表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/30

第二十八話 天使、敗北する

 美しい。

 その、たった一言が、監査官ザフキエルの、数万年にわたって築き上げてきた完璧な論理の世界を、木っ端微塵に粉砕した。

 彼の、虚ろな瞳に映るのは、相も変わらず、混沌の極みとも言うべき光景だ。

 破壊の権化(ギル)が、自らが破壊した城壁の瓦礫を手に無邪気に笑う天然の化身(シルフィ)を見て、なぜか誇らしげに涙ぐんでいる。

 その、意味不明な感動の場面を、ナルシストの芸術家(ジーロス)が、自己満足の極みである七色の光でライトアップし、その光景を、強欲な詐欺師(テオ)が、「感動有料」などという、倫理観の欠片もない看板を掲げて、金に換えようとしている。

 非効率。非論理。無秩序。

 彼の監査基準に照らし合わせれば、ここにいる全員が、即刻「是正」され、天界の法に基づき、厳罰に処されるべき、法令遵守(コンプライアンス)違反の塊だった。

 だが、今の彼の心には、その「正しさ」を執行しようという意志は、もはや、一片たりとも残されてはいなかった。

 ただ、目の前の光景が、なぜか、どうしようもなく、眩しく見えた。

 まるで、初めて見る、太陽のように。

 あるいは、生まれて初めて聴く、音楽のように。

 彼の、完璧に整然としていたはずの、モノクロームの世界が、今、この瞬間、暴力的なまでの原色で、塗りつぶされていく。

 その、あまりの情報の奔流に、彼の思考回路は、完全に焼き切れてしまった。


「…あ…」

 ザフキエルは、震える手で、虚空を掴もうとした。

 何かを、掴まなければ。

 何か、確かなものを。

 自らの存在を、この世界に繋ぎ止めるための、確固たる「論理」を。

 だが、彼の指先は、虚しく空を切るだけだった。

 もはや、彼が信じるべき「正しさ」など、どこにも存在しなかったのだから。

 彼は、ゆっくりと、立ち上がろうとした。

 だが、その膝には、力が入らない。

 彼の力の源泉である、聖なる魔力。

 それは、この数日間の、シルフィという名の無限地獄の接待によって、思考エネルギーとして、ほとんどを使い果たしてしまっていた。

 彼の背中に、おぼろげに残っていた光の翼が、最後の輝きを放ち、そして、はかなく霧散する。

 天使が、その翼を失った瞬間だった。

 彼は、全ての混沌の中心に立つ、聖女アイリスへと、その、焦点の定まらない瞳を向けた。

 彼女は、ただ、静かに、そして、どこか哀れむような瞳で、彼を見つめ返していた。

 敵意はない。

 嘲笑もない。

 ただ、そこにあるのは、この、どうしようもなく不完全で、どうしようもなく混沌とした世界を、丸ごと受け入れるという、慈母のような、絶対的な肯定。

 その、瞳を見た瞬間、ザフキエルは、全てを、悟った。

 自分は、負けたのだ、と。

 剣でも、魔法でもない。

 ただ、この世界の、ありのままの「生命力」の前に、完膚なきまでに、敗れ去ったのだ。

「……データが…」

 彼の、乾いた唇から、か細い、最後の報告が、漏れた。

「……データが、矛盾します……」

 彼は、ゆっくりと、首を横に振った。

 その瞳には、もはや、何の光も宿っていない。

「この世界は…、是正するには……あまりにも、非論理的、すぎます…」

 それが、彼の、最後の言葉だった。

 次の瞬間、彼の体が、足元から、ゆっくりと、光の粒子となって、崩れ始めた。

 まるで、役目を終えた、プログラムが、自らを消去していくかのように。

 静かで、穏やかで、そして、どこか、安らかな、消滅。

「あ…!」

 アイリスが、思わず、手を伸ばす。

 だが、その指先が、彼に触れることはなかった。

 ザフキエルの体は、すでに、その輪郭を失い、無数の光の粒となって、作戦会議室の、砕け散った窓から、空へと舞い上がっていく。

 その光は、まるで、タンポポの綿毛のように、風に乗り、青い空へと、吸い込まれていった。

 ほんの数秒後。

 そこに、天使がいたという痕跡は、彼の落としたクリップボードと、床に散らばった数枚の羊皮紙を除いては、何も残されてはいなかった。

 天界からの、厳格で、生真面目で、そして、どこまでもズレていた監査官は、こうして、自らの意志で、この世界から去っていったのだ。


 後に残されたのは、絶対的な、静寂。

 そして、あまりの結末に、ただ、呆然と立ち尽くす、アイリス分隊の、面々だけだった。

 最初に、その沈黙を破ったのは、ギルだった。

「…あ、姉御…。あの、天使殿は…、いったい、どこへ…?」

「…天界へ、お帰りになったのです。…自らの、意志で」

 アイリスは、そう答えるのが、精一杯だった。

 ジーロスは、天に昇っていく、最後の光の粒子を見送りながら、扇子で、そっと、目元を覆った。

「…ノン。…最後まで、美しくない、去り方だったな。…だが、まあ、彼なりに何かを見つけたというのなら、それもまた、一つの芸術の形なのかもしれないね」

 その、どこか感傷的な呟きを、テオの下品な声が、打ち消した。

「ひひひ…! おいおい、マジかよ! あの、堅物天使、帰っちまったのか!? せっかく、俺様の『有料観覧席』ビジネスが、軌道に乗り始めたってのによぉ! …ちっ、今日の売上、銀貨十三枚。…大赤字じゃねえか…」

 彼は、舌打ちをしながら、そろばんを弾き始めた。

 相も変わらず、混沌とした、英雄たちの日常。

 ザフキエルが、最後まで理解できなかった、「混沌(カオス)調和(アンサンブル)」が、そこには、あった。

 アイリスは、床に落ちた、クリップボードを、そっと拾い上げた。

 そこに、かすれた文字で書き殴られていた、最後の、観察記録。

『―――結論。…この世界の調和は、是正不能。…ただし、極めて、美しい』

 その、あまりに人間臭い、最後の言葉に、アイリスは、知らず知らずのうちに、頬に、一筋の涙が伝っていることに、気づいた。

 それは、勝利の涙ではなかった。

 ただ、一人の、あまりに生真面目すぎた天使の、その、不器用な魂に対する、ほんの少しだけの、(はなむけ)の涙だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