第九話 ミリ単位の絶望
光輝魔術師ジーロスは、芸術家としての、その魂を懸けた戦いに挑んでいた。
天使ザフキエルから突きつけられた、あまりに屈辱的な「業務改善命令」。
自らの美学の結晶である、プラチナとダイヤモンドの校舎を解体し、かつての、醜悪な石造りの姿へと、一ミリの狂いもなく「原状回復」せよ、と。
それは、彼のプライドを、完膚なきまでに踏みにじる、死刑宣告にも等しかった。
だが、ジーロスは、ただでは、屈しなかった。
(…いいだろう。受けて立ってやろうじゃないか、天使よ)
彼は、自室に与えられた豪華な天蓋付きベッドの上で、不敵な笑みを浮かべていた。
(君が、僕に「完璧な模倣」を求めるのなら、この僕もまた、芸術家としての、完璧な技術で、それに応えてみせよう。僕の、神の領域にある魔力制御と、美的センスをもってすれば、たとえ醜悪な石塊であろうと、寸分の狂いもなく再現することなど、造作もないこと! その、完璧すぎる僕の仕事ぶりを目の当たりにして、君は自らの要求の、その愚かさに、気づくことになるだろう!)
彼は、この屈辱的な作業を、自らの圧倒的な才能を、あの無粋な天使に見せつけるための、新たなパフォーマンスの舞台へと、昇華させることを決意したのだ。
ジーロスの、あまりにポジティブで、あまりにナルシスティックな反撃が、今、始まろうとしていた。
翌朝。
王立魔術学院の中庭は、異様な緊張感に包まれていた。
ジーロスは、まるでオペラ歌手のように、純白の、動きやすい(しかし、無駄な装飾が多い)作業着に身を包み、プラチナの校舎の前に、立っていた。
彼の周りには、彼の信奉者である学生たちが、固唾をのんで、その一挙手一投足を見守っている。
そして、その、少し離れた場所。
一本の、完璧な角度で植えられた樫の木の木陰に、監査官ザフキエルが、クリップボードを手に、静かに佇んでいた。
その、感情のない瞳が、ジーロスの「作業」を、一瞬たりとも見逃すまいと、光っている。
「―――見るがいい、諸君! そして、天界の無粋な監査官よ!」
ジーロスは、芝居がかった仕草で、両手を広げた。
「これより、僕の芸術の、新たな一ページが、幕を開ける! 『破壊』という名の、創造! そして、『模倣』という名の、オリジナリティ! その、矛盾を越えた先にある、究極の美を、君たちに、見せてあげよう!」
彼は、そう言うと、指を、ぱちん、と鳴らした。
彼の、絶大な魔力によって、プラチナとダイヤモンドの壁が、まるで、砂の城のように、さらさらと、その輝きを失い、光の粒子となって、霧散していく。
ほんの数分で、彼の芸術作品は、跡形もなく消え去り、後には、ただの、空虚な土地だけが、残された。
そして、彼は、ザフキエルから渡された、古ぼけた校舎の「写真」を、宙に浮かべた。「さあ、始めようか。最も、退屈で、最も、完璧な、芸術を」
彼の魔力が、再び、輝きを放つ。
大地から、石材が、まるで生き物のように、せり上がり、写真に写された、あの、醜悪な石造りの校舎の、基礎を、形作り始めた。
それは、神業だった。
彼の、完璧な魔力制御は、ミリ単位の狂いもなく、写真のデータを、現実の三次元空間に、再構築していく。
壁が、組み上がり、窓枠が、はめ込まれ、屋根が、葺かれていく。
学生たちから、感嘆のため息が漏れた。
「すごい…!」
「なんて、精密な、魔力制御なんだ…!」
数時間後。
そこには、かつての、あの、地味で、醜悪な、石造りの校舎が、寸分の狂いもなく、完璧に再現されていた。
「―――どうだね、監査官殿」
ジーロスは、汗一つかかずに、ザフキエルを振り返った。
その顔には、勝ち誇った笑みが、浮かんでいる。
「これこそが、僕の、才能だ。君が要求した、完璧な、模倣だ。…文句は、あるかね?」
