第三話 天使、降臨
王都を覆う、静かなる是正。
その、あまりに完璧すぎて不気味な現象の正体を掴むべく、アイリスが調査を開始してから、数日が経過した。
だが、事態は、一向に進展しなかった。
王都は、日に日に、その「完璧さ」の度合いを増していく。
衛兵の歩哨交代は、秒単位の誤差もなく行われ、市場の商品の価格表示は、全てが寸分の狂いもない美しい手書き文字に統一された。
だが、その変化は、あまりに静かで、あまりに平和的だった。
人々の生活に、直接的な害はない。
それどころか、街は、以前よりも清潔で、安全になっているとさえ言えた。
アイリスが、仲間たちに、この異変の深刻さを訴えても、その反応は芳しくなかった。
「姉御! この、完璧に磨き上げられた床! 素晴らしいではありませんか! 訓練にも、身が入るというものであります!」
「ノン! この、退屈な調和は、僕の芸術を殺す! だが、敵の姿が見えぬ以上、この僕としても、手の出しようがないのだよ!」
「ひひひ…。行儀の良くなった客のせいで、売上は二割減だ。だが、まあ、まだ許容範囲だな。静観させてもらうぜ」
ギルは、もはや環境に順応し、ジーロスとテオは、実害が少ないためか、どこか他人事だった。
アイリスの、孤独な戦いは、続いていた。
その日の午後。
アイリスは、国王レジスからの、緊急の召喚を受けていた。
彼女が、緊張した面持ちで、玉座の間へと向かうと、そこには、国王と、騎士団長アルトリウス、そして、数人の大臣たちが、深刻な表情で、集まっていた。
玉座の間の空気は、張り詰めていた。
普段は、どこか緩慢な空気が流れているこの場所が、今は、まるで戦の前の作戦会議室のような、緊張感に支配されている。
「…アイリス。君も、気づいているな。この、王都の、奇妙な『静けさ』に」
国王は、疲れた声で、言った。
彼の玉座の角度、背筋の伸ばし方、その全てが、まるで教科書のように、完璧な王の姿勢を保っていたが、その瞳には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「ええ、陛下。私も、ここ数日、調査を続けておりましたが、いまだ、原因は…」
「うむ。朕も、宮廷魔術師団に、総力を挙げて、調査を命じた。だが、彼らも、首を傾げるばかりだ。悪意のある魔力の流れは、どこにも感知できない、と。ただ、王都全体が、極めて『正常』な状態へと、調整されている、としか…」
その言葉に、騎士団長アルトリウスが、忌々しげに、言葉を続けた。
「『正常』ですか。陛下。あれは異常です。我が騎士団の者たちは、訓練よりも、武具の角度を揃えることに、執着し始めている。戦士の魂が、完璧という名の病に、蝕まれております」
「財務省も、同じです」
財務大臣のボードワン卿が、胃を押さえながら、訴えた。
「民衆が、あまりに『賢明』になりすぎた結果、市場での、衝動的な買い物が激減しております。このままでは、経済が、あまりに健全になりすぎて、逆に停滞してしまいます…!」
健全すぎる、経済。
それは、もはや、悪夢の喜劇だった。
国王は、深いため息をついた。
「…敵の、正体も、目的も、分からぬ。これでは、手の打ちようがない。…アイリス。君の、その『神』は、何と、言っておられる?」
国王の、その問いに、アイリスは、返答に窮した。
(…神様は…。『味が薄くなったポテチの犯人を許すな』としか…)
とても、この場で、口にできる内容ではなかった。
彼女が、言葉を濁そうとした、まさにその時だった。
―――しん、と。
玉座の間の、全ての音が、消えた。
大臣たちの、ひそひそとした囁き声も、鎧の擦れる音も、窓の外の、風の音さえも。
まるで、世界から、音という概念が、消え去ってしまったかのようだった。
そして、天井の、最も高い場所から、一枚、また一枚と、純白の、柔らかな羽根が、音もなく、舞い落ちてきた。
「な、何者だ!?」
アルトリウスが、剣を抜く。
護衛の騎士たちが、一斉に、国王の前に壁を作った。
だが、その羽根には、敵意も、殺意も、一切、感じられない。
ただ、ひたすらに、神聖で、清らかな魔力だけが、その場を満たしていく。
羽根は、玉座の間の、中央、国王とアイリスの、ちょうど中間地点の、上空で、渦を巻いた。
そして、その羽根が、ゆっくりと、集まり、人の形を、紡ぎ出していく。
最初に、足が、形作られた。
次に、胴体。
そして、腕。
やがて、そこに立っていたのは、一人の、雪のように白いローブを身にまとった青年だった。
その顔には、一切の感情が浮かんでいない。
そして、彼の背中には、その神聖な出自を雄弁に物語る、巨大な一対の翼が、静かにたたずんでいた。
それは、鳥の羽根のような、猛々しいものではない。
もっと、幾何学的で、無機質で、まるで光の結晶そのもので、編み上げられたかのような、美しい、しかし、どこか冷たい印象を与える翼だった。
その翼は、動くことなく、ただ、そこに「在る」だけで、絶対的な存在感を、放っている。
彼は、国王の前にずらりと並んだ剣の壁を、全く意に介することなく、まるで、そこに何もないかのようにすり抜けて、進み出た。
その手には、巨大なクリップボードが、握られている。
その、あまりに神聖で、あまりに場違いな、降臨。
誰もが、息をのんで、その光景を、見守っていた。
アイリスは、本能的に、理解した。
この存在こそが、この数日間の、静かなる異変の、全ての元凶であることを。
青年は、玉座の前に立つと、ぴたり、と足を止めた。
そして、その、感情のない瞳で、玉座に座る国王レジスを、値踏みするように、じろり、と見つめる。
誰もが、何が起きるのかと、身を固くした、その時。
青年は、ぺこり、と、極めて事務的に、頭を下げた。
その、あまりに官僚的な、お辞儀。
そして、彼は、その、初めての言葉を、静かに紡いだ。
「―――国王レジス・ソラリア、ですね」
その声は、男でも、女でもない。
老いても、若くもない。
ただ、絶対的な「正しさ」だけを、感じさせる、無機質な、響きを持っていた。
その、一つの問いかけだけを残して、彼は、黙り込んだ。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、あまりの異常事態に思考が停止した、王国の中枢の人間たちだけだった。
アイリスは、ごくり、と喉を鳴らした。
見えざる敵は、ついに、その姿を現した。
だが、その目的も、その力も、まだ何も分からない。
ただ、その、あまりに完璧で、あまりにズレた存在感が、これから始まる、新たな戦いの面倒くささを、雄弁に物語っていた。




