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第二十七話 美しき矛盾

 アイリスの、あまりに荘厳で、あまりに非論理的なプレゼンテーションは、地に堕ちた天使の魂に、静かに、しかし深く突き刺さっていた。

 監査官ザフキエルの、虚ろな瞳。その中で、先ほどアイリスが紡いだ言葉たちが、意味をなさない記号の羅列となって渦巻いていた。

『炎』『光』『土』『水』…。

 それらが、互いにぶつかり合い、奇跡的なバランスで共存する、動的な世界。

 それが、『混沌(カオス)調和(アンサンブル)』。

 彼の、数万年にわたって築き上げてきた完璧な論理体系が、その、あまりに詩的で、あまりに曖昧な概念によって、根底から揺さぶられていた。

 理解できない。だが、否定もできない。

 彼の、最後の理性が、悲鳴を上げていた。

(…違う。調和とは、秩序だ。法則だ。計算可能な、静的な完璧さだ。この、目の前で繰り広げられている、無秩序な破壊の、どこに、調和があるというのだ…? だが…だが、もし、彼女の言うことが、真実だとしたら…?)

 彼の思考が、無限のループに陥りかけた、まさにその時だった。

「わあ、ただいまでーす!」

 鈴を転がすような、間延びした声。

 その声は、ギルが、先ほど、その有り余る情熱で開通させた、作戦会議室の巨大な風穴から聞こえてきた。

 ひょっこり、と。

 穴の向こうから、銀色の髪を土埃で汚した、一人のエルフの少女が、顔を覗かせた。

 シルフィだった。

「アイリス様ー! 外を探検していたら、ちょうどいい近道ができていました! とっても便利です!」

 彼女は、ギルの破壊行為を、ただの便利な「インフラ整備」だと、完璧に誤解していた。

 だが、彼女が無邪気に足を踏み入れたその場所は、ギルの破壊によって極めて不安定な状態になっていた。

 数トンはあろうかという城壁の上部が、奇跡的なバランスで、かろうじて崩落を免れている。

 そして、シルフィの目は、その、今にも崩れ落ちそうな瓦礫の塊の、ちょうど中心あたりでキラリと光る、一つの鉱石に釘付けになった。

「あ! きれいな石です!」

 彼女は、危険など全く意に介さず、その瓦礫の山へと、てくてくと歩み寄ってしまう。「シルフィ! 危ない!」

 アイリスが叫ぶが、もう遅い。

 シルフィが、その綺麗な石ころに手を伸ばし、瓦礫の山に触れた、その瞬間。

 ギリギリの均衡で保たれていたバランスが崩れ、巨大な瓦礫の塊が、轟音と共に、彼女の頭上へと崩れ落ちてきた。

 誰もが、息を呑んだ。

 だが、その絶望的な光景よりも速く、一陣の風が動いた。

 ギルだった。

 彼は、姉御の仲間を救うべく、いつものように、その剛腕を振るった。

 だが、その動きは、以前の彼とは、全く違っていた。

 瓦礫を殴り飛ばすのではない。それでは、衝撃でシルフィを傷つけてしまう。

 彼は、落下してくる巨大な瓦礫の、その重心の、ほんの一点。

 そこに、まるで針に糸を通すかのように、正確に、人差し指一本を、そっと、添えた。

 轟音を立てて崩落していたはずの瓦礫が、ぴたり、と。

 まるで時が止まったかのように、空中で、完全に静止した。

 彼の、指一本によって。

 それは、ただの怪力ではなかった。

 あの、地獄のような「閨房訓練」で培われた、有り余る力を完璧に制御する、究極の「精密技術」だった。

 ギルは、汗一つかかずに、その数トンの瓦礫を指一本で支えながら、優しく、しかし有無を言わせぬ声で言った。

「シルフィ殿。それは、危ないのであります。…こちらの、安全な石はいかがでありましょうか?」

 彼は、足元に転がっていた、別の安全な石ころをつまみ上げ、彼女に差し出した。

「わあ! ありがとうございます!」

 シルフィは、頭上で何が起こっているのか全く理解しないまま、その石ころを嬉しそうに受け取った。

 ギルは、彼女が安全な場所まで離れたのを確認すると、指一本で支えていた瓦礫を、そっと、安全な方向へと押しやり、静かに、着地させた。


 ザフキエルの、虚ろな瞳が、その、ありえない光景を、捉えていた。

 破壊の化身ギルが、その破壊の産物(瓦礫)を、破壊することなく、完璧に制御し、無垢の化身シルフィを、救った。

 破壊と、制御。激情と、精密。

