第三十話 そして聖女は旅に出る
聖女の執務室に響き渡った、深くて長いため息。
それは、天使との死闘(という名の、壮大な茶番劇)を終えた安堵と、間髪入れずに下された新たな理不尽に対する魂からの絶望が、完璧にブレンドされた、芸術的な響きを持っていた。
(幻の…サワークリームオニオン味…ですって…?)
アイリスは、机に突っ伏したまま、その、あまりに平和で、あまりに俗っぽい単語を、頭の中で反芻していた。
悪魔の契約書でも、天界の是正勧告書でもない。
ただの、ポテトチップスの、フレーバー名。
それが、今、彼女に与えられた、次なる試練の、正式名称だった。
数日前まで、この世界の「論理」や「秩序」のあり方について、壮大な問答を繰り広げていたのが、遠い昔の出来事のようだ。
結局のところ、この世界を支配しているのは、論理でも、秩序でも、混沌でもない。
ただ、一人の『神』の、その日の気分だけなのだ。
彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。
その瞳には、もはや、絶望の色はない。
一周回って、悟りの境地に近い、穏やかな虚無が、そこにはあった。
(…そうですね。分かりました。行きましょう、隣国へ。ええ、行きますとも)
抵抗は、無意味だ。
なぜなら、あの『神』は、自らが望むものを手に入れるまで、決して諦めないのだから。
そして、その過程で、どれだけ世界が混沌に陥ろうと、知ったことではないのだ。
彼女は、一枚の羊皮紙を取り出すと、震えることのない、落ち着いた文字で、こう書き記した。
『緊急招集。作戦名:ポテチ買ってきます』
数時間後。
いまだ、壁に巨大な風穴が空いたままの、作戦会議室。
アイリス分隊の、主要メンバーが、再び、顔を揃えていた。
アイリスは、淡々と、そして、一切の感情を排した声で、今回の任務の概要を、説明した。
「―――以上が、神様からの、新たな神託です。我々は、一週間以内に、隣国アヴァロンへ赴き、『幻のサワークリームオニオン味ポテチ』を、入手しなければなりません」
静寂。
ギルも、ジーロスも、テオも、そして、いつの間にか部屋の隅で蝶の標本を眺めていたシルフィも、ぽかんとした顔で、アイリスを見つめていた。
やがて、最初に、その沈黙を破ったのは、ギルだった。
「…ぽ、ぽてち…で、ありますか?」
「はい。ポテチです」
「あの、塩辛くて、美味しい…?」
「ええ、そのポテチです」
ギルの、単純な脳が、任務の、あまりのスケールの小ささに、理解が追いついていない。
だが、彼は、すぐに、いつもの、ポジティブな思考回路へと、強制的に切り替えた。
「おおお! さすがは、姉御! そして、神様! 一見、些細な任務に見せかけて、その実、我々の、忠誠心を試しておられるのでありますな! 分かります! 隣国へのお使い! それはすなわち、我が国の威信を懸けた、外交任務! このギル、命に代えても、そのポテチを、手に入れてみせるでありますぞ!」
彼は、一人で、勝手に、壮大な物語を、脳内で創り上げていた。
次に、口を開いたのは、ジーロスだった。
「…隣国、アヴァロン…。ノン…」
彼は、扇子で、顔を覆い、深く、深いため息をついた。
「あの国ほど、美学の欠片もない、退屈な国は、ないのだよ…。全てが、機能性重視。合理的で、整然としていて、面白みのかけらもない。…まるで、あの天使が、創り上げたような、国だ」
彼は、心底、行きたくないようだった。
だが、ふと、彼の脳裏に、一つの、素晴らしいアイデアが、閃いた。
「…だが、待てよ。…そうだ。僕が、あの、退屈な国へ、赴く意味。それは、神が、与えたもうた、試練! あの、無味乾燥な世界に、僕の、この『混沌の美学』を、布教せよという、天啓なのだ! よろしい! この僕が、アヴァロンの、灰色の大地に、芸術の、革命の嵐を、巻き起こしてご覧にいれよう!」
彼もまた、一人で、勝手に、壮大な使命感を、見出していた。
そして、テオは。
彼の、頭は、すでに、金勘定で、フル回転していた。
