第八話 美学への挑戦状
激情のギルが、天界の「正しさ」と、ノクトの「悪意」によって、その魂である「情熱」を完全にへし折られてから、数日が経過した。
王国騎士団の訓練場からは、もはや、男たちの雄叫びも、鋼のぶつかり合う音も聞こえてはこない。
ただ、毎日、決まった時間に、穏やかで健康的な「国民健康体操第一」の音楽だけが、虚しく響き渡っていた。
ギルは、自室に引きこもり、抜け殻のようになっていた。
時折、アイリスが様子を見に行くと、彼は部屋の隅で、小さな針と糸を手に、ぶつぶつと何かを呟いている。
「…穴に、通せんであります…。俺の、この指では…」
その、あまりに哀れな姿に、アイリス分隊のメンバーは、次なる監査のターゲットが誰になるのかと、戦々恐々としていた。
「ひひひ…。筋肉馬鹿が、完全にイカれちまったな。まあ、俺の知ったこっちゃねえがな」
テオは、他人事のように笑いながらも、自らの悪徳商法が、いつ、あの天使の目に留まるかと、警戒を強めていた。
だが、ザフキエルの、次なる「是正」の刃は、テオの予想とは、全く違う方向へと、向けられた。
彼の、感情のない瞳が、次なる監査対象として捉えていたのは、王都で最も、美しく、最も、混沌とした場所。
光輝魔術師ジーロスが、その美学の全てを注ぎ込んで創り上げた、狂気の芸術作品――王立魔術学院だった。
その日の午後。
ジーロスは、自らがプラチナとダイヤモンドで増築した、新校舎のテラスで、優雅にティーカップを傾けていた。
彼の目の前には、数人の、彼を信奉する若い魔術師たちが、彼の次なる芸術構想を、目を輝かせながら、聞いている。
「いいかい、諸君! 美とは、停滞ではない! 常に、破壊と再生を繰り返す、永遠の革命なのだ!」
ジーロスは、立ち上がると、芝居がかった仕草で、空を指さした。
「この校舎も、もはや古い! 僕の、昨日の作品だ! 次なるテーマは、『天界への嫉妬』! この塔の、さらに上空に、僕の光魔法で、逆さまの城を創り出す! そう、それは、神々の住まう天界すらも、見下ろす、傲慢なる美の、象徴となるのだ!」
「おお…!」
学生たちが、その、あまりに壮大で、あまりに無謀な構想に、感嘆の声を上げる。
ジーロスは、自らの芸術論に、うっとりと酔いしれていた。
その、完璧な、自己完結した世界に、水を差す、無粋な声が響いたのは、まさにその時だった。
「―――ノン」
その、たった一言。
しかし、それは、ジーロスの、十八番であるはずの決め台詞。
そして、その声は、彼のものよりも、遥かに、冷たく、無機質で、一切の「美」を感じさせない響きを持っていた。
ジーロスと学生たちが、声のした方へ、一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、いつの間に現れたのか、純白のローブを纏った、監査官ザフキエルだった。
彼は、その手にしたクリップボードを一瞥すると、感情のない瞳で、ジーロスが創り上げた、プラチナとダイヤモンドの校舎を、値踏みするように、見上げた。
「…これは、あなたの、作品ですか」
「いかにも! この僕、光輝魔術師ジーロスが、この退屈な世界に与えた、美の福音だよ!」
ジーロスは、胸を張った。
自らの芸術を、ようやく理解できる、新たな観客が現れたのだと、彼は、完全に、勘違いしていた。
だが、ザフキエルの口から出たのは、賞賛の言葉ではなかった。
「そうですか。…では、これより、監査を、開始します」
ザフキエルは、そう言うと、どこからともなく、天界の、特殊な監査ツールを、次々と、取り出し始めた。
空間の歪みを、ピクセル単位で計測する、水晶の定規。
魔力の、無駄な放出量を、計測する、音叉のようなセンサー。
そして、建物の、構造的な安全性を、パーセンテージで表示する、奇妙なレンズ。
彼は、そのツールを手に、芸術作品であるはずの校舎を、まるで、工場の製品でも検品するかのように、事務的に、調査し始めた。
