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第二十九話 聖女の終わらない日常

 天使は去った。

 後に残されたのは、ぽっかりと空いた巨大な風穴と、悪趣味なピンク色に塗られた城壁、そして、地に落ちた一枚のクリップボードだけだった。

 アイリスは、その、主を失った遺品を、そっと胸に抱いた。

 そこに記された最後の言葉、『極めて、美しい』という、あまりに人間臭い一文が、彼女の胸を締め付ける。


 戦いは、終わった。

 王国を、いや、アイリス分隊を襲った、史上最も理不尽で、最も生真面目な「正しさ」の嵐は、過ぎ去ったのだ。

 ようやく、平穏な日常が戻ってくる。

 そう、誰もが、信じていた。

 あまりにも混沌とし、そして、ある意味で、以前よりもさらに厄介になった、日常へと。


 その、静寂を、最初に打ち破ったのは、やはり、激情のギルだった。

「うおおおおおおっ! 聞いたでありますか、皆の者!」

 彼は、天に拳を突き上げ、高らかに宣言した。

「我々の、この、熱き魂が! 天界の、生ぬるい正論に、勝利したのでありますぞ! これぞ、情熱の、完全勝利であります!」

 彼の、あまりに単純な、そして、あまりに都合のいい解釈。

 彼は、ザフキエルが自滅したという事実を、完全に自らの手柄だと信じ込んでいた。

「もはや、我々を縛るものは何もない! さあ、訓練を再開するであります! まずは、この城を、全員で肩車して、王都の周りを、三周するでありますぞ!」

 彼の、あまりに理不尽な檄が、再び、訓練場に木霊する。

 騎士たちの、短い平穏は、終わりを告げた。

 彼らの顔には、「あの天使様がいた頃の方が、まだ平和だった…」という、絶望の色が浮かんでいた。


 王立魔術学院では、光輝魔術師ジーロスが、祝杯を挙げていた。

「ノン! 見たまえ、我が愛すべき生徒たちよ! あの、無粋な天使が残した光学迷彩(醜悪な幻影)は、僕の、真の美の前では、塵芥に等しかった!」

 彼は、魔法で、自らが創り上げた石造りの幻影を、 勝ち誇ったように消し去った。

 その下から現れたのは、本来の、プラチナとダイヤモンドで輝く、悪趣味な校舎。

 だが、今の彼には、それすらも、もはや過去の作品だった。

「あの天使は、僕に、教えてくれたのだよ! 真の美とは、秩序の中にではなく、混沌の中にこそ宿るのだ、と! さあ、祝祭の始まりだ! この、退屈な校舎を、全て、僕の、新たな芸術様式『混沌のプリズム』で、虹色に染め上げてあげよう!」

 王国の財務大臣が、その言葉を遠くで聞きつけ、再び、胃を押さえて卒倒したのは、言うまでもない。


 そして、不徳の神官テオは、すでに、次の商売の準備を、始めていた。

「ひひひ…! 時代は、法令遵守(コンプライアンス)じゃねえ! 時代は、『反逆』よ!」

 彼は、『天界公認』の看板を、叩き割ると、新たな看板を、掲げた。

 その名も、『元祖・反逆の英雄商店』。

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! こちらは、あの、お堅い天使様を、見事、この世界から追い出したという、ありがたい『英雄のブロマイド』だ! 一家に一枚、飾っておけば、面倒な監査も、税務調査も、きっと、怖くはねえ!」