ザフキエルは、無言で、ジーロスが創り上げた、完璧な「模倣品」に、近づいた。
そして、あの、水晶の定規を、取り出す。
彼は、壁の、石と石の、継ぎ目に、その定規を、当てた。
そして、首を、横に振った。
「…不合格です」
「な…なんだと…!?」
「壁の、石材の、表面粗度が、写真のデータと比較して、〇・二パーセント、滑らかすぎます。これでは、完璧な再現とは、言えません。…やり直してください」
ジーロスの、完璧な笑顔が、凍りついた。
地獄は、そこから始まった。
ジーロスは、芸術家としてのプライドを懸けて、何度も、何度も、挑戦した。
だが、その度に、ザフキエルの、あまりに厳格で、あまりに、どうでもいい、指摘が、彼の心を、折っていく。
「窓ガラスの、透明度が、高すぎます。当時の、ガラス精製技術では、この透明度は、ありえません。もっと、不純物を、混ぜなさい」
「ノンッ! 美しいガラスこそ、正義だ!」
「屋根の、瓦の、一枚一枚の、焼きムラが、均一すぎます。もっと、ランダムな、個体差を、再現してください」
「そんな、計算され尽くしていない、醜悪なものを、僕が作れるとでも!?」
「扉の、蝶番の、錆の浮き具合が、写真と異なります。この、茶色の錆ではなく、もっと、赤黒い、酸化鉄の色を、正確に表現してください」
「僕は、芸術家だ! 錆の、ソムリエではない!」
ジーロスの、芸術家としての魂が、悲鳴を上げていた。
彼が、これまで、美しいものを創造するために磨き上げてきた、全ての技術と、感性。
それが、今、醜いものを、より醜く再現するためだけに、使われている。
これ以上の、屈辱は、なかった。
そして、ついに、事件が、起きた。
数日間にわたる、不毛な、やり直しの末、ジーロスの精神は、限界に達していた。
彼は、校舎の、正面玄関の、最後の仕上げに、取り掛かっていた。
その、扉の上に、小さな、装飾用の、紋章を、彫り込もうとした、その時だった。
彼の、芸術家としての本能が、無意識に、その紋章の、ほんの先端部分に、彼のサイン代わりである、流れるような、美しい曲線を、加えてしまったのだ。
それは、彼の、最後の、抵抗だったのかもしれない。
だが、その、あまりに些細な、芸術家のプライドを、ザフキエルは、見逃さなかった。
「―――警告します」
ザフキエルの、冷たい声が、響いた。
「命令書に、記載されていない、無許可の、芸術的逸脱行為を、確認しました。コンプライアンス違反です。…最初から、全て、やり直してください」
「……………」
ぷつり、と。
ジーロスの、頭の中で、何かが、切れる音がした。
「…ああ…ああ…」
彼は、天を、仰いだ。
その、瞳から、一筋の涙が、こぼれ落ちる。
「…もう、だめだ…。僕の、僕の美学が…。醜さに殺される…!」
彼は、その場に、崩れ落ちた。
そして、子供のように、わんわんと、泣き出してしまった。
「美しくないものなんて、創りたくない…! 醜いものなんて、見たくない…!」
光輝魔術師ジーロスは、自らが、最も忌み嫌う「醜さ」を、完璧に再現せよ、という、あまりに矛盾した命令の前に、その芸術家としての魂を、完全にへし折られてしまったのだった。
アイリスは、その、あまりに哀れな光景に、もはや、かける言葉も見つからなかった。
彼女の脳内に、ノクトの、静かな声が響く。
『…フン。ようやく、心が折れたか。だが、ただ壊しただけでは、あの天使には通用せん。使えん駒のままだ』
ノクトの声は、どこまでも冷徹だった。
『これより、奴の、そのくだらない美学を、一度、完全に更地にする。そして、その上に、俺の論理で、新しい価値観を再建築してやる。…奴にとって、本当の地獄は、ここからだ』
 




