第二十六話 非論理的なプレゼンテーション
天使は、地に堕ちた。
暴力によってではない。
ただ、あまりにも人間臭い、混沌の現実の前に、その完璧な論理を破壊されたのだ。
作戦会議室の床に崩れ落ちた監査官ザフキエルは、もはや動かなかった。
その瞳から光は消え、ただ「…データが、矛盾します…」という呟きだけを、壊れたからくり人形のように、か細く繰り返している。
彼の聖なる魔力は完全に枯渇し、背中の光の翼も、まるで陽光の前の雪のように、はかなく溶けて消えかかっていた。
アイリスは、その、あまりに痛々しい姿に、ほんの少しだけ、罪悪感を覚えた。
だが、脳内に響く、ノクトの、心底満足げな声が、その感傷を打ち消した。
『…よし。奴の、精神パラメータに、マイナス百%の、デバフ効果を確認。…完全に、心が折れたな。…フフフ…あはははは!』
彼の、個人的な復讐は、完璧な形で達成された。
だが、アイリスは、それどころではなかった。
(神様! ザフキエル様は、どうなってしまうのですか!? このままでは、本当に、魂が壊れてしまいます!)
『知ったことか。俺の、ポテチの味を冒涜した、当然の報いだ』
ノクトの声は、どこまでも冷たかった。
『…だが、まあ、このまま放置しておくのも、後味が悪い。それに、壊れた玩具は、もう面白くないからな』
彼の、ゲーマーとしての、飽きっぽさが、ザフキエルの運命を、左右した。
『…いいだろう、新人。奴に、とどめを刺してやれ。…ただし、物理的なとどめではない。もっと、こう、教育的な、指導という名の、精神的な最後の一撃だ』
(さ、最後の一撃…?)
『ああ。奴は、まだ、理解していない。なぜ、自らの完璧な論理が、この混沌に敗北したのかをな。その、最後の答え合わせを、してやろうじゃないか。…奴が、二度と、この世界に干渉しようなどという、愚かな考えを起こさないように、完璧な理論武装で論破してやれ』
それは、もはや聖女の仕事ではなかった。
悪趣味な、大学教授の、それだった。
アイリスは、覚悟を決めた。
「…ギル! ジーロス! テオ!」
彼女の、凛とした声が、混沌の調和に、終止符を打った。
「もう、十分です! その、破壊と、芸術と、悪徳商法を、今すぐやめなさい!」
その、あまりの剣幕に、三人は、ぴたり、と動きを止めた。
「…シルフィは、どこですか」
「あ、姉御! それが、シルフィ殿なら、先ほど、俺が開けた壁の穴から、城の外へと出て行ってしまいましたが…」
「…は?」
「『わあ、近道です!』と、言って…」
「……………」
アイリスは、天を、仰いだ。
この作戦の、最大の功労者であり、最大のトラブルメーカーは、最後の最後で、またしても迷子になっていた。
(…もう、いいです。彼女は、きっと、大丈夫でしょう…)
アイリスは、思考を切り替えた。
彼女は、分隊員たちを引き連れると、床に崩れ落ちたザフキエルの前に立った。
そして、聖女の、慈愛に満ちた、しかし、どこまでも残酷な、微笑みを、浮かべた。
「…ザフキエル様。あなたの、その、純粋な問いに、今、私たちがお答えしましょう」
彼女の、その声に、ザフキエルの、虚ろな瞳が、ゆっくりと、アイリスを捉えた。
「あなたを、打ち破った、『混沌の調和』。その、真髄を」
アイリスは、一歩、前に出た。
まるで、教会の説教壇に立つ、神官のように。
あるいは、学会で、自らの新説を発表する、研究者のように。
彼女の脳内には、ノクトが紡いだ、完璧な、そして、あまりに非論理的な「プレゼンテーション」の原稿が、一言一句、映し出されていた。
「ザフキエル様。あなたは、この世界を、『是正』しようとしました。あなたの、その、完璧な『論理』と『秩序』で、この世界の、全ての『混沌』を、塗りつぶそうとした。…ですが、それこそが、あなたの、根本的な間違いだったのです」
アイリスは、ゆっくりと、仲間たちを、一人、一人、指さしていく。
「まず、ギル」
「は、はい、姉御!」
「彼の、その、有り余る情熱。それは、時に、壁を破壊し、秩序を乱す、『炎』のような混沌です。ですが、その炎がなければ、私たちは、仲間を守るための、盾を得ることは、できなかったでしょう」
「おお…! 姉御…!」
ギルは、自らの破壊行為が肯定されたことに、目に涙を浮かべて、感動している。
「次に、ジーロス」
「フン、僕の出番かね」
「彼の、独善的な美学。それは、時に、城を悪趣味な色に塗りたくり、財政を圧迫する、『光』のような混沌です。ですが、その光がなければ、私たちは、絶望の闇の中で、進むべき道を、見失っていたかもしれません」
「その通り! 美こそが、道標なのだよ!」
ジーロスは、扇子を広げ、満足げに頷いた。
「そして、テオ」
「ひひひ…! 俺様の番か」
「彼の、底なしの強欲。それは、時に、人々を騙し、ルールを捻じ曲げる、『土』のような混沌です。ですが、その欲望がなければ、私たちは、この理不尽なゲームの中で、生き残るための、知恵と、活力を、得ることは、できなかったでしょう」
「へっ! 当たり前だ! 世の中、結局、金と、ハッタリよ!」
テオは、胸を張った。
アイリスは、最後に、今、この場にはいない、一人のエルフを、思い浮かべた。
「そして、シルフィ。彼女の、予測不能な、天然。それは、時に、全てを、かき乱し、計画を、台無しにする、『水』のような混沌です。ですが、その、純粋な流れがなければ、私たちは、凝り固まったあなたの論理の壁を、打ち破ることはできなかった」
その言葉に、ザフキエルは、はっ、とした。
シルフィ。
あの、理解不能な、混沌の、塊。
彼女の、あの、無意味な行動の、数々。
それらが、全て、この、壮大な調和のための、布石だったというのか。
「ザフキエル様。お分かりですか」
アイリスは、両手を広げた。
その姿は、もはや、ただの聖女ではない。
混沌の、全てを、肯定し、受け入れる、慈母神のようだった。
「完璧な調和とは、全てが、整然と、秩序正しく並んでいる、静的な世界のことではありません。それは、ただの死です」
彼女の、その言葉が、ザフキエルの、魂の最も深い場所に、突き刺さった。
「真の調和とは、水のように清らかなシルフィだけでなく、火のように荒々しいギル、光のように自己主張の激しいジーロス、そして、土のように貪欲なテオ…。その、全ての、混沌が、互いに、ぶつかり合い、反発し合い、そして、それでもなお、奇跡的なバランスで共存している、この、動的な世界そのものなのです!」
破壊と、創造。
論理と、非論理。
美と、醜。
その、全てが、渾然一体となって、初めて生まれる、生命の輝き。
「それこそが、私たちが、あなたに示した、『混沌の調和』の、真の姿なのですよ」
アイリスの、あまりにそれらしく、そして、あまりに美しい(ように聞こえる)プレゼンテーション。
それは、ザフキエルの、二元論で構築された、完璧な論理の世界を、根底から覆す、新たな価値観の提示だった。
彼の、虚ろな瞳に、ほんの少しだけ、光が宿り始めていた。




