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絶望

暴力的な描写が含まれます。

ご理解のもと、注意してご覧ください。

「あっ、なんだ。やっぱり居たじゃん、愛沢くん」

「…………」


 この瞬間、俺は間違いなく蛇に睨まれた蛙だった。

 全身を駆け巡る感情は、恐怖。

 筋肉が、骨が、神経一つ一つが。まるで針金になったかのように動かない。


「居留守なんて傷つくなぁ。ねぇ、どうして?」


 その間にも犬養さんは、窓枠を越えて着実に部屋へ侵入してくる。

 そして遂に、彼女の脚が俺の部屋の床に付く。


「いけないんだぁ、愛沢くん」

 

 瞼を大きく見開き、口角だけを吊り上げた笑みを浮かべる犬養さん。

 ……うん。色々言いたいことはあるけど、とりあえず靴は脱いで欲しかった。お部屋が汚れちゃう。

 とはいえ、そんなこと言える空気じゃない。

 だって俺と犬養さんは、あと一、二歩踏み込むだけで互いに触れ合える距離にいるのだから。

 一つの動作にせよ、一つの発言にせよ。たったのワンミスで状況は決してしまう。

 だけど、それなのに。


「──ッ」

「いけないコトしたら、お仕置きしなきゃだね」


 蛇に睨まれた蛙は、未だ動けない。

 彼女が右手を伸ばす。掌が俺の顔に迫る。

 焦りと恐怖で早まる心臓の鼓動。徐々に黒く覆われていく視界。

 まさか初手で詰むのか。何か打開策はないのか。 

 思考する。思考するっ。思考する……!

 だが、


──あ、終わった。


 最後に俺の脳裏を過ったのは、諦めだった。

 彼女の手が、俺の頬に触れる。

 その時。


『さっきから見ていて思うのだけどね。それは流石に非常識じゃないかい?』


 不意に、まるで世間話でもするかのような、あまりに場違いな声が部屋に響いた。

 その声に、犬養さんの動きがピタリと止まる。

 彼女が振り向いた先には、


「……誰ですか?」

『おっと失礼、私は佐久間輪。親しい者からはマーリンの愛称で親しまれる、しがない天才研究者さ』

「……。……?」


 沈黙する犬養さん。その表情は、明らかな困惑が滲んでいた。

 そんな彼女と相対するのは、不審者ガスマスクこと佐久間輪。腕を組みながら人差し指で二の腕を叩き、呆れるように肩を竦めている。

 犬養さんにとっては、間違いなく青天の霹靂。未知との遭遇だ。

 佐久間輪(不審者)を前にした犬養さん(異常者)は、困惑の眼差しのまま俺を見る。


「……ねえ、愛沢くん。あの人ホントに誰?」

「えっと……現時点だと、まだ不審者」

『おい少年、ここにきて他人のフリは悪趣味が過ぎるんじゃないかい!?』

「アンタは存在そのものが悪趣味でしょうが」


 犬養さんに尋ねられた俺は、考えるより先に口を動かしていた。

 途端、大慌てで抗議の声を上げる佐久間輪。

 でも仕方ないだろう。不審者なのは事実なんだから。

 それに、馬鹿正直に『キミを止めるための協力者だよ』、なんて言える筈もない。

 すると犬養さんは、先ほどと打って代わり()もか弱い少女のような仕草で俺に身を寄せてきた。


「ねえ愛沢くん、警察呼んだほうがいいよ。アレ絶対ヤバい人だよ」

『ん? 待ちたまえ少女よ。それは聞き捨てならないね』

「は?」

『キミの所業は、今日だけでそれなりに把握したつもりだ。それに基づいて言わせて貰えば、キミの方が警察のお世話になるべき者のように思えるが?』

「何この不審者、ちょっと何言ってるか分かんないんですけど。ガスマスク取ってから言ってもらえます?」

『あぁんっ?』

「はぁっ?」


 おぉ。凄いな、この異常者ども。

 自分のこと棚上げにしながらブーメランでドッジボールおっ(ぱじ)めたぞ。恥って概念ないんだろうか。

 一体どちらが勝つんだろう。一つ言えるのは、この勝負で勝った方が人として色々負けているということ。

 嗚呼、なんて虚しい時間だ。どちらが勝っても何一つ得るモノなんて無いというのに。

 こんなことで争いの悲惨さを知りたくなかった。

 だけど俺は、この様子を眺めてふと気付く。


──あれ、もしかして今なら犬養さんを抑え込めるんじゃ?


