呪いの証
「や、ホントに災難だったね」
同情半分、笑い半分な表情で百子は私が高塚達に絡まれたせいで体育に遅刻した話を聞いてくれた。
高塚達が私の目を化粧と勘違いした事は大いに百子にウケたから、もうその事には腹も立っていないのだが、浅木にふと言われたあの一言を自分の中でどう処理をして良いのか、笑う百子を見ながらあの言葉をずっと脳内で繰り返していた。
「ホントだ…ウサギみたい」
小さな声だったから、独り言だったのかもしれない。
もしあの時浅木と目があってなかったら、聞き漏らしてたかもしれない。
浅木、宗一。
間近で目を合わせて声を聞いてみた印象は、空気みたい、だった。透明というか何というか、斐川が他人を意識して自分を彩るあのインナーのような赤色なら、浅木は無色。
確かに、色素が薄くて顔にこれといった欠点がない部類の割とキレイな顔なのだが、その外見のせいなのだろうか。男性が近くにいる、という感じではなかった。だからと言って百子ととか女子が側にいるという感覚でもなかったし、私の思い違いかもしれないけれど、一種独特の雰囲気だった。
今は昼休み。近くでも遠くでも人の声で溢れているから、この喧騒に私の興味を混じらせても誰も何も気づかないだろう。
「斐川とかって、何でああなんだろうね」
浅木のことをピンポイントに聞くのも変だから、全く興味はないが斐川のことから彼の事を手繰り寄せる。
「ヤのつくモンキーだからじゃね?」
「一言で済ますなら、そうだけど」
「構ってちゃんなんだよ、特に女子にさぁ……」
そして、ウサギの件がバレないだろうかと何故かドキドキしながら話の的を絞る。
「浅木って、何で斐川と一緒にいるのかな…ホラ、何か違うじゃん。」
「……」
百子が急に黙ったせいで、心臓が一層私の体の中で存在感を強める。
もしかして、何か深い事情があるのだろうか。
「分かんないや、結構つきあい長いらしいよ」
良かった、そういえば百子は急に黙って思案にふけることがある。
その沈黙は予期せぬ間にふっと現れるものだから、何か言ってはいけないことを言ったのではとヒヤリとすることがあった。
「あの二人、共通点ないよね」
「んーあの2人顔は結構イイ顔してるよね。浅木はどことなく女顔で嫌いな系統だけど」
「えーそうかなぁ」
そう言いつつも私は心の中では頷いていた。確かに斐川は攻撃的な服装をちゃんと着こなせる風貌だし、浅木は百子の言う通り中性的だった。
思えば、浅木も斐川もなまじ外見は良い部類だったからこそ招いた不幸があった。良いから、良い。なんて現実はそうもいかないのだ。良くても悪くなることがある。そして初めから悪いものは悪いままで繰り返される。
「そーいえばアイも最近可愛くなったと思うよ」
もしも、本当に私が可愛くなったのならば、神様とか物事の仕組みというのは本当に非道だ。そんなもの、一番いらないのに。
いらないものばかりが増えて、身動きがつかなくなる。
私はどうすればいいのか、常に答えを探していた。どうすれば、この負の呪いが解けるのかと。
「はいもしもし」
「あーもしもし、浅木さんのお宅?」
「はい…」
「今日入金するって聞いてたけどどうなってんの!?何か月遅れてると思ってんだよ!!」
「その…分かりません」
「はぁ?」
呪いを解く方法が見つからなくて、いつもその場その場で色んなことを騙して、嘘をついてた。
「私…この家の親戚で…」
「…ったく、またかけますわ」
我ながら一瞬で嘘が思いつくのが上手いと思う。声の具合といい、小学校低学年くらいの何も分からない子そのものだった。
いつもならこんなお金の電話がかかってきた日は夜を待たずに涙が溢れていた。けど、その日は違った。浅木と出会ったその日、そんな電話がかかったのに、嘘をつく罪悪感も涙も、何も湧き上がってこなかった。すごく、穏やかな心持ちだった。
「ウサギみたい」
その一言は、この貧しさという忌まわしい呪いを解くものではなく、受け入れる魔法だった。
「そんなこと、どうってことないよ」
そう穏やかに微笑んで言われたみたいで、つらい現実を、醜い私を、何てことのないように思わせてくれた。
「そっか、私……ウサギなんだ」
単純な私は自分の部屋の中でそう呟いた。
その当時は私たち一家は少し古い一軒家に住んでいた。元々新築ではなく中古の住宅だったのだが、私は幼稚園の頃から中学のある時まで多くの時間をその家で過ごした。その私たちの生活を抱いてくれた家は今はもう、空っぽなのだけど。
