第二十五話 混沌のアンサンブル
地獄の接待、五日目。
監査官ザフキエルは、ついに、限界を迎えていた。
彼の、天使としての無限のはずの精神力は、シルフィという、あまりに純粋で、あまりに非論理的な、歩く混沌の前で、完全にすり減っていた。
『―――被験体シルフィの行動原理に関する考察、最終報告。結論。…理解、不能』
自動筆記の羽根ペンは、インク切れ寸前の、かすれた文字で、そう結論付けた。
食、歴史、音楽、天文学、そして、運命。
シルフィが、彼に提示した(と彼が思い込んでいる)壮大な教育プログラムは、彼の、完璧な論理の世界を、内側から、完膚なきまでに、破壊したのだ。
彼の頬は、この数日でげっそりとこけ、完璧に整えられていたはずの純白のローブには、インクの染みと、シルフィと遊んだシャボン玉の跡が、まるで現代アートのように付着していた。
そして、何より、彼の背中に生えた光の結晶の翼は、その輝きをほとんど失いかけていた。
聖なる魔力の、枯渇。
それは、天使にとって、存在そのものの危機を意味していた。
(…なぜだ…。なぜ、私は、これほどまでに、消耗している…? …そして、なぜ、あの少女の、次の行動を、これほどまでに、待ち望んでしまっているのだ…?)
彼の、論理的な脳に、初めて、「感情」という、非論理的なノイズが、混じり始めた瞬間だった。
その日の朝。
ザフキエルは、よろめきながら、アイリス分隊の作戦会議室の扉を、ノックした。
もはや、彼に、以前のような、音もなく現れる神秘的な力は、残されていなかった。
扉を開けたアイリスは、その、あまりにみすぼらしい姿に、一瞬、言葉を失った。
「…ザフキエル、様…?」
「…アイリス殿。…そして、分隊員の、皆様」
ザフキエルの、か細い声が、静かな会議室に響いた。
部屋には、アイリスと、なぜか満足げな顔で腕を組むジーロス、そして、そろばんを弾きながらニヤニヤしているテオがいた。
ギルは、まだ、訓練場から戻っていないらしい。
そして、シルフィは、いつも通り、どこかで迷子だった。
「…皆様に、単刀直入に、お伺いします」
ザフキエルは、クリップボードを、震える手で握りしめた。
「シルフィ殿の、あの行動の真意を…、私に、説明していただきたい」
その声は、もはや、監査官の威厳のあるものではなかった。
ただ、答えを求める、一人の迷える求道者の、声だった。
「彼女は、混沌の化身です。ですが、その混沌は、なぜか、私の心を惹きつけてやまない。…あの行動の根底にある、論理を、法則を、どうか私に教えてはいただけないでしょうか…!」
魂からの、悲痛な、叫び。
アイリスは、その、あまりに純粋な問いに、罪悪感で胸が張り裂けそうになった。
(…神様…。もう、十分では、ないでしょうか…。彼を、解放してあげてください…)
彼女の脳内に、ノクトの、冷たい、しかし、確かな、満足感に満ちた声が響いた。
『…よし。奴の、精神パラメータに、マイナス八十%の、デバフ効果を確認。…論理の鎧は完全に剥がれたな。…面白い。実に、面白い』
ノクトは、まだ、このゲームを、終わらせる気は、ないらしかった。
『…いいだろう、新人。奴に、とどめを、刺してやれ』
アイリスは、覚悟を決めた。
彼女は、ザフキエルの、憔悴しきった瞳を、まっすぐに見つめ返すと、聖女の、慈愛に満ちた、しかし、どこまでも残酷な、微笑みを浮かべた。
「…ザフキエル様。あなたのお悩み、よく分かります。ですが、その答えは、私たちが、口で説明できるような、単純なものではありません」
「…と、申しますと…?」
「シルフィの、あの行動は、彼女一人のものでは、ないのです。あれこそが、私たち、アイリス分隊、全員の意志が一つになった時に、初めて生まれる、『混沌の調和』の、現れなのですよ」
もちろん、真っ赤な、嘘だ。
ノクトが、即興で考えた、最もそれらしく、そして、最も確実にザフキエルの論理を破壊するための、悪魔の脚本だった。
「…混沌の…調和…?」
「ええ。情熱のギル、美学のジーロス、そして、欲望のテオ。その、相反する、混沌としたベクトルが、シルフィという、純粋な器を通して、奇跡的なバランスで融合する。…それこそが、私たちの力の源泉なのです」
ザフキエルは、呆然と、その、あまりに哲学的で、あまりに、美しい(ように聞こえる)理論に、聞き入っていた。
彼の、論理的な脳が、その、理解不能な概念を、必死に、解析しようと試みる。
その、彼の最後の理性を粉々に打ち砕く現実の「混沌」が、彼の目の前で繰り広げられることを、まだ、誰も予測していなかった。
―――ドゴォォォォン!!!
