第七話 静かなる地獄の閨房訓練
ザフキエルの執拗な「是正」によって、自らの魂である「情熱的訓練」を奪われ、絶望の淵にいた激情のギル。
だが、アイリス(の背後にいる『神』)から与えられた「天使の監視が及ばぬ聖域での、極秘訓練」という、あまりに甘美な提案は、彼の消えかけた闘志の炎に、再び、油を注いだ。
戦いの舞台は、訓練場から、聖女の、プライベートな閨房へ。
それは、さらなる、そして、より陰湿な地獄の始まりを意味していた。
翌朝。
ギルは、鶏鳴の刻と共に、アイリスの私室の前に、仁王立ちになっていた。
その顔には、昨日までの絶望の色はない。
これから始まる、秘密の特訓への、期待と興奮で、子供のように、目を輝かせている。
扉が開き、眠そうな目をこするアイリスが現れる。
「…ギル。朝が、早すぎます…」
「姉御! おはようございますであります! さあ、早速、始めましょう! 天使の監視を欺く、我らの、反逆の狼煙を、上げるでありますぞ!」
ギルの、あまりに熱い情熱。
アイリスは、深いため息をつくと、彼を、部屋の中へと招き入れた。
豪華な調度品、美しいタペストリー、そして、ふかふかの絨毯。
聖女の私室は、汗と土埃の匂いがする訓練場とは、あまりにも、かけ離れていた。
ギルは、その、甘い花の香りが漂う空間に、一瞬だけ、たじろいだ。
だが、すぐに、気を取り直す。
「素晴らしい環境でありますな、姉御! この、柔らかな絨毯は、我々の、激しい足踏みによる、騒音を、吸収してくれるに違いありやせん!」
彼は、早速、いつもの調子で、準備運動を始めようとした。
「では、姉御! まずは、準備運動の、城壁持ち上げからであります!」
「…ギル。ここに、城壁は、ありません」
アイリスの、冷静なツッコミ。
「…む! な、ならば、この、寝台を持ち上げるであります! この、軟弱な精神を、鍛え直すには、まず、己が寝床を、制圧することから、でありますぞ!」
ギルは、アイリスの、巨大な天蓋付きベッドへと、歩み寄った。
そして、その、彫刻が施された、重厚な木製のフレームに、両手をかける。
「ふんぬうううううっ!」
彼が、渾身の力を込めた、瞬間だった。
ベッドは、びくともしない。
その代わり、メキメキメキッ!という、嫌な音と共に、ベッドの、四本の柱が、天井の、美しい漆喰の装飾に、深々と、突き刺さり、巨大な穴を開けた。
パラパラと、漆喰の破片が、ギルの頭上に、降り注ぐ。
「…あ…」
ギルは、固まった。
アイリスは、天を仰いだ。
(…もう、嫌だ…)
『…やはり、こうなったか』
アイリスの脳内に、全てを予測していたかのような、ノクトの、うんざりした声が響いた。
『このままでは、俺が新しいゲームに集中する前に、お前の部屋が、瓦礫の山になる。…新人、あの筋肉馬鹿に、伝えろ』
ノクトは、この、最悪の事態を、逆手に取ることにした。
ザフキエルの、「是正」とは、違う。
もっと、根本的な、ギルの、アイデンティティそのものを、破壊するための、悪魔的な、計画だった。
「…ギル」
アイリスは、立ち尽くす、巨大な背中に、声をかけた。
「…あなたに、本当の強さとは何かを、教えます」
「…姉御…?」
「真の強さとは、巨大な物を、動かす力では、ありません。…微細な物を、完璧に、制御する力です」
その、あまりに哲学的で、あまりに、ギルの生き様とは、かけ離れた言葉。
ギルは、きょとんとして、アイリスを、見返した。
アイリスは、テーブルの上に、トランプを、置いた。
「これより、あなたの、新たな訓練を、開始します。第一の試練は、『カードタワー』です」
「…かあど、たわあ…?」
「この、トランプで、天井に届くほどの、塔を、建てなさい。…もし、それが崩れたなら、あなたは、自らの力を、制御できていない、ということです。…最初から、やり直しです」