「まず、この、ダイヤモンドの壁。照度が、天界建築基準法で定められた、教育施設の、許容ルクス値を、三百パーセント、超過しています。学生の、視力低下を、招く、危険性があります」
「なっ…! あれは、知性の輝きを、表現した光だ!」
「次に、この、プラチナの柱。装飾過多により、構造的な強度が、三十二パーセント、低下しています。大規模な、地震等の、外的要因が加わった場合、倒壊のリスクが、極めて高い」
「ノン! あれは、儚さの中にこそ存在する、真の美を、表現しているのだよ!」
「結論を、申し上げます」
ザフキエルは、ジーロスの、芸術的な反論を、全て、無視した。
彼は、クリップボードに、何かを、書き込みながら、冷たく、言い放った。
「あなたの、この建造物は、景観法、建築基準法、魔力使用制限法、その他、多数の天界法に、著しく、違反しています。違法建築です」
「い、違法…建築…!?」
ジーロスの、顔が、引き攣った。
自らの、魂の結晶が、ただの、法律違反の産物だと、断罪されたのだ。
これ以上の侮辱はなかった。
「貴様…! 美の分からぬ、朴念仁め…! この僕のアートを、法などという、無粋な物差しで、測るというのか!」
ジーロスが、激昂する。
だが、ザフキエルは、全く、動じなかった。
彼は、懐から、一枚の、古びた、しかし、極めて正確に描かれた、一枚の「写真」を取り出した。
そこに写っていたのは、ジーロスが、美の福音を与える前の、ただの、地味で、醜悪な、石造りの、古い校舎の姿だった。
「つきましては、あなたに、この『業務改善命令書』を、交付します」
ザフキエルは、その写真を、ジーロスに、突きつけた。
「この、違法建築物を、速やかに、解体し、こちらの、建築当初の姿へと、『原状回復』してください」
「な、なんだと…!?」
「猶予は、一週間。もし、改善が見られない場合、強制的に、是正措置を、執行します」 ザフキエルは、さらに、言葉を続けた。
その言葉こそが、ジーロスの、芸術家としてのプライドを、完膚なきまでに、打ち砕く、最後の一撃となった。
「―――なお、原状回復の際は、こちらの、建築時の記録写真データに基づき、厳密に、一ミリ単位での、再現を、要求します。寸分の、狂いも、認めません」
ミリ。
その、あまりに無機質な、響き。
それは、ジーロスの、情熱と、混沌と、インスピレーションに満ちた、芸術の世界とは、対極にある概念だった。
ただ、ひたすらに、醜い過去を、寸分の狂いもなく、完璧に再現せよ、と。
創造ではなく、ただの、模倣を。
それも、最も醜悪な、模倣を。
それは、彼にとって、死刑宣告にも等しかった。
その日の夕方。
アイリス分隊の作戦会議室は、ジーロスの、悲痛な叫びで、満たされていた。
「屈辱だ! これ以上の、屈辱はない! あの、無粋な天使め! この僕に、あの醜悪な石塊を、寸分の狂いもなく再現しろ、だと!? 芸術に対する、最大の冒涜だ!」
ジーロスは、ソファに突っ伏して、本気で、泣いていた。
その、あまりに哀れな姿に、仲間たちは、かける言葉も、見つからなかった。
「…姉御…」
部屋の隅で、抜け殻のようになっていたギルが、か細い声で呟いた。
彼は、自分の巨大な指先を、まるで信じられないものでも見るかのように、じっと見つめている。
「…俺、明日からも、また、あの…針に、糸を…通すので、ありますか…?」
彼の瞳には、もはや、鬼教官の面影はなく、ただ、小さな針の穴に怯える、巨大な子供の影だけが、映っていた。
ギルは、もはや再起不能だった。
アイリスは、深いため息をついた。
ザフキエルの、「是正」は、暴力ではない。
だが、それは、人の魂を、最も効率的に殺す、静かな暴力だった。
(…神様。次は、どうすれば、いいのでしょうか…)
アイリスが、脳内で問いかける。
ノクトからの返信は、どこか、楽しげだった。
『フン。面白い。あのナルシストが、どんな顔で、醜い建物を再現するか。見ものだな』
彼は、この、地獄の光景を、ただの娯楽として、消費しているらしかった。
ジーロスの、芸術家としての誇りを懸けた、長く、そして、屈辱に満ちた一週間が、今、始まろうとしていた。




