しにがみのくちづけ
搾りたてのミルクのような甘ったるい香りを放っていた幼き少女たちが、同じ甘ったるいでも男の人を誘うような芳しい花のつぼみのような香りを放つようになると、それはお嫁入りの合図なのであった。
嫁入りと言えば、女の子たちにとっては人生最大級の幸せであるものだ。愛し愛された男の人と慎ましやか乍ら幸せな家庭を築くのは、どの少女たちにとっても憧れなのである。
しかし現実には、好いた相手と一緒になれるのはほんの一握りの幸せな子だけで、大抵の少女たちは親の決めた相手に貰われて行くのだ。私はそれを快くは思わずとも、疑問には思わない。だってそれが普通なのだから。
だから、私の家に私を貰いたいという男の人がやって来たときも、やはり驚きはすれど嫌だとは思わなかったのだ。
私をお嫁に貰いたいと言ったのは、死神であった。正確には死神とは違うのかも知れないけれど、所謂死を司る仕事をしているらしい。私は馬鹿なのでよく解らない。
死神は曇りの日の夜に私の家にやってきて、私に求婚したのだ。椿が欲しい、と。
両親はその言葉を、私の命を欲しいという意味だと思い込み、一度は彼を追い返した。私は昔から身体が弱くて、病気を繰り返して生死をさ迷っていたから余計に警戒したのかも知れない。
しかし、そういう意味で彼が私を求めていると気付いた両親はただただ驚愕したようだった。大袈裟に言えば、命を取りに来たと思ったときよりも、驚いていたようにすら見えた。
「椿は、彼のことをどう思う?」
父にそう問われたときに脳裏に浮かんだのは、白いウェディングドレスだった。これが示す未来が吉なのか凶なのかは解らないけれど、どうせ知らない人のところに嫁ぐ運命なのであれば、どの男の人だって変わらない。
「素敵な人だと思うわ」
出任せの返事だった。
彼の良し悪しを評価出来るだけの何かを持っていたのなら良かったのだけど、私は彼のことを何も知らないのだ。唯一、彼の姿形で知っているのは、茶色いスーツを着ている後ろ姿だけだ。初めて私の家に来たときのあの背中だけ。
それだけを見て何かを決めることは極めて難しい。だから、私は意識もなく思い付いただけの言葉を適当に舌に乗せたのだった。
「そうか。じゃあ、……彼に嫁いでお呉れ」
「喜んで」
そう言うことで、私は死神のお嫁さんになった。
私は想像の中で見た白いウェディングドレスを身に纏い、隣のおばさんが手塩にかけて育てた真っ赤な薔薇の花を頭に乗せて、見たこともない死神の家に向かう。
死神の家は、堅州というところにあるらしい。堅州は黄泉比良坂から鬼門の方向に千里、とかなんとか言っていたけれど、私にはよく解らなかった。
煌びやかに着飾った私は、迎えに来ると約束した死神を裏庭で待つ。
死神を警戒して隣に立っていた父が、隣のおじさんに呼ばれて席を外したとき、死神は私を迎えに来た。
「とても綺麗だね、椿」
ふと顔を上げると、三十路前後くらいの男の人が微笑みを浮かべて私を見ていた。
焦げ茶色の三つ揃いを着こなし、頭には山高帽を被っている。右手にはステッキを持ち、反対の手はいつの間にやら私の腰に回っている。
「貴方が、死神?」
男の人はにこっと笑い、小さく頷く。
「そう。君の旦那様だよ」
「思っていたのと随分違うわ。死神ってがしゃどくろとは違うのね」
死神はくくくっと喉を鳴らすように笑って、私の手を取った。手を引かれて立ち上がると、死神は私よりも頭二つ分くらい背が高かった。見上げた先で笑っている死神を見ていると、ほっこりと胸が温かくなる。
三十路と言えば私より一回りくらい年上でずっとずっと大人なのに、笑うとえくぼが出て、少しだけ幼く見える。
「笑うなんて、非道い。死神は骸骨みたいで、ぼろを身に付けて鎌を持っているものだって、きっと皆思っている筈だわ」
「それはそれは、夢を壊して仕舞って申し訳ない。椿はがしゃどくろの方が良かったかい?」
私は少しだけ考えて、左右に首を振った。
「今の方がきっと好きだと思うわ」
何気なく言ったことなのだけど、死神は驚いたように目を見開いて、それから私を強く抱きしめた。
死神は、優しい夜露のような甘い香りがする。
「僕はずっと前から好きだったよ」
ずっと前とはいつからなのだろう。その言葉の意味を理解することが出来なかったのだけど、好かれて嫌な気はしなかった。
「ずっと前から、私を見ていたの?」
「そうだよ。君は死に近かったからね」
病気を繰り返していた私を、死神はずっと傍で見ていたのかも知れない。
そう考えると、ぞっとすると同時に脊椎が甘く痺れるような甘美な気持ちになる。私は既にこの死神を好きになっているのかも知れなかった。
「その時に、連れて行ってしまえばよかったのに」
私は夢に浮かされたように呟いた。
すると死神は私の頬を白く細い指先で撫で、私の腰を更に強く引いた。死神はほっそりとしていてとても華奢に見えるけれど、本当はすごく力持ちなのかも知れない。
私も彼の腰に腕を回して、強く強くしがみついた。やっぱり彼の首筋からは薔薇や金木犀のような甘い甘い香りがする。頭がくらくらとしてすごく瞼が重く感じるくらいに。
「椿の花が咲くまで我慢していたのだよ」
「冬まで、待っていたのね」
「そうだよ。花が枯れて仕舞う前に、君の花が枯れて仕舞う前に。それでも、枯れる前のいっとう綺麗に咲き誇るときを、待っていたのだよ」
花は枯れる一歩手前がいっとう美しい。
椿の花は枯れる前に散るのだ。枯れる姿を見せまいと、自ずから首を手折るのだ。自身がいっとう美しいときに、ぽろりと落ちてく。
それと同じように、死神は私が死ぬ前に、それでもいっとう美しく成ったときを待って迎えに来たのかも知れない。
もしかしたら、私が生死の境をさ迷っていたときも、連れて行くのを見逃してくれたことも何度かあったのかも知れない。そう考えると、私はこの人のお嫁さんになるべくして生きていたのだなあとしみじみ思う。
不思議と、不愉快ではなかった。
「私を、連れて行って」
死神は私に顔を近づける。
「勿論」
私はゆっくりと瞳を閉じる。
すごく近いところで、彼の甘ったるい香りがした。私の甘ったるい花の香りと、彼の香りが合わさってく。そこから生まれたのは恋の香りなのか死の香りなのか。
「愛しています」
唇が合わさったとき、私は何故か涙が溢れてとまらなかった。
それでも彼に惹かれて仕舞うのは、彼が魅力的だからなのか、それとも芳しく香る死の匂いに誘われているからのか、解らない。
「私も、貴方を」
唇に触れた彼のそれは、甘く切なく、私の花を咲かせるだろう。雪の日の日差しのように。