第四話 三パーセントの非効率
玉座の間に舞い降りた、静かなる絶対者。
純白のローブを纏い、光の結晶で編まれたかのような翼を背負ったその青年は、国王レジスの前に、静かに佇んでいた。
その、あまりに神聖で、あまりに場違いな降臨。
誰もが息をのみ、その次の言葉を待っていた。
アイリスは、本能的に理解した。彼こそが、この数日間の、静かなる異変の、全ての元凶であることを。
彼は、国王の前に立つと、再び、ぺこり、と極めて事務的に、頭を下げた。
「―――改めまして、私、天界より派遣されました、『世界環境改善指導員』の、ザフキエルと申します」
「…て、天界、からの…?」
国王が、震える声で、聞き返す。
「はい」
ザフキエルは、頷いた。
「あなた方がお住まいの、この世界。その、綻びや、『法令遵守違反』を、是正するために、参りました」
「コンプラ…?」
「法令遵守、と、お考えください」
ザフキエルは、淡々と、続けた。
「この世界は、近年、魔王の復活、悪魔の介入などにより、その、世界の調和を保つための、基本的なパラメータが、著しく乱れております。我々、天界の監査局は、その乱れを、看過できません。よって、私が、指導員として派遣された、という次第です」
その、あまりに壮大で、あまりに、他人事のような口調。
まるで、遠い国の出来事を、新聞で読み上げるかのように、そこには、一切の感情がこもっていなかった。
「…して、指導員殿」
国王が、かろうじて、為政者としての威厳を保ち、尋ねた。
「その、我らの世界の、『綻び』とは、具体的に、何を指すので?」
「はい。多岐にわたります」
ザフキエルは、クリップボードに挟まれた羊皮紙を、ぱらぱらと、めくった。
「市場の、過度な騒音。看板の、無秩序な乱立。国民の、塩分の過剰摂取傾向…。挙げれば、キリがありません。ですが、ご安心を。それらの、軽微な違反につきましては、すでに、私が、第一段階の、是正措置を、完了させておりますので」
悪びれもせず、彼は、自らの犯行を、認めた。
市場の静けさも、看板の完璧な角度も、全ては、この天使の、お節介な「善意」によるものだったのだ。
「ですが、本日、私が、参りましたのは、それらの些末な問題についてでは、ありません」
ザフキエルの、感情のない瞳が、初めて、国王を、まっすぐに捉えた。
「国王陛下。あなたの、その、玉座の間における、謁見作法。それこそが、今、この国で、最も早急に是正されるべき、重大な問題点であると、私は判断いたしました」
「…………はい?」
国王の、口から、間の抜けた声が漏れた。
アルトリウスも、大臣たちも、そして、アイリスでさえも、我が耳を、疑った。
世界の、綻び。
その、最も、重大な問題が、玉座の間での、作法?
ザフキエルは、どこからともなく、一つの、水晶でできた、奇妙な測定器を取り出した。
それは、角度や、距離、時間などを、コンマ一秒、コンマ一ミリ単位で、計測するための、天界の、特殊な監査ツールだった。
「先ほどから、計測させていただいておりましたが」
彼は、その測定器を、国王に、突きつける。
「あなたが、大臣たちから、報告を受ける際の、頷きの角度。天界の、標準プロトコルと比較して、平均で、二・三度、浅い。これは、相手への、敬意の念が、不足していると、判断されかねない、重大な、欠陥です」
「は、はあ…」
「また、大臣たちが、玉座へ進み出る際の、歩行速度。平均で、秒速、〇・八メートル。これは、推奨される速度よりも、約十五パーセント、遅い。この、無駄な時間の積み重ねが、この国の、年間の生産性に、どれほどの影響を与えていると、お考えですか?」
「せ、生産性…?」
国王は、もはや、何を言われているのか、理解できなかった。
ザフキエルは、さらに、クリップボードを、国王の目の前に、突きつけた。
そこには、おびただしい数の、グラフと、数字が、びっしりと、書き込まれている。
「衛兵の、交代の際の、足音のデシベル数。許容範囲を、三デシベル、オーバーしています。これは、長期的に見て、国王の聴覚に、悪影響を及ぼす可能性があります」
「玉座の間の、窓から差し込む、太陽光の、ルクス値。午前十時現在、推奨値を、七パーセント下回っています。これは、ビタミンDの生成を阻害し、国王の健康を損なう恐れがあります」
あまりに、細かく、あまりに、科学的で、そして、あまりに、どうでもいい、指摘の、嵐。
国王も、大臣たちも、もはや、怒る気力さえ、失っていた。
ただ、呆然と、この、あまりにも、ズレた天使を、見つめるだけだった。
アイリスは、こめかみを、抑えた。
(…この人、本気で、言っている…)
悪魔アウディトールも、大概だったが、この天使は、それ以上に話が通じないかもしれない。
彼の、振りかざす正義は、あまりに、完璧で、あまりに、人間味が、なさすぎた。
「結論を、申し上げます」
ザフキエルは、クリップボードに、何かを、書き込みながら、冷たく、言い放った。
「この、玉座の間の、謁見作法は、天界の規定に対し、全体で、約三パーセントほど、非効率です。これは、由々しき事態です。速やかなる改善を要求します」
静寂。
その、あまりの理不尽さに、アイリスは、眩暈を覚えた。
『…なんだ、こいつは』
アイリスの脳内に、久しぶりに、ノクトの、心底、うんざりしたような声が、響いた。
彼は、自室の塔で、遠見の水盤に映し出された、その、あまりにシュールな光景を、眺めていた。
『俺の、ポテチの味を、変えやがった、犯人が、こいつか…。…なるほどな。俺以上の、面倒くささの、化身と見た』
ザフキエルは、満足げに頷くと、クリップボードを、懐にしまった。
「本日の、監査は、以上です。後日、改善状況を、確認しに、また、伺いますので」
彼は、ぺこり、と、また、事務的に、頭を下げた。
「それでは、皆様、健全な、法令遵守を、心がけるように」
彼は、それだけ言うと、来た時と同じように、純白の羽根を数枚残して、音もなく、消えていった。
後に残されたのは、あまりの理不尽さに、ただ、立ち尽くす、国王と、その臣下たちだけだった。
国王は、力なく、玉座に、崩れ落ちた。
「…アルトリウス」
「…はっ」
「…朕の、頷きの角度は、本当に、浅かっただろうか…?」
「…陛下。滅相も、ございません…」
騎士団長の、その慰めの言葉は、ひどく、力なく、響いた。
アイリスは、深いため息をついた。
彼女の、そして、王国の、新たな、そして、最も面倒くさい戦いが、今、静かに、幕を開けたことを、悟りながら。
それは、剣も、魔法も、通用しない、ただ、「正論」という名の、絶対的な暴力との、戦いだった。




