男性だった。
よろしく、と言われた時、彼からタバコと本屋の中のような紙とインクの匂いがしたのをよく覚えている。
私と百子は、今お休みをもらっている大学生が朝配達していた地区を二手に分かれて配ることになった。
もちろん原付など乗れるはずもないから、自分達の自転車で配達する。
「集金業務もその大学生の子がやってくれてたんだけどね、さすがにそれは君たちには無理だから僕がやるけど、いつ休むかなぁ」
これは実際に働いてみて気が付いたことなのだが、倉田さんの完全な一日休みは数か月に一度あるかないかの新聞の休刊日の日だけだった。
彼にとっての休みとは新聞配達に関わる仕事と仕事の間のコマ切れの時間のことで、建物の裏には栄養ドリンクの空きビンがゴミ袋いっぱいに入っていた。
家族を守る為に必至で働くその姿を見て、こんな父が欲しかったと羨むと同時に何だか泣きそうになった。
頑張った分だけちゃんと報われる、完全な自業自得な世界になればいいのにって。
その日は自分の自転車を押しながら百子と談笑して、お互いが配達する地区を回った。
百子の担当は大きな道路沿いの地区で民家より会社や何かの施設が多く、対して私は静かな住宅街の担当になった。
倉田さんから渡された地図には一軒一軒その住宅に住んでいる人の名前が記載されていて、新聞を購読しているお宅に印がついている。
私の区域を下見していると、他の家2、3軒分はありそうな大きな住宅が目に入った
「わ、大きな家」
そこの家はウチの新聞は購読していなかったが、隙間も汚れもない真っ白な塀に囲まれたその邸宅は民家というよりお城か宮殿のようだった。
「あ、噂通りだ」
百子が地図を見ながら呟く。
「ここ、あの3組の高塚の家だ」
高塚希。私を間接的に突き落した人工二重まぶた娘の家が、ここか。
「すんごいお金持ちなんだね」
高塚の家が裕福だったことに、意外にも羨む気持ちはなかった。
むしろ、ここまで傍目には満ち足りていそうなのに他人に危害を加える行動をとることに、何とも言えない気持ちとなった。
やっぱり、他人には本当のことは見えなくて。この2m近くありそうな塀の向こうは彼女しか知りえない世界があるのだろうか。
「…………」
「どうした、アイ?」
「いや、こんなにお金持ちならさっさと整形すればいいのにって思っただけ」
「あ、やっぱりアイも変だと思うよね、あの目は」
「目が大きければかわいいってもんじゃないのにね」
「あ、目と言えば、アイ」
しまった、私も目にコンプレックスがあるようなものだから、この話題は避けるべきだった。
よく赤くなっていた目のことを聞かれると思いきや、意外なことを言われる。
「アイの目って今二重になりかけみたいな感じじゃん。はっきりと線が入るんじゃなくて、少し影が入ったようになるの。何かそれすっごいアイに似合ってる」
「そ、そうかな……?」
自分の目が二重になりかかってるのは気が付いていた。でもその具合を褒められるとは思わなかった。
「やっぱパーツとパーツの似合う組み合わせってあるよね」
百子は化粧好きだった。でもそれはモテたいとか目立ちたいとかではなく純粋な美の追求だった。
美容魂に火がついた百子の話を聞きながら広大な高塚家の敷地横を通り抜け、その後に続く配達順路を確認していく。
「倉田のおっちゃん、家と名前を一致させろっていうけど、最短経路覚えるのに精いっぱいだっつーに」
高塚家から歩くこと十数分、百子の美容話も途切れたころだった。
浅木 晴久
地図の上にそう記された名前から私は目が離せなくなる。
浅木って、やっぱりあの浅木の家なのだろうか。
この「浅木 晴久」さん宅は新聞を配達する家ではなかったし、配達ルートから外れなければそこにはいけない。
「ん?どした?」
「ううん、何でもない」
急に黙り込んでしまった私を百子が心配そうに覗き込む。
高塚宅がすぐそこにあったくらいだ。この辺りもウチの校区だし浅木という名前はこの辺りでメジャーな名前ではない。やっぱりあの浅木の家なのだろうか。
高塚邸が地図の上でも大きく記されているのに対し、浅木邸は他の住宅と同じくらいの大きさだった。地図上でわかるのは位置と大きさだけでどんな家かまでは分からない。
おいおい、ストーカーか私は。
「よし、あともう少しで最後だ」
私は自転車にまたがりこぎ始める。
「え、乗りながら確認して大丈夫ー?」
百子も慌ててペダルに足をかける。
「うん、大丈夫だよ」
そう、大丈夫だから。
浅木がいなくても、私はちゃんと生きている。
悲しいけど、浅木がいなくても生きていけるのだから。