胸が、痛い。
悲しいからじゃなくて、真夏の日の海に飛び込む直前のような、ジェットコースターが急降下する直前のような、楽しいことを目前に控えた時のあの痛いくらい期待に満ちた感覚。
何かが起きたわけでもない、起こるわけでもないのに、私の胸は何か見つけたように、疼いて居てもたってもいられず自室を落ち着きもなく歩いた。
何でこんなに嬉しいんだろう。
「バッカみたい…」
あんな一言で救われる程私の悩みは軽いものだったのか。それとも、あの一言が軽くしてくれたのか。
そんなのどっちだっていい。その日から数日はお母さんも父も機嫌が良かった気がする。それが私をまた一層舞い上がらせた。
その魔法の言葉を打ち消す出来事が起こったのは、それから何日か経った日のことだった。
学校では今まで通りの体で過ごしていたが、気持ちは絶えず浅木の方を向いていた。クラスが違うから、彼を目にするのは休み時間の時くらいなもので、大抵浅木は斐川と一緒だった。高塚や戸田がいることもあった。
どれだけ胸の内が明るくなっても、基本内気な私は気づかれない程度に彼を目で追うのが精いっぱいで、何ら進展がないことにイライラする時もあった。
欲張りなもので、あの一言で悲しみから解放されただけで良かったはずなのに、いつの間にか違う言葉を求めている。
──彼に見てもらうには、どうしたらいいんだろう。
内心あれだけバカにしていた色ボケ組になってしまった。彼に見てもらうにはどうしたらいいか無意識のうちに考え始めていた。自分から声をかけるのは、できなかった。内気とかそういうのもあったけど、そうじゃない、私から行ってはダメなんだ。
彼が私を見てくれる、彼の方が私を求めてくれる、そんな図式が私の理想だった。求めてほしかった。
こんな泣きはらした目の惨めな、特にとりえもない女子を、他人に、浅木に受け入れてほしかった。
その頃を境に私の成績は中の下から最終的に上の下くらいまで急上昇することになる。少しでも浅木に見てほしいという一心が私の様々な事に磨きをかけたからで。そしてまた皮肉なことに中途半端に色々とできるようになったことが後々悲劇の一旦を担ってしまう。
どうしたら浅木に近づけるか考えながら下校している時だった。その日は初めて出会った日から1週間くらいだっただろうか。
今日も浅木に会えなかった。そう思いながら足元から前へ長く伸びる自分の影を眺めながら家路に向かう。
私が当時住んでいた関東のとある地区はどちらかというと治安が悪く、近場で刃傷沙汰が起こる事も珍しくはなかったので、学生は放課後部活か用のないものは速やかに帰宅するよう言い聞かせられていた。
部活に入っていなかった私は夜遅く帰ることもなかったから、不審者や事件とはほぼ無縁だった。
けど、私は家に帰るというごく「普通」のことに毎日覚悟のようなものが必要だった。父の機嫌は悪くないか、お母さんと喧嘩してないか──。私がいない間に、何か大変な起こっているのではないか、そんな不安に急かされるようにして毎日帰宅していた。
仮に、何かあっても私がいたところで何も出来やしないのだけれど、家で何か大変なことが起こっているのに私はそれを知らない。
そんなことに酷く罪悪感を感じ、恐れてもいた。
その日浅木に会えなかった不満が、家が近づくにつれウチで何か悪いことが起こってはいないかという不安に入れ替わりつつある時だった。
私の数メートル先の遮断機が警告音を鳴らし始めた。線路への侵入を防ぐ黄色と黒の縞模様の棒はまだ下りていない。今のうちに走って横断すれば足止めを食らうことはないだろうが、「万が一」が頭を過ぎって足を止めた。
…何だよ、死んでしまいたいっていつも思ってるくせに、目の前にその可能性が現れただけで怖くなってる。
警告音の単調な音が鳴り続け、細長い棒が下りてしばらく経ったその時だった。
「え?」
誰かが私の横を勢いよく通り抜け、行く手を阻む棒の下をかいくぐった。
皆が立ち止まっている中で、異様な速さで線路に侵入したそれが一瞬何なのか理解できなかった。
電車が通り過ぎるのを待てないせっかちな人が、走って線路を通り抜けるのかと思いきや、そうではなかった。
立ち止まっている。棒をかいくぐった時の勢いは嘘のように、ただ力なくレールとレールの間に立ち尽くしている。中年の男性だった。
その男性が何をしようとしているのか、その場にいた誰しもが気づき騒然とする。ただ規則的に鳴るばかりの警告音に若い女性の悲鳴が混じった。
