何になりたい?
球技大会の夜、何の前触れもなしにお母さんが私の部屋に入ってきた。嫌なことというのは何故か立て続けに起こる。
「沙綾、模擬テストとかいうの返ってきてるんじゃないの」
2年に進級したばかりの頃、学校の教師ではなく外部の教材会社が作るテストを受けさせられた。
その結果が球技大会の日に私の点数と平均点を並べたグラフやらアドバイスなんかが印字された紙として帰って来た。
「うん」
点数は別にいつもの私通り、中の下くらいだった。
それまで別に母が勉強のことでとやかく言ったことはなかったと思う。が、この日は違った。
「何この点数。全体的に平均より低いじゃない」
「…………」
それは事実だから返す言葉がない。ただ心外なのは今まで勉強や学校のことなどほぼ無関心だったくせに、今さらそんなことを言って何というのか。
もっと言えば、こんな家庭環境で勉強ができると思ってるのか。
「お母さんね、沙綾のことを思ってお父さんと離婚しないでいるのよ」
「もっと頑張ってくれないと」
頑張るって、何を?
毎日「普通」のフリするのに精いっぱいなのに、これ以上何を?
頑張ったって私の呪いは解けないんでしょ?
「ごめんなさい」
私は今でもそうかもしれないけど、すぐに謝るしすぐに折れる。揉めるのが嫌で、私が謝って解決するならそれはほぼ無償で危機を回避できるということだ。
「ねぇ、お母さん沙綾しか支えというか張り合いがないのよ、もっと頑張って、ね」
そう言い残すとお母さんは部屋から出て行った。
お母さんの支えは私?
じゃあ、その私は何を支えにすればいいんだろう。
浅木?でもそれは彼が許してくれない。
そのことは今日思い知らされた。
ほら、ね。私が助けを求めたって誰も助けてくれないの。
私の叫びが誰の心も動かすことができないのなら、何で私は生きているのだろう。
今ここで私が窓から飛び降りたら、母さんは私の心境を分かってくれるのだろうか。
「そっか……」
私が死にたいって思うのは、誰かに分かってほしいから。
私が死ねば、きっと誰も疑いなく私の悲しみを分かってくれる。
死はこれ以上ない最高の悲しみの表現。だから私は死にたいのか。
あの踏切での自殺を思い出した。あの男性はなぜ、死にたかったのだろうか。
私は一人ぼっちだから。誰も本当の私を分かってくれる人がいないから。
本当の私は、誰も受け入れてくれないから。
だから私は死にたいの。そしたらみんな本当の私を分かってくれるから。
その次の日、廊下で浅木と斐川とすれ違った。
一週間同じ係をした程度では何も変わらず、また不安に苛まれる日々が始まるのか。
そう溜息をつきかけた時、偶然浅木が例の模試で平均より上の点を取ったという二人の会話を耳にする。
そうだよね、こんな何のとりえもない私、浅木にも誰にも好かれる訳がない。
彼に関することだけは、何もせず無力のまま終わるのが耐えられなかった。
あの幸福な時間の後の空しさが、私の中の何かを切り替えた。
せめて、少しでも彼に見てもらえるように。
近づけなくても、彼の中に私の存在が残るように。
私は学校でも家でも集中して勉強するようになり、鏡を見る時間も多くなる。
家ではあいかわらず父が飲んだくれて、母の愚痴を受け止める毎日だったけど、泣かないように耐えた。
泣いたらダメだ、私はもうウサギじゃない。ライターでもダメ。彼に見てもらえる人にならなきゃ。
それから一か月が経ち、私に訪れる変化は胸まであった髪がまた長くなるのと、制服が夏服に変わるくらいだと思ってた。
真夏を前に、変化は起こった。
「今回の英語の期末試験の平均は63点。そんな難しかったですか?このクラス1番は、会沢さんの94点です!」
クラスメイトに会沢沙綾が勉強ができるというイメージはなかった。だから教室は一瞬ざわめいたが、すぐにその結果を受け入れてくれた。
「沙綾やるじゃん、そんな勉強してたっけ?」
「会沢ちゃんすごい、他の教科もいい感じじゃん!」
幸せに向かう、変化。
その時の私は変化を求めていた。今は逆だ。変わることを何よりも恐れている。
何だかんだで私は信じていた。呪いは解けなくとも、生きていればきっといいことがあると。
死にたいと思い悩む夜があっても、最終的にはどうにか生きようともがいていた。
何故か私は完全な自暴自棄にはなれなかった。その理由は、私はこの時実は幸せだったんだと思う。
「今が一番幸せ」
これは浅木があの日言った言葉。彼自身は全くそうは思ってなかったくせに、ね。
好転は好転を呼び、死にたいと思ってた思考回路はナリを潜め、そこからどう這い上がるかを考えるようになった。
家にお金がなくて家庭環境が悪いなんて、きっと掃いて捨てる程ある話だ。
答えは簡単。お金があればいいんだ。
お金が必要だった。家を救うためにも、私自身がもっと変わるためにも。
夏休みに何か、できないだろうか。そう思っていた矢先のことだった。
「アイ、夏休みに新聞配達、やらない?」
一学期の終業式の日、夏休みの宿題と休みの日なんかが書かれたお知らせプリントを眺めていると、不意に百子がそう言った。
「ウチの親戚がやってる配達の営業所の大学生バイトのお兄さんがね、夏休み留学するんだって。だからその間の短い間だけやってくれる人が欲しいんだって。私一人じゃ不安だからさ、アイもどう?もちろん内緒だよ、バイト代はちゃんと出すし」
「やる」
即答だった。このタイミングの良さは正直怖くなる程だった。
私はいつも窮地に陥る寸前で助かっている気がする。どうせなら窮地などなく平坦に生きたいものだけど、これが運がいいということなのか。
その夜、百子と一緒に夏休み新聞配達をすることをお母さんに伝えた。
お母さんは了承してくれた。私の成績がかなり良くなってきたこともあり、その頃お母さんの機嫌は良い日が多かった。
「アンタ、最近キレイになったわね」
小銭が家計に入るということもあってか、そんなお世辞を言われた。
「またまた、そんなこと言っちゃって」
私が親の前で笑顔を見せたのは、いつ以来だろう。
「いいやホントよ、好きな人でもできた?」
「ううん、いないってば……」
いる、なんて言おうものなら根ほり葉ほり聞かれるだろうから誤魔化した。
好きな人ができるって、その人のためなら何でもできるような気になるし、何でもしてあげたくなる。
それとちょっと、怖いくらいに胸の内で期待が溢れてくるんだ。
あの時以上の進展が望めないのならせめて、ライターは卒業しよう。
じゃあ何になろうか。私が浅木にとって邪魔な存在なのはきっと高塚のせいだ。
高塚が及びもしない素敵な人……、ピンとこないな。
その日は私は何になれば浅木に見てもらえるのか、考えながら眠りについた。
あの頃から何年も経った今、私は一体何になれたのだろうか。
アイという名前を無くし、あの場所から遠く離れたこの地で私は何になるのだろう。
何にもなれていない。だからこうして変化を恐れてアイだった頃の自分を思い出して慰めている。
今更なりたいモノもない、ただ──。
君に、もう一度会いたい。