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第六話 反逆の筋力トレーニング

 天界からの監査官、ザフキエルによる、あまりに理不尽な「業務改善命令」。

 激情のギルは、その、自らの魂そのものを否定するかのごとき命令書を、怒りのままに握り潰した。

「コンプライアンスなど、筋肉で、粉砕してくれるでありますぞ!」

 彼の、戦士としての誇りを守るための、壮大な反逆が、今、幕を開けた。

 だが、その反逆は、彼が想像していたような、血湧き肉躍る、熱い戦いには、ならなかった。

 それは、もっと、静かで、陰湿で、そして、魂をじわじわと削り取るような、屈辱に満ちた、戦いだったのだ。


 翌朝。

 ギルは、いつもより一時間早く、騎士団訓練場に、仁王立ちになっていた。

 彼の目には、反逆の炎が、燃え盛っている。

(見ておれ、天使野郎…! 貴様の、その、生ぬるい正論が、俺の、この、鋼鉄の情熱の前では、いかに無力であるかを、思い知らせてやるであります!)

 彼は、集まってきた騎士たちを前に、昨日よりも、さらに大きな声で、檄を飛ばそうとした。

 腹の底から、ありったけの空気を、吸い込む。

 そして、叫んだ。

「たるんどる! 貴様ら! 今日も、限界を超えて、姉御への忠誠を示すでありますぞ!」

 その声は、雷鳴となって、訓練場に響き渡る―――はずだった。

 だが、彼の口から、実際にほとばしったのは、

「…たるんどる…(ボソボソ)…姉御への、忠誠を…(ヒソヒソ)」

 まるで、図書館で、愛を囁くかのような、か細い、ささやき声だった。

「…へ?」

 騎士たちが、きょとんと、彼を見つめる。

 ギルは、自分の喉に起きた、信じられない異変に、顔を真っ赤にした。

「(ボソボソ)…うぉぉぉぉな(なんだ、これは!? 俺の声が…! うおおおおおっ!))」

 どれだけ、腹に力を込めても、彼の声は、五十デシベルという、天界の規定値を、決して、超えることがなかった。

 ザフキエルの、「是正措置」が、すでに、始まっていたのだ。

 彼の、魂の叫びは、近所迷惑にならないよう、完璧な音量に、調整されてしまっていた。


 声が出なくとも、彼の情熱は、消えなかった。

「よ、よろしい…! ならば、行動で、示すまで!」

 彼は、訓練場の隅に置かれていた、巨大な岩石――騎士たちが、十人がかりで、ようやく動かせるという、特別訓練用の、重し――の前へと、歩み寄った。

「見ておれ…(ボソボソ)(見ておれ、貴様ら! これぞ、真の、騎士の姿でありますぞ!)」

 彼は、その岩石を、軽々と、頭上へと、持ち上げようとした。

 だが、その指が、岩石に触れた、瞬間だった。

 ずっしりとした、重いはずの岩石が、ぽふん、と、軽い音を立てた。

 そして、彼の目の前で、巨大な、ふわふわの、綿菓子へと、姿を変えてしまったのだ。

「…………は?」

 ギルの、思考が、完全に、フリーズした。

 彼の目の前には、ただ、甘い香りを漂わせる、巨大な、ピンク色の、綿菓子が、あるだけ。

 彼は、訳が分からないまま、その綿菓子を、持ち上げた。

 羽のように、軽い。

「(ボソボソ)…これはぁぁぁぁぁ(な、なんなのでありますか、これはあああああっ!)」

 彼の、か細い絶叫が、爽やかな朝の空気に、虚しく、吸い込まれていく。

 騎士たちは、その、あまりにシュールな光景に、笑うことさえできず、ただ、困惑の表情で、立ち尽くしていた。

 ギルの、反逆の筋力トレーニングは、開始五分で、最もコミカルで、最も屈辱的な形で、その出鼻をくじかれたのだった。


 だが、ギルは、諦めなかった。

 彼は、あの手この手で、「情熱的な訓練」を、敢行しようと試みた。

 剣での、打ち込み稽古を、始めようとすれば、鋼鉄の剣は、相手の鎧に当たった瞬間、コンニャクのように、ぐにゃりと曲がった。

 城壁を、よじ登る訓練を、始めようとすれば、城壁の表面が、魔法で、ぬるぬるの、粘液で覆われ、一歩も、登ることができない。

 馬に乗っての、突撃訓練を、始めようとすれば、軍馬の足が、なぜか、スキップのような、陽気なステップを踏み始めてしまう。

 彼の、全ての「過激」で「危険」な行為は、ザフキエルの、絶対的な「安全第一」の是正魔法によって、ことごとく、コミカルで、無力な、子供の遊びへと、変えられていった。


 その日の午後。

 ギルは、もはや、抜け殻のようになって、訓練場の隅で、膝を抱えていた。

 彼の、戦士としてのプライドは、ズタボロだった。

 暴力で、ねじ伏せられたのではない。

 ただ、ひたすらに、安全で、健康的で、そして、退屈な「正しさ」によって、その牙を、一本、また一本と、抜かれていったのだ。

「…姉御…。俺は、もう、ダメかもしれません…」

 彼の、瞳から、一筋の、熱い涙が、こぼれ落ちた。


 その、絶望の淵にいる、彼の元へ、アイリスが、心配そうな顔で、駆け寄ってきた。

「ギル! 大丈夫ですか!? 今日の訓練場は、なんだか、とても平和だと、聞きましたが…」

「あ、姉御…!」

 ギルは、その、救いの女神のような姿に、わっと、泣きついた。

「聞いてくださいであります、姉御! あの、天使野郎が! 俺の、俺の魂を、殺しにかかってくるのであります!」

 彼は、今日一日、自分が受けた、あまりに理不尽で、あまりに屈辱的な「是正」の数々を、涙ながらに訴えた。

 その、あまりに情けない報告に、アイリスは、かける言葉も見つからなかった。

 彼女の脳内に、ノクト()の、どこか、他人事のような声が、響く。

『…フン。筋肉馬鹿が、正論に、どう立ち向かうか、見ものだな。…だが、このままでは、埒が明かん。…新人、俺の言う通りに、奴に伝えろ』

(神様…!? 何か、策が、あるのですか?)

『策、ではない。ただの、悪あがきだ』

 アイリスは、ノクト()の言葉を、そのまま、ギルに伝えた。

「…ギル。…分かりました。あなたの、その、熱い情熱、しかと、受け止めました。…ならば、こうするのは、どうでしょう」

 彼女は、天を仰ぐと、まるで、神のお告げでも受けているかのように、厳粛に告げた。

「―――訓練の、場所を、変えるのです」

「場所を、でありますか?」

「ええ。あの天使の、監視の目が、届かない場所。彼の、『是正』の力が、及ばない、聖域。…そこで、あなたの、本当の力を、解放するのです」

 その、あまりに、中二病的な、しかし、ギルの心を、くすぐるには、十分すぎる、提案。

「せ、聖域…!?」

 ギルの目に、再び、光が宿った。

「その場所とは、いったい、どこなのでありますか、姉御!」

「…それは…」

 アイリスは、一瞬だけ、ためらった。

 そして、意を決して、告げた。

「―――私の、部屋です」

 ギルの、反逆は、まだ、終わらない。

 戦いの舞台は、訓練場から、聖女の、プライベートな、閨房(けいぼう)へと移ろうとしていた。

 それは、さらなる混沌の始まりを、意味していた。

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