警告音が鳴り始めてからだいぶ経ってしまっている。どこかにこういう時押すスイッチがあったはず。でも、もう電車が、来る……!!。
「……違う!!」
そう胸の中で強く思うと同時に、思いが叫びにもなってしまった。
危ない!とか止めて!とか言葉にならない悲鳴でもなく、私の中に真っ先に浮かんだ言葉は「違う」だった。
違ったのはこの男性の飛び込み自殺という行為だったのか、それとも彼の人生の一点、一転だったのか、ひいては人生全てだったのか。
電車の緊急ブレーキの音は、車輪とレールの摩擦音というより両方を捻りつぶすかのような音で、振動が2m近く離れたこの肌にもはっきりと届いた。
音ばかりが盛大で、肝心な役割をブレーキは果たしきれなかった。
男性の体が電車の前面と激突して、大きく宙に跳ね飛ばされる。
宙に浮いたその姿は、何か空に向かって投げられるために存在するモノ、かのように見えた。
少なくとも私にはその姿が陸地で生きる者の姿には見えなかった。
そしてその身体は私が立っている側とは反対側の道、線路を隔てた先の私がこれから歩いて帰るはずだった道の上に投げ出された。
物理的には電車の進行方向に身体は行くはずだが、なぜかそうはならなかった。もしかしたら衝突の直前、避けようとしたからなのかもしれない。
受け身もとらず、ただ固いアスファルトに迎えられたその身体は血も大きな変化もなく、見た目は今にも起き上がりそうだった。
けどやはり私には、白いポロシャツにクリーム色のズボンを着けたその身体は、洪水の時堤防に使われる砂の詰まった土嚢袋のように見えた。
そのくらい生命の気配が、見当たらない。
「……嫌」
胸が、すくむ。その時の感覚にはこんな表現がぴったりだった。
その男性は最初こそ無傷に見えたが、次第に身体の影に重なるように真っ赤な命の汁が埋め始め、アスファルトを赤く浸食していく。
私は何か言葉が浮かぶも一瞬で消えて、何も考えられない。心臓が強く拍動し、血潮が沸騰しているかのようにざわめく。
男性が跳ねられた時から静まり返っていた周囲も、その血に事の重大さを思い知らされ再び辺りが騒然とする。
帰宅途中のサラリーマンや買い物帰りの主婦といった面々が救急車を呼んだり、思い出したかのように再び悲鳴が聞こえる中、私は呆然と立ち尽くしていた。
さっきまで生きていた人間が、たった数秒後にはもう、そうではない。
「いや…」
怖い。私もいつかああなるのか。
救急車を呼んだ人も、血まみれの姿の写メを撮る人も、誰もその身体に近寄らない。
皆分かっているのだ。もう、本当はそこにあるべきはずのものは、もうないことを。
「嫌だ……」
私は、私はこんな風に誰にも触られず、惨めに、一人で死にたくない。
でも、逃げたい、救われたい。この現実から。
「死にたくない、の?」
私はぎゅっと握った両手を胸に当て、強く押さえた。
怖い。けど、これが、方法なんじゃないのか。
私の苦しみが、終わる方法。
私の不安になると胸のあたりを押さえる癖はこの時についてしまったんだと思う。
なぜか私は無意識に両手で心臓マッサージをする時のような手の形で、心臓の辺りを押さえた。
さっきまでの血潮の熱が引き、体の内で冷や汗をかいているようなひんやりとしたものが胸の内に流れていて、早くこの場から離れたいのに動けない。
5分くらいして救急車かパトカーか、サイレンの音が遠くから聞こえ始めた頃、ようやく私は両手で胸を押さえたまま歩き始めた。
もちろん男性の遺体の脇を通れるはずもなく、元来た道を引替えし、大きく迂回する道を行く。
家のドアに手を伸ばすまで、私は胸の上から両手を離せないでいた。
遠回りしたとはいえ、かなり帰宅まで時間がかかったように思う。
いつもなら家のドアハンドルを下ろす重みのある金属音と共に私は覚悟して、祈るような気持ちで家に入る。
何があっても耐えるよ、けど今日は何も嫌なことがありませんように、皆幸せでありますようにって。
その日ばかりは逆で、ドアハンドルの音と共に玄関に入った時、やっと手を胸の上から退かせることができた。
「ただいま…」
そう呟いた時、ようやくあの出来事は「他人事」として切り離すことができた。衝撃的な事だったが、私とは関係ない。
私の頭から離れなかったのは死体でも血でもなく、事故直後の周囲だった。
突然の死の事に皆は動揺するが、誰も心の底からそれに触れようとはしない。
それは当然、あの男性が他人だったからだ。じゃあもし、身近な人がああやって死んでいったら?