 彼が売り出したのは、ギルが城壁を持ち上げる瞬間の絵と、ジーロスが城をピンクに塗る瞬間の絵、そして、シルフィが小麦粉まみれで笑っている絵だった。

 その、あまりに悪趣味なブロマイドは、なぜか、日頃の鬱憤が溜まっていた民衆に、爆発的に売れた。

 彼の、信仰ビジネスは、混沌と共に、完全復活を遂げたのだった。


 その頃、王城の最も高い塔。

 一人の『神』は、静かに、その瞬間を、待っていた。

 ノクト・ソラリア。

 彼の、個人的な、しかし、あまりに壮大な復讐劇は、彼の完全勝利で、幕を閉じた。

 その報告は、彼が張り巡らせた情報網によって、即座に、ソルトリッジ社の本社工場へと届けられていた。

 コン、コン。

 塔の扉を、ノックする音。

「…入れ」

 入ってきたのは、国王直属の侍従だった。

 その手には、一つの、銀色に輝く盆。

 そして、その上に、恭しく置かれていたのは、一袋のポテトチップスだった。

 袋には、力強い文字で、こう書かれている。

 『濃厚コンソメ・ストロングソルト味』。

 侍従は、深々と頭を下げると、音もなく部屋を出ていった。

 ノクトは、ゆっくりと、その、勝利のトロフィーを、手に取った。

 彼の、神聖な儀式が、始まる。

 パリ、と。

 小気味よい、開封の音。

 袋から立ち上る、暴力的なまでの、コンソメの香りと、食欲を刺激する、塩の香り。

 これだ。

 これこそが、彼が、この数日間、渇望してやまなかった、本物の、香りだった。

 彼は、一枚の、完璧な黄金色のチップスを、指でつまみ上げる。

 表面に、惜しげもなくまぶされた、大粒の岩塩が、光を反射して、キラキラと輝いていた。

 彼は、厳かに、その、至高の一枚を、口へと運んだ。

 ―――ザクッ。

 完璧な歯ごたえと共に、脳天を突き抜ける、衝撃。

 濃厚なコンソメの旨味と、ストロングな塩気が、彼の舌の上で、爆発した。

 失われていた、味が、する。

 病人食のような、優しさではない。

 体に悪いと分かっていながら、決してやめることのできない、背徳的な、うまさの暴力。

「……ふぅ」

 彼は、至福のため息をついた。

 口の中に広がる、幸福の余韻を、ゆっくりと味わう。

「…やれやれ。これで、ようやく、世界に、平穏が戻ったな」

 彼は、満足げに頷くと、再び、コントローラーを握りしめた。

 彼の、完璧な引きこもりライフを脅かすものは、もはや、この世界のどこにも存在しない。

 彼は、心から、そう信じていた。


 その、数日後。

 聖女アイリスは、自室で、山のように積まれた、報告書の山に、目を通していた。

 ギルの、器物損壊報告書。

 ジーロスの、追加予算請求書。

 テオの、悪徳商法に関する、苦情の手紙。

 その、全てが、頭の痛くなるような、混沌の産物。

 だが、不思議と、彼女の心は、穏やかだった。

 あの、天使がいた頃の、息の詰まるような「正しさ」に比べれば、この、どうしようもなく手のかかる混沌の方が、よほどマシだった。

(…ようやく、終わったのですね…)

 彼女は、そっと、窓の外に広がる夕焼け空を眺めた。

 本当に、長い、戦いだった。

 彼女は、心からの、安堵のため息をついた。

 その、あまりに無防備な彼女の脳内に、久しぶりに、あの、尊大で、理不尽な『神』の声が響き渡ったのは、まさにその時だった。

『―――新人』

 びくり、と、アイリスの肩が跳ねた。

 その声は、どこか、上機嫌だった。

『緊急クエストだ』

(…き、緊急…クエスト…?)

 嫌な予感しか、しなかった。

『―――隣国でしか販売されていないという、『幻のサワークリームオニオン味ポテチ』を、入手せよ。期限は、一週間だ』

 静寂。

 アイリスの、思考が、完全に、フリーズした。

 サワークリーム…オニオン…?

 彼女の、短い平穏は、たった一袋の、ポテトチップスによって、あまりにも、あっけなく、終わりを告げた。

「……………はぁぁぁぁぁぁぁ……」

 その日、一番、深くて、長いため息が、聖女の執務室に、虚しく響いた。

 聖女の苦悩は、これからも、続いていくのだった。

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