第二十八話 天使、敗北する
美しい。
その、たった一言が、監査官ザフキエルの、数万年にわたって築き上げてきた完璧な論理の世界を、木っ端微塵に粉砕した。
彼の、虚ろな瞳に映るのは、相も変わらず、混沌の極みとも言うべき光景だ。
破壊の権化が、自らが破壊した城壁の瓦礫を手に無邪気に笑う天然の化身を見て、なぜか誇らしげに涙ぐんでいる。
その、意味不明な感動の場面を、ナルシストの芸術家が、自己満足の極みである七色の光でライトアップし、その光景を、強欲な詐欺師が、「感動有料」などという、倫理観の欠片もない看板を掲げて、金に換えようとしている。
非効率。非論理。無秩序。
彼の監査基準に照らし合わせれば、ここにいる全員が、即刻「是正」され、天界の法に基づき、厳罰に処されるべき、法令遵守違反の塊だった。
だが、今の彼の心には、その「正しさ」を執行しようという意志は、もはや、一片たりとも残されてはいなかった。
ただ、目の前の光景が、なぜか、どうしようもなく、眩しく見えた。
まるで、初めて見る、太陽のように。
あるいは、生まれて初めて聴く、音楽のように。
彼の、完璧に整然としていたはずの、モノクロームの世界が、今、この瞬間、暴力的なまでの原色で、塗りつぶされていく。
その、あまりの情報の奔流に、彼の思考回路は、完全に焼き切れてしまった。
「…あ…」
ザフキエルは、震える手で、虚空を掴もうとした。
何かを、掴まなければ。
何か、確かなものを。
自らの存在を、この世界に繋ぎ止めるための、確固たる「論理」を。
だが、彼の指先は、虚しく空を切るだけだった。
もはや、彼が信じるべき「正しさ」など、どこにも存在しなかったのだから。
彼は、ゆっくりと、立ち上がろうとした。
だが、その膝には、力が入らない。
彼の力の源泉である、聖なる魔力。
それは、この数日間の、シルフィという名の無限地獄の接待によって、思考エネルギーとして、ほとんどを使い果たしてしまっていた。
彼の背中に、おぼろげに残っていた光の翼が、最後の輝きを放ち、そして、はかなく霧散する。
天使が、その翼を失った瞬間だった。
彼は、全ての混沌の中心に立つ、聖女アイリスへと、その、焦点の定まらない瞳を向けた。
彼女は、ただ、静かに、そして、どこか哀れむような瞳で、彼を見つめ返していた。
敵意はない。
嘲笑もない。
ただ、そこにあるのは、この、どうしようもなく不完全で、どうしようもなく混沌とした世界を、丸ごと受け入れるという、慈母のような、絶対的な肯定。
その、瞳を見た瞬間、ザフキエルは、全てを、悟った。
自分は、負けたのだ、と。
剣でも、魔法でもない。
ただ、この世界の、ありのままの「生命力」の前に、完膚なきまでに、敗れ去ったのだ。
「……データが…」
彼の、乾いた唇から、か細い、最後の報告が、漏れた。
「……データが、矛盾します……」
彼は、ゆっくりと、首を横に振った。
その瞳には、もはや、何の光も宿っていない。
「この世界は…、是正するには……あまりにも、非論理的、すぎます…」
それが、彼の、最後の言葉だった。
次の瞬間、彼の体が、足元から、ゆっくりと、光の粒子となって、崩れ始めた。
まるで、役目を終えた、プログラムが、自らを消去していくかのように。
静かで、穏やかで、そして、どこか、安らかな、消滅。
「あ…!」
アイリスが、思わず、手を伸ばす。
だが、その指先が、彼に触れることはなかった。
ザフキエルの体は、すでに、その輪郭を失い、無数の光の粒となって、作戦会議室の、砕け散った窓から、空へと舞い上がっていく。
その光は、まるで、タンポポの綿毛のように、風に乗り、青い空へと、吸い込まれていった。
ほんの数秒後。
そこに、天使がいたという痕跡は、彼の落としたクリップボードと、床に散らばった数枚の羊皮紙を除いては、何も残されてはいなかった。
天界からの、厳格で、生真面目で、そして、どこまでもズレていた監査官は、こうして、自らの意志で、この世界から去っていったのだ。
後に残されたのは、絶対的な、静寂。
そして、あまりの結末に、ただ、呆然と立ち尽くす、アイリス分隊の、面々だけだった。
最初に、その沈黙を破ったのは、ギルだった。
「…あ、姉御…。あの、天使殿は…、いったい、どこへ…?」
「…天界へ、お帰りになったのです。…自らの、意志で」
アイリスは、そう答えるのが、精一杯だった。
ジーロスは、天に昇っていく、最後の光の粒子を見送りながら、扇子で、そっと、目元を覆った。
「…ノン。…最後まで、美しくない、去り方だったな。…だが、まあ、彼なりに何かを見つけたというのなら、それもまた、一つの芸術の形なのかもしれないね」
その、どこか感傷的な呟きを、テオの下品な声が、打ち消した。
「ひひひ…! おいおい、マジかよ! あの、堅物天使、帰っちまったのか!? せっかく、俺様の『有料観覧席』ビジネスが、軌道に乗り始めたってのによぉ! …ちっ、今日の売上、銀貨十三枚。…大赤字じゃねえか…」
彼は、舌打ちをしながら、そろばんを弾き始めた。
相も変わらず、混沌とした、英雄たちの日常。
ザフキエルが、最後まで理解できなかった、「混沌の調和」が、そこには、あった。
アイリスは、床に落ちた、クリップボードを、そっと拾い上げた。
そこに、かすれた文字で書き殴られていた、最後の、観察記録。
『―――結論。…この世界の調和は、是正不能。…ただし、極めて、美しい』
その、あまりに人間臭い、最後の言葉に、アイリスは、知らず知らずのうちに、頬に、一筋の涙が伝っていることに、気づいた。
それは、勝利の涙ではなかった。
ただ、一人の、あまりに生真面目すぎた天使の、その、不器用な魂に対する、ほんの少しだけの、餞の涙だった。