突如、城全体が、揺れた。
作戦会議室の壁に巨大な亀裂が走り、窓ガラスが、甲高い音を立てて砕け散る。
「な、なんだ!?」
テオが、叫ぶ。
その、壁の向こうから、聞き慣れた、しかし、今日はどこかいつもよりテンションの高い、ギルの雄叫びが、聞こえてきた。
「姉御ぉおおおおお! 見てくださいでありますか! ついに、やりましたぞ!」
次の瞬間、会議室の壁が、爆発した。
土煙の中から現れたのは、巨大な城壁の破片を誇らしげに掲げる、ギルの姿だった。
「ついに、このギル、歯で、城壁を、持ち上げることに、成功いたしました!」
彼は、自らの成長を、愛する姉御に、見せたかっただけなのだ。
だが、その、あまりに純粋な成長の証は、王城の一部を、物理的に破壊していた。
その、ギルが開けた、巨大な穴の向こう。
王立魔術学院の屋根の上で、ジーロスが、何やら怪しげな儀式を行っているのが見えた。
彼は、巨大な、刷毛のような、魔法の杖を、振り回していた。
「ジーロスじゃねえか! いつの間に、あんなところに!」
テオが、指さす。
「見るがいい、我が愛すべき、混沌の仲間たちよ! そして、絶望するがいい、天界の無粋な天使よ!」
ジーロスの、芝居がかった声が、響き渡る。
「ザフキエルの、監視の目がなくなった今こそ、真の芸術革命の時だ! この、醜悪な、石造りの城を、僕の、情熱の色で、塗り替えてやる!」
彼が杖を一振りすると、巨大なピンク色のペンキのような光の魔法が、滝のように流れ出し、王城の美しい白い壁を、悪趣味なショッキングピンクに塗りたくっていった。
そして、その、城下。
テオの店、『天界公認・公正取引委員会認定ショップ』の前には、黒山の、人だかりが、できていた。
テオ本人が、ここ(作戦会議室)にいるのに、店は、なぜか営業している。
「ひひひ…! おい、アイリス! 見てくれよ!」
テオが、窓の外を、指さした。
店の前で、客引きをしているのは、テオと瓜二つの顔をした、ゴブリンたちだった。
彼らは、テオの顔を模した、精巧なお面を被っていた。
「さあさあ、お立ち会い! 本日限定! 天使様のお墨付き、『是正済み・開運ブレスレット』だよ! これを、身につければ、あなたも、法令遵守間違いなし!」
「なっ…!?」
テオは、ザフキエルの監視がシルフィに集中している隙に、新たな、そして、より悪質なビジネスを、始めていたのだ。
破壊。
芸術テロ。
そして、詐欺商法。
混沌の調和。
ザフキエルは、その、あまりに混沌とした現実を、目の前で、見せつけられていた。
彼の、論理的な脳が、悲鳴を上げる。
(…これが…。これが、『混沌の調和』…?)
アイリスの、あの、美しい言葉が、彼の頭の中で、反響する。
だが、目の前の光景は、美しい調和などでは、断じてなかった。
ただの、無秩序。
ただの、迷惑行為の、オンパレード。
彼の、理想と、現実が、乖離していく。
彼の、完璧な論理の世界が、ガラガラと、音を立てて崩壊していく。
「あ…あ…」
彼は、クリップボードを、取り落とした。
そして、焦点の合わない目で、虚空を見つめ、震える声で呟いた。
「…データが…。データが、矛盾、します…。この世界は、是正するには…あまりにも…非論理的、すぎます…」
彼は、ふらり、と、よろめいた。
そして、その場に、崩れ落ちた。
天使は、地に、堕ちた。
暴力によってではない。
ただ、あまりにも、人間臭い、混沌の、現実の前に、その完璧な論理を破壊されたのだ。
アイリスは、その、あまりに痛々しい姿に、ほんの少しだけ、罪悪感を覚えた。
だが、脳内に響く、ノクトの、満足げな声が、その感傷を打ち消した。
『…よし。奴の、精神パラメータに、マイナス百%の、デバフ効果を確認。…完全に、心が折れたな。…フフフ…あはははは!』
終わりなき、迷子の天使。
その、地獄の接待は、今、最も、混沌とした形で、その、最終楽章を、迎えようとしていた。