 犬養さんは今、完全に隙だらけだ。

 佐久間輪の介入により、俺に向けられていた威圧感の矛先が変わっている。

 おまけに自分から俺の傍に寄ってくれたうえに、今は口喧嘩に夢中ときた。

 間違いない。これは、紛れもない好機……!


「(佐久間輪! 今チャンス! すごいチャンスだぞ!)」


 俺は、ここぞとばかりに目配せをして佐久間輪にサインを送る。

 だが、


『大体ねぇ、ノックもせずドアノブを回すこと自体がおかしいんだよ! それに出てこないなら居留守と分かっていようと一旦出直すべきじゃないのかい。どうして窓をぶち破って侵入しようなんて考えに至るんだ。私はねぇ、キミのそういうところが非常識だと──』


 あぁ、ダメだ。

 完全にヒートアップしてるよ、あのアホガスマスク。

 俺のことなんか全然見ちゃいない、口喧嘩に必死になってる。どんだけ煽り耐性無いんだ。天才名乗るの()めちまえよ。

 仕方ない。

 本当はタイミングを合わせたかったが、こうなると先に動くしかないだろう。

 俺は、慎重に犬養さんの背後を取る。

 そして、


「悪いね、犬養さん」

「へ……? ちょ、どうしたの愛沢くん!?」


 全身全霊の力を込めて、俺は彼女を羽交い締めにした。

 途端、まるで乙女のような声を漏らして動揺する犬養さん。瞬く間に彼女の頬は赤らみ、身体が硬直する。

 よし、完璧に虚を突けた。

 この瞬間、戦局は一気に俺たちへと傾いた。あとは、このまま最後まで流れを持っていくまで!

 俺は、ここぞとばかりに叫ぶ。


「思い出せ佐久間輪! 俺たちの目的をッ!」

『え、あっ、ゴメン!』


 佐久間輪は、ハッとした様子で我に返ると慌てて懐から注射器を取り出す。

 うん、明らかに忘れていた人の返事だ。俺も学校で提出物を忘れた時に似た反応をした覚えがある。

 が、今はそんなことより治療薬。

 どれだけ抵抗されても解けないよう、俺は拘束に込める力を強め続ける。

 ──だが。

 

「あぁ、そういうことだったんだ」


 ふと、犬養さんが小さく呟いた。

 それは、まるで心胆を寒からしめるような失望の声。

 直後、不思議なことが起こった。


「──はっ?」


 犬養さんを羽交い締めにしていた俺の腕が、いとも容易く弾かれてしまったのだ。

 どうしそうなったのか、理解が追いつかない。

 ただ一つ、体感したことがある。

 それは”力”。圧倒的なまでの膂力(りょりょく)