 その、相反する二つの概念が、今、この一点で、完璧な調和を…。

 彼の目の前で、アイリスが語った「混沌(カオス)調和(アンサンブル)」が、最も美しく、最も非論理的な形で、実演されたのだ。

 その光景を、城壁の残骸の上から眺めていたジーロスの、芸術家としての魂が、雷に打たれたかのように、震えた。

「……ノン」

 彼の口から、恍惚とした、ため息が漏れる。

「…素晴らしい…。なんという、光景だ…。荒ぶる混沌(ギル)が、その破壊の産物(ガレキ)を、究極の技術で制御し、無垢なる混沌(シルフィ)を、救う…。破壊と、守護! 激情と、静寂! これこそが、真の芸術だ! この、奇跡の瞬間を、僕の光で、祝福せずにはいられない!」

 ジーロスが、魔法の刷毛を、天に掲げる。

 すると、彼の有り余る魔力が、七色の光となって、シルフィと、彼女が持つ瓦礫、そして、その隣で感涙にむせぶギルの姿を、柔らかく、そして、極めてドラマチックに、照らし出した。

 ただの瓦礫が、まるで伝説の聖遺物のように輝き、ただの筋肉馬鹿と天然エルフが、神話の一場面の主人公のように、荘厳な光に包まれる。

 光。

 自己主張の激しい、光の混沌。

 その、あまりに幻想的で、あまりに無駄の多い、光の演出。

 その光景を、作戦会議室の窓から眺めていたテオの、商人の魂が、激しく燃え上がった。

「……ひひ」

 彼の口から、乾いた、笑いが漏れる。

「…ひひひ…。ひひひひひひひ! こいつは、とんでもねえ…! とんでもねえ、お宝の山だぜ…!」

 彼は、そろばんを懐にしまうと、部屋を飛び出した。

 そして、城壁の崩壊音を聞きつけて、遠巻きに様子を伺っていた、衛兵や、城の使用人たちの前に立つと、朗々と、宣言した。

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 今、まさに、この場所で、歴史的な奇跡が起ころうとしている! 聖女アイリス様が率いる、英雄たちの、魂の共鳴! 『混沌(カオス)調和(アンサンブル)』の、生演奏だ!」

 彼の、あまりに胡散臭い、しかし、なぜか聞く者を惹きつける口上。

「この、感動の瞬間を、間近で拝める、またとない好機! さあ、そこの旦那! 最前列の、特別有料観覧席は、いかがですかい!? お代は、たったの、銀貨一枚! この感動は、プライスレス!」

 衛兵たちは、一瞬、ためらった。

 だが、ジーロスの光に照らされた、あまりに幻想的な光景と、テオの巧みな口車に乗せられ、次々と財布の紐を緩め始めた。

「お、おい、本当かよ…」

「銀貨一枚で、あの英雄たちの…」

「払う! 俺は、払うぞ!」

 土。

 底なしの、欲望の混沌。


 ザフキエルの目の前で。

 ほんの、数分の間に。

 破壊ギルから生まれた瓦礫モノを、

 無垢シルフィが拾い上げ、

 芸術ジーロスが、その価値を、光で飾り付け、

 商業テオが、その感動を、金に換えた。

 炎が、水と出会い、光がそれを照らし、土が、その全てを飲み込んで、新たな価値を生み出す。

 それは、アイリスが、先ほど、滔々と語った「混沌(カオス)調和(アンサンブル)」の、完璧な実演だった。

 あまりに、無計画で。

 あまりに、無秩序で。

 あまりに、非効率。

 だが、そこには、確かに、何かが生まれていた。

 物語が。

 熱狂が。

 そして、生きている、という、圧倒的なまでの生命力が。

 ザフキエルの、完璧な論理の世界が、ガラガラと、音を立てて崩壊していく。

 彼の、最後の理性が、悲鳴を上げた。

「…理解、不能…。論理的に、破綻している…。非効率の、極みだ…。だが…」

 彼は、震える手で、自らの胸を押さえた。

 その、胸の奥深くで、生まれて初めて感じた、この、温かい感情は、なんだ。

「…なぜだ…。なぜ、この、あまりに楽しそうな光景を…」

 彼の、虚ろな瞳が、ほんの少しだけ、潤んだ。

「―――『美しい』と、感じてしまうのだ…?」

 ぷつり、と。

 彼の頭の中で、最後の理性の糸が、切れる音がした。

 それは、天使の、完全な敗北の瞬間だった。

 そして、塔の上の『神』の、高らかな勝利宣言のファンファーレでもあった。



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