「…ひひひ…。隣国でしか、売られていない、幻の、ポテチ…。…おい、アイリス。その、神様とやらは、それを、いくつ、欲しがってるんだい?」
「…さあ。とりあえず、一つ、としか…」
「馬鹿野郎! 一つなわけが、ねえだろうが!」
テオは、叫んだ。
「いいか! これは、ビジネスだ! 『幻』ってことは、希少価値があるってことだ! それを、俺たちが、独占的に、輸入するルートを、開拓するんだよ! まずは、ありったけを、買い占める! そして、我が国で、『神のポテチ』として、十倍の値段で、売りさばく! これで、俺が、天使のせいで被った、損害賠償金、金貨一万枚も、お釣りがくるぜ…!」
彼の瞳は、すでに、金貨の輝きで、爛々と燃えていた。
そして、最後に、シルフィが、こてん、と首を傾げた。
「あのう…。隣の国には、きれいなお花畑は、ありますか?」
誰も、彼女の、その、あまりに純粋な問いに、答えることはできなかった。
アイリスは、目の前で繰り広げられる、いつも通りの、混沌とした光景を、ただ、黙って、見つめていた。
忠誠心に燃える、筋肉馬鹿。
歪んだ使命感に燃える、ナルシスト。
底なしの金儲けに燃える、詐欺師。
そして、ただ、お花畑のことしか考えていない、天然エルフ。
誰一人として、まともな人間は、いない。
誰一人として、頼りになる人間は、いない。
だが、不思議と、先ほどまでの、あの、虚無感は、消えていた。
代わりに、彼女の心に宿っていたのは、諦めと、ほんの少しの、呆れたような、笑いだった。
(…そうですね。これが、私の日常でした)
理不尽な神託。
混沌とした仲間たち。
そして、その、全てに、振り回される、自分。
それは、不幸なことなのかもしれない。
だが、退屈では、決して、なかった。
彼女は、すっくと立ち上がると、その、どうしようもなく手のかかる、しかし、どこか憎めない分隊員たちを、見渡した。
そして、意を決して告げた。
「…皆さん。この任務は、私一人で、静かに行ってまいります。皆様は、王都で待機していてください」
それは、リーダーとして、最も合理的で、正しい判断のはずだった。
だが、彼女の分隊員たちが、その「正論」を受け入れるはずがなかった。
「何を仰るでありますか姉御!」
最初に異を唱えたのは、ギルだった。
「隣国への、それも姉御一人での潜入など、このギルが断じて許しません! 姉御の盾となるのが、我が存在意義! この命に代えても、お供させていただきます!」
「ノン! 君は分かっていない!」
ジーロスが、扇子を広げて続く。
「あの美のかけらもない灰色の国へ、君という最高の芸術品を、一人で行かせるなど、美的センスに対する冒涜だ! 僕が同行し、君という存在の美しさを、かの国の俗物どもに見せつけるための、最高の演出をしてあげなければ!」
「おいおい、隊長、正気か?」
テオが、呆れたように腕を組んだ。
「『幻の』限定品だぞ? こいつは下手をすりゃ国家間の取引になるかもしれねえ。そんな大事な交渉を、あんた一人に任せられるかよ。俺様の交渉術が必要だろうが!」
「えっ? アイリス様、私は行かないのですか?」
最後に、シルフィが、純粋な瞳で首を傾げた。
「冒険ですよね? 私、行きます! きれいなお花、あるかもしれませんし!」
アイリスは、頭を抱えた。
守護、演出、交渉、そして、純粋な好奇心。
彼らの、あまりに自分勝手で、あまりに力強い、しかし、どこか心からの「同行したい」という意志の奔流。
それを、今の彼女に、止める術はなかった。
「……………はぁぁぁぁぁぁぁ……」
その日、一番、深くて、長いため息が、聖女の執務室に、虚しく響いた。
「…分かりました。…全員で、行きます…。準備をしなさい…」
こうして、悪魔との契約を破棄し、天使の監査を退けた、英雄たちの、次なる冒険が、幕を開けた。
その目的は、世界を救うことでも、魔王を討伐することでもない。
ただ、一人の『神』のために、隣国の、幻のポテチを、手に入れること。
史上、最もくだらなく、そして、おそらくは、史上、最も混沌に満ちた旅が、今、始まろうとしていた。
聖女の苦悩は、これからも、まだまだ、続いていくのだった。