あの死の光景がいつか自分の行く先になるんじゃないかって、家につくまではずっとおびえていた。
あれは私の数日後か、数か月後の姿じゃないのか、ぼんやりしていた死のイメージがはっきりとしてしまって、自分自身と結びついたのが怖かった。
あの頃、私は死にたいほど悩んで、苦しんでいた。この程度は苦しみではないと否定する人も多分いるだろう。それはその人の目から見たら、で。
苦しみの重さと形は、その当人だけが本当の姿でのしかかってくる。
そして玄関から居間に上がると、お母さんも父もいたが様子がおかしかった。もう私が生まれた時から見知ってるのだから、異変は空気でわかる。
「あぁ、お帰り」
お母さんがだらしそうにそう言う。父は何も言わない。機嫌が悪い証拠だ。
残念ながら祈りは届かず、覚悟の方を神様は選ばせるらしい。
私は家の空気が不穏になると2階の自室に逃げるか、食事中等で居間から離れられない時は何も言わず、物のようにじっとしてる。
本当にモノのように気持ちがなくなればいいのに、と思いながら。
プシュッと缶のプルタブが開く音がした。
「まだ飲むの?いい加減にしなさいよ」
「じゃかあしんじゃ、ボケ」
ここ1年で明らかに父はアルコールの摂取量が増えた。
「そんなの買うお金があったら少しは家に入れてくれればいいのに」
母・みゆき
父・和常
割と普通の恋愛結婚だったんだと思う。結婚してしばらくして私を授かって、幸せな家庭だったんだと思う。
父は自動車の整備士だったが、会社の人員整理をきっかけに自営業で整備業を始める。ここまではよくある話。
でも、不景気で全然仕事がなくなって、落ちぶれてしまった。これもよくある話か。
父が真人間ならさっさと他のお金が稼げる手段に変えてたんだろうけど、残念ながら追いつめられて出るのが本性と言う。
仕事はたまにこそあるが、基本家で飲んだくれるダメな大人、夫、父がここにいる。
私の呪いは、このダメな男の血を引いているということ。それが解けない呪い。
「旦那に向かってその口のきき方は何だテメェ!!」
父がまだ中身のたっぷり入ったビール缶を投げた。母に向かって投げたのだが、当たったのは狙った的ではなく母の手前に置いてあった薄めのガラスコップだった。
これが空き缶なら何ということはなかったのだろうが、まだ中身が入った缶はコップの半分を砕き、
「ひゃっ!?」
最悪なことに破片が私の瞼をかすめた。母の横でモノのように動かないでいたのが災いした。
瞼の上をちょっと切っただけで、自分では瞳本体には影響がないことを傷みの感覚で分かったが、本当に痛いのはそこじゃない。
心が、どんどん荒んでいく。
私が瞬時に目を押さえたため、2人は目にガラスが入ったものと勘違いしたらしい。片目で見えた2人の顔色が青くなっていた。
「ちょっと!!なんてことすんのよ!!」
「そこでボサっとしてる沙綾が悪いんだろ!!」
そう叫んだのち、父は家を出ていった。酒の続きが自宅でなく飲み屋に変わっただけのことだ。
「信じられない…あれが娘にケガさせた父親の態度なんて…」
私のケガが大したものではないと確認したのち、母がそう呟いた。
私はとうにあの人のことを父親とは思っていないから別にその辺はどうでもいい。
問題は家主として家族を扶養することを放棄してる、それだけだ。
時間でこそ5分くらいの出来事だったが、この話が当時の私の家庭環境を端的に語ってると思う。
こんな話は思い出したくないし思い出したらキリがないのだけれど、浅木との話を彩るために必要だからこのことだけ思い出しておく。
確かに私は父を父とは思ってなかったが、祈るのは私一人の幸せではなく家族全員で一つの幸せ、だった。
そして父などいないと思っても、大きくて優しい存在に守ってほしいという父性を求める気持ちだけは消えず、その辺も相まって浅木にすがっていったのだと思う。
確かにこんな家庭でも昔は幸せだったと思う。
思う、んだ。
今となっては、幸せだったと断言が、できない。
傷口は浅く長さも2mm程度だったが、血は思いの他流れて目が開けられなかった。
消毒液を浸したティッシュで押さえている内に血が固まるのと同時に、私の心も一つの思いを形成した。
こんな呪いを被った私が生きていて、何になるんだろう。
この呪いから逃れるには、いや、この呪いが向かわせる先があの踏切の光景なのではないだろうか。
あの時私がレールの真ん中に立っていたならば、アスファルトに流れていったのは、呪いの証。