地獄の、始まりだった。
ギルは、その、あまりに薄く、あまりに頼りない、紙のカードを、震える指で、つまんだ。
彼の、指は、岩を砕き、鉄を捻じ曲げるために、ある。
こんな、紙切れ一枚を、繊細に、扱うようには、できていなかった。
「う、うぉぉ…! 待て、待つのであります…!」
一枚、二枚、と、慎重に、カードを、組み上げていく。
だが、三枚目を、置こうとした、その瞬間。
彼の、荒い息遣いが、引き起こした、僅かな風圧で、その、儚い塔は、ぱらぱらと、崩れ落ちた。
「ぁぁぁぁぁぁっ!」
ギルの、か細い(五十デシベル以下の)悲鳴が、響く。
彼は、その後も、何度も、何度も、挑戦した。
だが、その度に、自らの、巨大すぎる筋肉の、微細な震えが、汗が、息遣いが、その、ささやかな創造物を、無慈悲に、破壊していく。
汗が、彼の額を、伝う。
それは、肉体的な、疲労の汗ではなかった。
純粋な、精神的な、ストレスの汗だった。
数時間が、経過した。
カードタワーは、未だ、十センチの高さも、超えられていない。
ギルの、精神は、摩耗しきっていた。
そこに、アイリス(ノクト)の、次なる、無慈悲な指令が、下される。
「…次の、訓練です」
アイリスが、差し出したのは、一本の小さな縫い針と、一本の細い絹の糸だった。
「戦士たるもの、その有り余るパワーを、一点に、集中できなくて、どうします。…この針の穴に、糸を通しなさい。百回、です」
「…は、針…?」
ギルは、その、あまりにも小さな、絶望の穴を、見つめて、絶句した。
彼の、丸太のような指先では、針を持つことさえ、ままならない。
ぷつり、ぷつり、と、糸が、切れる音。
ぱきり、と、針が、折れる音。
その、小さな、乾いた破壊音が、彼の、最後のプライドを、少しずつ、しかし確実に、削り取っていった。
その日の、夕方。
ギルは、完全に、燃え尽きていた。
魂の、抜け殻のようになって、絨毯の上に、大の字になって、転がっている。
ザフキエルの、「是正」は、安全で、健康的な、「陽」の地獄だった。
それに対し、ノクトが課した訓練は、ギルの、アイデンティティそのものを、内側から破壊する、「陰」の地獄だった。
彼は、物理的な力では、決して到達できない、「繊細さ」という、絶対的な壁の前に、精神的に、完膚なきまでに、敗北したのだ。
「…姉御…」
ギルの、か細い声が、響く。
「…俺は、もう、ダメかもしれません…。俺は、ただの、不器用な、図体のでかいだけの、男であります…」
彼は、完全に、自信を、喪失していた。
その、あまりに哀れな姿に、アイリスの、心が、チクリと痛んだ。
(…神様。もう、十分では、ないでしょうか…)
『フン。ようやく、自分の、無力さを、理解したか、あの筋肉馬鹿も』
ノクトの声は、満足げだった。
『…まあ、いいだろう。今日のところは、これくらいで、勘弁してやるか』
アイリスは、そっと、ギルの、巨大な肩に、手を置いた。
「…ギル。…よく、頑張りました。今日の、訓練は、終わりです」
その、優しい言葉に、ギルは、子供のように、わんわんと泣き出してしまった。
その、奇妙な訓練の、一部始終を、扉の、鍵穴から、ザフキエルが、じっと、覗き込んでいたことに、まだ、誰も、気づいていなかった。
彼の、感情のない瞳には、初めて、困惑と、そして、ほんの少しの興味の色が、浮かんでいた。
(…なんだ、これは…。非効率の、極みだ。…だが、この、無意味な行為の先に、何かあるというのか…? …データが、足りない…。要、観察、だ…)
彼の、完璧な論理の世界に、初めて、理解不能な「混沌」というノイズが混じり始めた瞬間だった。
ギルの受難は、こうして、最も情けない形で、その幕を閉じた。
だが、それは、次なる英雄の受難の始まりを告げる、鐘の音でもあった。




