表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/30

第二十五話 混沌のアンサンブル

 地獄の接待、五日目。

 監査官ザフキエルは、ついに、限界を迎えていた。

 彼の、天使としての無限のはずの精神力は、シルフィという、あまりに純粋で、あまりに非論理的な、歩く混沌(カオス)の前で、完全にすり減っていた。

『―――被験体シルフィの行動原理に関する考察、最終報告。結論。…理解、不能』

 自動筆記の羽根ペンは、インク切れ寸前の、かすれた文字で、そう結論付けた。

 食、歴史、音楽、天文学、そして、運命。

 シルフィが、彼に提示した(と彼が思い込んでいる)壮大な教育プログラムは、彼の、完璧な論理の世界を、内側から、完膚なきまでに、破壊したのだ。

 彼の頬は、この数日でげっそりとこけ、完璧に整えられていたはずの純白のローブには、インクの染みと、シルフィと遊んだシャボン玉の跡が、まるで現代アートのように付着していた。

 そして、何より、彼の背中に生えた光の結晶の翼は、その輝きをほとんど失いかけていた。

 聖なる魔力の、枯渇。

 それは、天使にとって、存在そのものの危機を意味していた。

(…なぜだ…。なぜ、私は、これほどまでに、消耗している…? …そして、なぜ、あの少女の、次の行動を、これほどまでに、待ち望んでしまっているのだ…?)

 彼の、論理的な脳に、初めて、「感情」という、非論理的なノイズが、混じり始めた瞬間だった。


 その日の朝。

 ザフキエルは、よろめきながら、アイリス分隊の作戦会議室の扉を、ノックした。

 もはや、彼に、以前のような、音もなく現れる神秘的な力は、残されていなかった。

 扉を開けたアイリスは、その、あまりにみすぼらしい姿に、一瞬、言葉を失った。

「…ザフキエル、様…?」

「…アイリス殿。…そして、分隊員の、皆様」

 ザフキエルの、か細い声が、静かな会議室に響いた。

 部屋には、アイリスと、なぜか満足げな顔で腕を組むジーロス、そして、そろばんを弾きながらニヤニヤしているテオがいた。

 ギルは、まだ、訓練場から戻っていないらしい。

 そして、シルフィは、いつも通り、どこかで迷子だった。

「…皆様に、単刀直入に、お伺いします」

 ザフキエルは、クリップボードを、震える手で握りしめた。

「シルフィ殿の、あの行動の真意を…、私に、説明していただきたい」

 その声は、もはや、監査官の威厳のあるものではなかった。

 ただ、答えを求める、一人の迷える求道者の、声だった。

「彼女は、混沌(カオス)の化身です。ですが、その混沌(カオス)は、なぜか、私の心を惹きつけてやまない。…あの行動の根底にある、論理を、法則を、どうか私に教えてはいただけないでしょうか…!」

 魂からの、悲痛な、叫び。

 アイリスは、その、あまりに純粋な問いに、罪悪感で胸が張り裂けそうになった。

(…神様…。もう、十分では、ないでしょうか…。彼を、解放してあげてください…)

 彼女の脳内に、ノクト()の、冷たい、しかし、確かな、満足感に満ちた声が響いた。

『…よし。奴の、精神パラメータに、マイナス八十%の、デバフ効果を確認。…論理の鎧は完全に剥がれたな。…面白い。実に、面白い』

 ノクトは、まだ、このゲームを、終わらせる気は、ないらしかった。

『…いいだろう、新人。奴に、とどめを、刺してやれ』

 アイリスは、覚悟を決めた。

 彼女は、ザフキエルの、憔悴しきった瞳を、まっすぐに見つめ返すと、聖女の、慈愛に満ちた、しかし、どこまでも残酷な、微笑みを浮かべた。

「…ザフキエル様。あなたのお悩み、よく分かります。ですが、その答えは、私たちが、口で説明できるような、単純なものではありません」

「…と、申しますと…?」

「シルフィの、あの行動は、彼女一人のものでは、ないのです。あれこそが、私たち、アイリス分隊、全員の意志が一つになった時に、初めて生まれる、『混沌(カオス)調和(アンサンブル)』の、現れなのですよ」

 もちろん、真っ赤な、嘘だ。

 ノクトが、即興で考えた、最もそれらしく、そして、最も確実にザフキエルの論理を破壊するための、悪魔の脚本だった。

「…混沌(カオス)の…調和(アンサンブル)…?」

「ええ。情熱のギル、美学のジーロス、そして、欲望のテオ。その、相反する、混沌としたベクトルが、シルフィという、純粋な器を通して、奇跡的なバランスで融合する。…それこそが、私たちの力の源泉なのです」

 ザフキエルは、呆然と、その、あまりに哲学的で、あまりに、美しい(ように聞こえる)理論に、聞き入っていた。

 彼の、論理的な脳が、その、理解不能な概念を、必死に、解析しようと試みる。

 その、彼の最後の理性を粉々に打ち砕く現実の「混沌」が、彼の目の前で繰り広げられることを、まだ、誰も予測していなかった。


 ―――ドゴォォォォン!!!


