第五話 最初の監査
天界からの監査官、ザフキエルが王城にその姿を現し、国王に、あまりに些細で、あまりにどうでもいい指摘を残してから、数日が経過した。
彼はそれ以来、ぱったりと姿を消していた。
王城には、束の間の、しかし、得体の知れない嵐の前の静けさのような、不気味な平穏が戻っていた。
「…あの天使、一体、何がしたかったのでありますかね?」
騎士団の訓練場で、ギルは、眉間に皺を寄せながら、呟いた。
彼の周りでは、騎士たちが、以前のような熱気のない、どこか気の抜けた訓練を続けている。
それも、無理はなかった。
王都全体を覆う「静かなる是正」は、未だに続いていたからだ。
訓練用の木剣は、全てが寸分の狂いもない、完璧な品に整えられ、武器庫の鎧は、まるで芸術品のように、完璧な角度で整列している。
完璧すぎる環境は、戦士の闘争本能を、確実に、蝕んでいた。
「…たるんどる!」
ギルは、自らを、そして騎士たちを鼓舞するように、雷鳴のような檄を飛ばした。
「姉御は、今も、この国の平和のために、戦っておられる! 我々が、この程度のことで、腑抜けていてどうする! 全員、この城壁を、歯で、持ち上げてみせるでありますぞ!」
彼の、あまりに理不尽な、しかし、いつもの熱い檄。
騎士たちが、「またか…」と、絶望に顔を歪ませた、まさにその時だった。
すっ、と。
訓練場の、中央に、一人の青年が、音もなく、立っていた。
雪のように白いローブ。
光の結晶で編まれたかのような、一対の翼。
そして、その手には、巨大なクリップボード。
監査官ザフキエルが、そこにいた。
「な、何者だ!?」
騎士たちが、一斉に、剣を抜く。
だが、ザフキエルは、その剣の壁を、全く意に介することなく、ギルの前へと、静かに、進み出た。
「激情のギル、ですね」
彼は、感情のない声で、告げた。
「本日は、あなたの『業務内容』に対する、監査に参りました」
「かんさ、だと…? 俺の、神聖な訓練に、ケチをつける気でありますか!」
ギルが、凄む。
その、圧倒的な威圧感にも、ザフキエルは、眉一つ動かさなかった。
彼は、クリップボードの羊皮紙を、ぱらぱらと、めくった。
「監査項目、第一。指導時の、声量について」
彼は、どこからともなく、水晶でできた、奇妙な測定器を取り出した。
「あなたの、先ほどの檄。『たるんどる!』の発声は、百三十デシベルを記録しました。これは、天界労働安全衛生法、第四十五条、『職場における、許容騒音レベル』を、著しく、超過しています。周辺環境への、騒音公害です。即時、是正を要求します」
「でしべる…?」
ギルには、何を言われているのか、さっぱり、分からなかった。
「監査項目、第二。訓練内容について」
ザフキエルは、淡々と、続ける。
「『城壁を歯で持ち上げる』。これは、同法、第七十二条、『従業員の、身体能力の限界を超えた、非人道的な業務の強制の禁止』に、明確に、違反します。また、被訓練者の、歯及び顎への、回復不能な損傷リスクは、九十八パーセントを超えます。さらに、器物損壊のリスクも、極めて高い。非効率的かつ、非倫理的です」
「な、なんだと!?」
ギルは、自らの、最も効果的で、最も情熱的な指導法を、真っ向から否定された。
「これは、姉御への忠誠心を示す、神聖な儀式でありますぞ!」
「その、『忠誠心』という、非論理的な感情の発露が、数々の、法令遵守違反を、引き起こしているのです」
ザフキエルの、正論の刃が、ギルの、情熱の盾を、いともたやすく貫いていく。
「その他、『城を肩車してスクワット』は、建造物への、構造的負荷が、許容範囲を超えており、『一万回ジャンプ』は、膝への、過剰な負担と、着地時の、騒音問題が、指摘されます。あなたの指導方法は、全体で、約八十七パーセントが、法令遵守に違反しています」
ザフキエルは、クリップボードに、何かを、書き込みながら、結論を、述べた。
「これは、由々しき、事態です」
彼は、懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
タイトルには、『業務改善命令書』と、冷たい文字で、記されている。
「つきましては、あなたに、この命令書を、交付します。天界の、最新のスポーツ科学と、労働安全衛生法に基づき作成された、最も効率的で安全な、訓練メニューです」
ギルは、震える手で、その命令書を、受け取った。
そして、その、第一項を、読み上げ、絶句した。
「…だ、第一項…。『訓練開始前には、必ず、十分間の、入念なストレッチを行うこと』…?」
「はい。筋肉の、不必要な損傷を、防ぎます」
「…だ、第二項…。『訓練用具は、全て、衝撃吸収率九十九パーセント以上の、綿、及び、特殊な柔軟素材で、作られたものを、使用すること』…?」
「はい。打撲、骨折等の、リスクを、最小限に、抑えます」
「…第三項…。『指導時の、声量は、五十デシベル以下を、維持すること。大声は、被訓練者の、精神的な、萎縮を招き、訓練効率を、低下させます』…?」
「はい。論理的で、静かな指導が、最も効果的です」
ギルは、わなわなと、震え始めた。
書かれている内容は、どれもこれも、正論だった。
だが、その正論は、彼の、戦士としての魂そのものを、否定していた。
汗と、血と、涙。
限界を超えた先にこそ、真の強さがある。
彼の、その、体育会系の、信念の全てが、この一枚の羊皮紙によって、完全に、無価値なものだと、断罪されていた。
「…ふ、ふざけるな…」
ギルの、低い、唸り声が、訓練場に響いた。
ザフキエルは、その怒りを全く意に介することなく、最後の通告を告げた。
「猶予は、一週間。一週間以内に、この命令書に記載された、安全な訓練メニューに、完全に、移行してください。もし、改善が見られない場合、天界法に基づき、強制的に、『是正措置』を、執行させていただきます」
彼は、それだけ言うと、来た時と同じように、ぺこり、と頭を下げ、音もなく消えていった。
後に残されたのは、あまりの理不尽さに、言葉を失う、騎士たちと、一枚の業務改善命令書を握りしめ、小刻みに震える、一人の鬼教官だけだった。
やがて、ギルは、その命令書を、ぐしゃり、と、握り潰した。
「…やって、られるかああああああっ!!!」
彼の、魂からの絶叫が、王都の空に、木霊した。
「法令遵守など、筋肉で、粉砕してくれるでありますぞ!」
彼は、自らの、戦士としての誇りを守るため、天界の、絶対的な「正しさ」に、反逆することを、固く決意した。
アイリスは、その報告を、作戦会議室で聞き、深く、深いため息をついた。
(…始まりましたか。ギルの、受難が…)
彼女の脳内に、ノクトの、どこか楽しげな声が、響いた。
『フン。面白い。筋肉馬鹿が、正論に、どう立ち向かうか。見ものだな』
彼の、不本意な戦いは、これから、さらに、混沌の度合いを、増していく。
ギルの、長く、そして、あまりに情けない、一週間の戦いが、今、幕を開けた。