 思えば、心のどこかで薄っすらと侮っていたのかもしれない。

『脳のリミッターが外れるといっても、少し力が強くなる程度だろう』、と。

 俺は、認識を改める。

 これは人間の力じゃない。

 象とか、ゴリラとか、もっといえば重機とか。とにかくこれは、その領域の力であると。

 だが、気付いたところでもう手遅れだった。

 俺の拘束を難なく解いた犬養さんは、膝を曲げて姿勢を低くしながら腰を捻る。

 そして、


「本当に残念」


 俺の腹に、足底での強烈な回し蹴りを叩き込んだ。

 途端、真横に吹っ飛ぶ俺の身体。

 ほんの一瞬、意識だけが空間に取り残されるような浮遊感があった。

 だけど、それもノーバウンドで壁に叩き付けられたことで錯覚と思い知る。

 人生で感じたことのない衝撃に、俺は蹲ることしか出来なかった。


「がッ……あァ……ッ!」


 痛い、痛い、痛い。

 思考の全てが、痛みで埋め尽くされる。

 まるで内蔵を万力で締め上げられるような感覚だ。少しでも気を抜けば、痛みの余り頭がおかしくなりそうになる。

 いや、むしろ、そうなれたらどれだけ幸せだったことか。 


「私だって、こんなことしたくなかったよ。でも愛沢くんが悪いんだから、しょうがないよね?」


 とても残念そうに首を横に振る犬養さん。俺を見下ろしながら、一歩一歩近づいてくる。

 その奥では、佐久間輪が背中を壁に預け、床に膝を付いたまま脱力していた。どうやら俺が蹴り飛ばされると同時に、彼女も同じく良い一撃を食らったらしい。

 口喧嘩だけして即退場って、あの人ホントに何がしたかったんだろう。

 だけど、そんなことを気にしている場合じゃなかった。


「どこ見てるの?」

「っ!」

「こんな時まで私以外を見るなんて、流石にちょっとヒドくない? ……あ、そうだ!」


 犬養さんは、俺のすぐ手前で足を停める。

 そして佐久間輪を見る俺の視線に、体を傾けて割り込んだ。コミカルに頬をぷくーっと膨らませているが、その目は少しも笑ってない。

 だけど彼女は、ふと何かを閃いたかのように笑顔で両手を合わせた。

 そして表情を変えないまま、とんでもないことを言い放つ。


「今から“コレ“で、愛沢くんのお目々を切っちゃおっか」

「っ!? 待っ──」


 そう言って彼女が制服のポケットから取り出したのは、見覚えのあるカッターナイフ。

 下校中の住宅街で、俺たちに振りかざしていたものだ。

 それを目にした瞬間、俺は痛みも忘れて跳ねるように身体を起こしていた。少しでも彼女から逃れようと、腰を引きずりながら必死に後退する。

 しかし、俺の背後にあるのは壁。後退しようにも物理的に下がれない。

 袋の中のネズミは、ただ上を見上げるばかり。

 そして有無を言わせず、カッターナイフが頭上に振り上げられた。

 その時、


『……まさかと思うが。恋愛バーサーカーなんて危険な存在を相手するのに、この“天才”たる私が無策とでも?』


 息も絶え絶えになりながら、しかし確かな意思が感じられる声がした。

 視線を向ければ、へたり込んだ姿勢の佐久間輪が、肩で息をしながら白衣のポケットに右手を突っ込んでいる。

 そうして彼女が取り出したのは、どこか見覚えのあるガチャガチャのカプセルに似た球体だった。

 おい、まさか。


「おいバカやめろッ、こんな狭い場所で──!」

『問題ない! 骨は拾ってあげるさっ!!!』


 そう言って、これ見よがしに球体を振り被る佐久間輪。

 彼女の狙いは、すぐに理解できた。すごく目に染みる煙で、犬養さんの視界を封じようとしているのだろう。

 確かに、力ではどう足掻いても敵わないと分かった以上こういった飛び道具に頼るのも一つの手だ。

 でも、だからって事前通告もなく味方を巻き添えにする範囲攻撃は止めてほしかった。

 煙が部屋に充満したら最後、俺は完全に置物と化す。その間に佐久間輪が何もできなければ今度こそ詰みだ。

 せめて(あら)ゆる手を尽くした後、最後の最後に取るべき手段だろう。突拍子もなくするもんじゃない。

 とはいえ、今の俺に彼女を止める手段はない。


「生きて戻ったら覚えとけよっ!」


 せめて被害を最小限に抑えるため、俺は固く瞼を閉じようとした。

 その時、


「やっぱり、あの煙玉ってアナタのだったんだ」


 犬養さんが、ボソリと呟いた。

 その声には焦りの一つも感じられない。

 そして彼女は、冷静に佐久間輪の動きを見極めると、その手に握るカッターナイフを勢いよく投擲(とうてき)する。

 次の瞬間。


「まあ、そんな気はしてたけど」

()っ!?』

「佐久間輪!」


 佐久間輪の右腕に、カッターナイフが深々と突き刺さった。

 その衝撃で、彼女の手元から球体が零れ落ちる。

 だが、犬養さんがそれを許さない。

 一気に佐久間輪のもとへ駆け寄ると、下から掬い上げるように球体を掴み取った。


「ふぅ、危ない危ない。あんな痛いのは一回で十分、こんな危険なモノはポイしないとね」

「嘘、だろ……」


 言葉とは裏腹に、特に慌てた様子のない犬養さん。

 彼女は、掌で適当に球体を転がしたあと窓の外に放り投げる。

 俺は、それを息を飲んで見ることしかできない。

 もはや力だけじゃなかった。動きまでもが、遥かに人の域を凌駕している。

 こんなの、人類が相対していい存在じゃない。

 超常とすら言える眼前の存在に、俺はこの時、真の意味で”絶望”を理解した。

 だが、ここにきて絶望は更に加速する。


「うーん。愛沢くんと一緒になれたら、他は適当に転がしておくだけで済ませるつもりだったんだけど。──うん、やっぱりアナタは潰した方が良さそうかも。他にも何か仕込んでるかもしれないし」