 突如、城全体が、揺れた。

 作戦会議室の壁に巨大な亀裂が走り、窓ガラスが、甲高い音を立てて砕け散る。

「な、なんだ!?」

 テオが、叫ぶ。

 その、壁の向こうから、聞き慣れた、しかし、今日はどこかいつもよりテンションの高い、ギルの雄叫びが、聞こえてきた。

「姉御ぉおおおおお! 見てくださいでありますか! ついに、やりましたぞ!」

 次の瞬間、会議室の壁が、爆発した。

 土煙の中から現れたのは、巨大な城壁の破片を誇らしげに掲げる、ギルの姿だった。

「ついに、このギル、歯で、城壁を、持ち上げることに、成功いたしました!」

 彼は、自らの成長を、愛する姉御に、見せたかっただけなのだ。

 だが、その、あまりに純粋な成長の証は、王城の一部を、物理的に破壊していた。


 その、ギルが開けた、巨大な穴の向こう。

 王立魔術学院の屋根の上で、ジーロスが、何やら怪しげな儀式を行っているのが見えた。

 彼は、巨大な、刷毛のような、魔法の杖を、振り回していた。

「ジーロスじゃねえか! いつの間に、あんなところに!」

 テオが、指さす。

「見るがいい、我が愛すべき、混沌の仲間たちよ! そして、絶望するがいい、天界の無粋な天使よ!」

 ジーロスの、芝居がかった声が、響き渡る。

「ザフキエルの、監視の目がなくなった今こそ、真の芸術革命の時だ! この、醜悪な、石造りの城を、僕の、情熱の色で、塗り替えてやる!」

 彼が杖を一振りすると、巨大なピンク色のペンキのような光の魔法が、滝のように流れ出し、王城の美しい白い壁を、悪趣味なショッキングピンクに塗りたくっていった。


 そして、その、城下。

 テオの店、『天界公認・公正取引委員会認定ショップ』の前には、黒山の、人だかりが、できていた。

 テオ本人が、ここ(作戦会議室)にいるのに、店は、なぜか営業している。

「ひひひ…! おい、アイリス! 見てくれよ!」

 テオが、窓の外を、指さした。

 店の前で、客引きをしているのは、テオと瓜二つの顔をした、ゴブリンたちだった。

 彼らは、テオの顔を模した、精巧なお面を被っていた。

「さあさあ、お立ち会い! 本日限定! 天使様のお墨付き、『是正済み・開運ブレスレット』だよ! これを、身につければ、あなたも、法令遵守(コンプライアンス)間違いなし!」

「なっ…!?」

 テオは、ザフキエルの監視がシルフィに集中している隙に、新たな、そして、より悪質なビジネスを、始めていたのだ。


 破壊。

 芸術テロ。

 そして、詐欺商法。

 混沌(カオス)調和(アンサンブル)

 ザフキエルは、その、あまりに混沌とした現実を、目の前で、見せつけられていた。

 彼の、論理的な脳が、悲鳴を上げる。

(…これが…。これが、『混沌(カオス)調和(アンサンブル)』…?)

 アイリスの、あの、美しい言葉が、彼の頭の中で、反響する。

 だが、目の前の光景は、美しい調和などでは、断じてなかった。

 ただの、無秩序。

 ただの、迷惑行為の、オンパレード。

 彼の、理想と、現実が、乖離していく。

 彼の、完璧な論理の世界が、ガラガラと、音を立てて崩壊していく。

「あ…あ…」

 彼は、クリップボードを、取り落とした。

 そして、焦点の合わない目で、虚空を見つめ、震える声で呟いた。

「…データが…。データが、矛盾、します…。この世界は、是正するには…あまりにも…非論理的、すぎます…」

 彼は、ふらり、と、よろめいた。

 そして、その場に、崩れ落ちた。

 天使は、地に、堕ちた。

 暴力によってではない。

 ただ、あまりにも、人間臭い、混沌の、現実の前に、その完璧な論理を破壊されたのだ。

 アイリスは、その、あまりに痛々しい姿に、ほんの少しだけ、罪悪感を覚えた。

 だが、脳内に響く、ノクト()の、満足げな声が、その感傷を打ち消した。

『…よし。奴の、精神パラメータに、マイナス百%の、デバフ効果を確認。…完全に、心が折れたな。…フフフ…あはははは!』

 終わりなき、迷子の天使。

 その、地獄の接待は、今、最も、混沌とした形で、その、最終楽章を、迎えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