『ちょっ、待──』

「待たない」


 犬飼さんの矛先が、佐久間輪へと向けられる。

 直後、『ゴキュン』という音が佐久間輪の喉からした。

 犬養さんの右手が、勢いよく佐久間輪の首を掴んでいたのだ。

 そしてギシギシと、骨が鳴らしてはいけない音が響き始める。


『かっ……はぁ……っ!?』


 途端、(かす)れた声を上げてジタバタと暴れ出す佐久間輪。

 しかし、どれだけ身を(よじ)っても、どれだけ爪を立てても、犬養さんは微動だにしない。

 当然、そんな状況を見過ごせる訳がなかった。


「止めろおおおおおおお!!!」


 俺は、犬飼さんに向かって飛び出していく。 

 ここまで来たら、もう勝てるとか勝てないとかの話じゃない。まず助けないと!

 とはいえ、ただ闇雲に突っ込んだところで片手間に()なされるだけ。俺と彼女の力の差は、それほどまでに隔絶している。

 だから俺は、部屋の真ん中にあった”卓袱台”をひっくり返し、刺又(さすまた)の要領で四脚を向けながら彼女に迫った。

 しかし、


「邪魔しないで」

「なっ!?」


 所詮は、焼け石に水。

 接触する寸前、犬養さんは左手で裏拳を放つ。

 それだけで卓袱台の脚の一本が、根本から軽々とへし折れた。

 そして、その衝撃に卓袱台を持つ手が耐えられず、俺はバランスを崩してうつ伏せに倒れる。

 犬飼さんは、そんな俺の背中をダメ押しとばかりに上から踏みつけた。


「ぐあっ!?」

「ほら、ちゃんと見てて? 愛沢くん。キミが私のモノにならないから、こうなるんだよ」

『がっ──あ──』


 俺は、どうにか立ち上がろうと懸命に手脚に力を込める。

 だが、まるで巨大なプレス機の下敷きになっているみたいに一ミリも身体を浮かせられない。

 その間にも佐久間輪の声は、徐々に力を失くしていく。

 もう、打つ手は無かった。

 もう、叫ぶしか無かった。


「ま、待ってくれ! 分かった キミのモノになる! 目だって切る! だからそれ以上は──!」


 みっともなく。情けなく。恥ずかしげもなく。

 哀れに。無様に。滑稽に。

 とにかく必死に、俺は叫んだ。

 だけど犬養さんは取り合わない。

 それどころか、ますます右手に込める力を強めていく。

 そして、


『………………』


 やがてダラリと、佐久間輪の両腕が垂れた。


「あ──」


 グニャリと、俺の視界が歪んだような気がした。

 痛みも、体温も、床の感触も。全てが抜け落ちていく。

 ただ──首筋から背中にかけて、得体の知れない冷たいモノが広がっていく感覚だけがあった。


「は──、は──」


 呼吸が早まっていく。思考がぐちゃぐちゃになる。

 なんで、どうして、こんなことになるなんて。

 わからない。わからない。わからない。

 のうが、りかいをきょぜつする。ゆがんだしかいが、ぜんぶをくろくぬりつぶしていく。

 そして、


「は──っ」


 俺の中で、決定的な何かが壊れそうになった──その時。


「え?」


 それは、俺の声でも無ければ佐久間輪のものでもなかった。

 犬養さんだ。犬養さんが、素っ頓狂な声をあげていたのだ。

 そんな彼女の前に、幽鬼の如く揺らめく影が一つ。

 それは、窓の明かりを逆光にして立つ──。


「愛沢くんの、隣の席の」

「どいて」

 

 その一言で、全てが決した。

 まだ話している途中だった犬養さんの顎に、真下から勢いよく学生カバンがぶつけられる。

 途端、アーチを描いて打ち上がる犬養さんの身体。

 そして彼女は、床へ落ちるなり潰れたカエルのような声を上げて動かなくなった。


「あ、え……?」


 眼の前で起きた光景に、俺はただ呆然とするしかない。

 そんな俺に、


「大丈夫だった? 愛沢くん」


 影は──卯ノ花さんは、心配そうにそう言った。

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